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ここは地獄の一丁目  作者: 川合 佑樹


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第13話

 貴賓席の手すりに片肘をつき、マモが砂地のエイリを見下ろしていた。

 鋭い眼光は獲物の急所を探る肉食獣そのものだ。

 一方、エルはソファの背にゆったりと体を預け、扇子で口元を隠しながら微笑む。

 細い指が扇子の骨を小さく鳴らし、静寂を規則正しく刻んでいく。

 マモが踵を返し、太い腕を胸の前で固く組んだ。

 エルを見据える瞳は、まるで岩を削り取るような重さを帯びていた。

「……黙っておったな、エル」

 声は地鳴りのように低く、部屋の空気を一瞬で凍らせる。

 マモの眉間に深い皺が刻まれ、顎の筋がぎりと鳴った。

 エルは扇子を優しく畳み、膝の上で静かに重ねる。

 窓の外へ顔を向け、エイリの遠ざかる背中を目で追うように首を傾けた。

「えぇ。聞かれませんでしたから」

 柔らかな声の底に、氷のような冷たさが沈んでいる。

 マモの拳が、音もなくぎゅっと握りしめられた。

「あの少年……確か会議のときにいた。ベルの……」

 エルは首をわずかに巡らせ、マモの方へ視線を戻す。

 扇子を半開きにして口元を隠し、その奥で薄く笑う瞳が妖しく光った。

「マモ。彼に手出しは無用ですわ。戦闘データは十分に取れた。それだけで十分です」

 エルの声は穏やかだが、言葉の端々に冷たい棘が隠れている。

「はっはっは」

 マモの笑いが、突然部屋を震わせた。

 喉の奥から絞り出されるような、ひび割れた音がカーテンを揺らす。

 だがその瞳は笑っていない。

 巨体を揺らし、拳をテーブルに軽く叩きつける。

 衝撃で果物の皿が跳ね、りんごが一つ床に転がり落ちた。

「黙ってはおれんな。あの実験体を相手にあそこまでやってのけた少年だぞ。エル、何を隠しておる」

 エルは顎をわずかに上げ、マモの怒りを真正面から受け止めた。

 瞳と瞳がぶつかり、空気が軋む音がしそうなほど静まり返る。

「隠しているだなんて失礼ですわ。彼はただのレベルゼロ。それだけです」

 言葉を吐き捨てるように告げると、エルはソファから立ち上がり、手すりへと歩み寄る。

 マモの頬が、わずかに引き攣った。

「多額の費用を投じて作った実験体を相手に圧倒する。そんなものを気にするななどと……。これは……舐められておるのかのう。事と次第によっては、共同出資者といえどギルドバトルもやむを得んぞ」

 マモの声が唸るように響き、部屋の空気が重く圧縮された。

 貴賓席の壁が、二人の気迫に押されるように軋む音を立てる。

 ギルドバトル──それはただの戦闘ではない。

 ギルドマスター同士の直接対決が禁じられている代わりに、代行として行われる総力戦。

 所属する全てのメンバーが標的となり、一度火蓋を切れば、ギルドそのものが崩壊の淵に立たされる代理戦争。

 マモの言葉が、その残酷さを呼び起こすように、室内の空気を一瞬で凍てつかせた。

 エルは静かに踵を返し、マモの正面に立ちはだかる。

 扇子を胸元に当て、首を横に振った。

「……ふふ。さすがに彼の価値が分かってるようね。でもマモ、彼はダメ。これは世界書のシナリオ。崩してはならない……修正が効かないメインシナリオなの。その意味は、分かるわよね?」

 エルの声は囁くように低く、各語尾に細い氷の刃を忍ばせていた。

 マモの肩が、わずかに落ちる。

「であれば、なぜ共有しない」

 短い言葉の裏に、熱い苛立ちが脈打つ。

 エルは扇子を優雅に広げ、唇の端だけを覗かせて笑った。

 体を軽く傾け、マモの分厚い肩に目を滑らせる。

「彼はこの世界のプレイヤーでなくてはならない。我々が操るなんて……許されないでしょう? だから私が、あの子に預けたの」

 二人の間に、静寂が落ちた。

 外の歓声が遠く、波のように寄せては引いていく。

 部屋に響くのは、マモの荒い息遣いだけ。

「……やはりお前はいけすかん。興が削がれたわ。……あの少年、名を何といったか」

 エルは微笑みを浮かべる。

「エイリよ」

 マモの唇が、わずかに弧を描く。

 肩を回し、扉の方へ一歩踏み出す。

「エル。ワシに何かできることはあるか」

 エルは首を軽く振り、扇子でマモの背中を指し示すように振る。

「ふふ。なにも……しないで?」

 その言葉に、甘い毒が絡む。

 マモは扉に手をかける前に、振り返る。

「今日は良いものを見せて貰った。じゃが実験は継続してもらう」

 声は低く、しかし鋼のように固い決意を帯びていた。

 扉を押し開け、靴音を高く鳴らしてマモは去っていく。

 重い扉が閉まる鈍い音が、部屋に重く響き、深い静寂だけを残した。

 エルは一人取り残され、静かに観客席へ視線を滑らせる。

 遠くに、エイリの小さな背中を見つけた瞬間、扇子をそっと唇に当てた。

「……誰にも、渡さないわ」

 掠れた囁きは、開いた窓から吹き込む風に溶けるように消えていった。


 時を同じくして、観客席の喧騒が頂点に達していた。

 砂煙の残り香が風に運ばれ、観客たちの拍手が雷鳴のように轟く中、エイリは息を荒げて階段を上る。

 金属鎧の重みが肩に食い込むのを感じながら、トリエの姿を探した。

 トリエは最前列のベンチから身を乗り出し、エイリを迎え入れる。

 ベルはすでに席を外し、空の酒瓶だけが転がっていた。

 トリエが立ち上がり、エイリの肩をバシンと叩いた。

「エイリ! よくやった! ……って何してるんだお前ら」

 その声が途中で裏返る。

 トリエの目がエイリの背後に釘付けになり、眉が跳ね上がった。

 エイリは苦笑いを漏らし、肩をすくめる。

 背中にぴったりと張り付いた柔らかな重みと、首に回された細い腕の締めつけで、足が少しよろめいた。

「あーこれはだな……懐かれてしまったみたいで」

 言葉を言い終えると、エイリは体を軽く捻り、背後のセツを振りほどこうとするが、セツの指がさらに深く食い込む。

 セツの黒髪が、エイリの肩に絡みつくように垂れ、セツの体が蔓のように密着していた。

 セツの息が、エイリの首筋を熱く撫でる。

「私と番になって欲しい」

 セツの声は低く、しかし執拗に繰り返す。

 指先がエイリの鎧の縁を掴み、離す気配がない。

 エイリは体を前傾させ、セツの腕を優しく引き剥がそうとする。

 指が滑り、セツの肌の冷たさに触れる。

「だから友達にはなるから離れろって!」

 エイリは声を殺し、周囲を気にして肩をすくめる。

 観客の何人かがこちらを指さし、ひそひそと囁き合っているのが見えた。

 セツの抱きつく腕に力がこもる。

 熱っぽい瞳がエイリの横顔をまっすぐ捉える。

「だめ……番になって欲しい」

 耳元で囁かれる言葉と、熱い吐息が首筋をくすぐった。

 エイリは困り果て、トリエに助けを求める目を向ける。

 両手をぱっと広げ、肩を大きく竦めて全身で訴えた。

「だから、番って何なんだよ。トリエ……これどうしよう」

 トリエは片手で顎を撫で、もう片方の手で赤髪をぐしゃぐしゃと掻きむしる。

 乱れた前髪の隙間から、鋭い瞳がセツを真っ直ぐ射抜いた。

 一歩踏み出し、腰に手を当てて体をわざとらしく傾ける。

「あーエイリ……んー。いや女……後ろの」

 言葉を切り、眉を寄せてセツの顔を真正面から覗き込んだ。

 エイリはセツの腕をぽんぽんと軽く叩き、半歩横にずれて紹介する。

「こいつはセツだ」

 トリエの目が鋭く細まり、首をわずかに傾けて視線を下ろした。

 そして、膝を折り、セツの目線の高さまで腰を落とす。

 赤い髪が肩から滑り落ち、二人の間に影の幕を下ろした。

「あーセツ、とりあえずエイリはうちの大事なメンバーなんだ。お前が番になりたいってのは分かったから、一旦離れろ。試合が終わった後だ、彼も疲れている。大切に思うなら尚更一旦離れろ。な?」

 トリエの声は穏やかだが、手がセツの腕に軽く触れ、引き剥がす仕草を見せる。

 指先がセツの袖を優しく摘む。

 セツの瞳がトリエを睨み、唇を固く結ぶ。

 鼻を軽く動かし、トリエの匂いを嗅ぐように首を傾げた。

「だめ。あなたからは雌の匂いがする。エイリは渡さない」

 言葉を吐き出すと、セツの指がエイリの腰に回り、締めつける。

 トリエの頰が一瞬、熱を持って赤らむ。

 トリエは深く息を吸い込み、ふうっと長く吐き出した。

「雌って……」

 声が裏返る寸前で止まり、トリエは体を起こすと同時にセツを睨みつけた。

 拳をぎゅっと握り、肩を大きく一回りさせる。

 そして、ふっと小さく息を漏らし、肩の力を抜いた。

 首を反らせて空を見上げた。

「はぁ……」

 その隙だらけの仕草に、セツの唇が小さく弧を描く。

 瞳の奥で、静かな勝ち誇りがきらりと光った。

 セツの体がエイリにさらに寄りかかった。

 しかしその刹那、トリエの右拳が閃くように放たれた。

 空気を切り裂く風が、エイリの髪を乱し、拳の軌道がセツの前頭部を正確に捉える。

 パンッ!

 衝撃音が小さく響き、セツの頭がわずかに後ろに跳ねる。

 セツの瞳が虚ろに揺れ、体がエイリの背中から滑り落ちるように崩れかかる。

 トリエの拳は、ただの威嚇ではなく、計算された一撃──眠りを誘う打撃だった。

 エイリが体をこわばらせ、目を瞠る。

 反射的に腰を落とし、セツの体をしっかりと受け止める。

 おんぶするように腕を回し、セツの重みを肩に預ける。

「えっ……トリエ、これ大丈夫なのか!?」

 エイリの声が上擦り、セツの体を優しく抱え直す。

 トリエは拳を軽く振って肩をすくめる。

「死なない程度にやってある。そいつのことは、あとで考えよう。ベル様が先に帰ったから、ここの席にそいつを寝かせておけ。お前も休んだ方がいい」

 言葉を言い終えると、トリエはベンチの端を指し示す。

 体を少しずらし、エイリに道を開ける。

 エイリはセツの体を慎重に運び、ベンチに座らせる。

 エイリはセツの頭をベンチの背もたれにそっと預け、倒れぬよう腕で支えたまま数秒待つ。

 まぶたが静かに閉じ、細い寝息が規則正しくなるのを確かめて、ようやく手を離した。

 そのままベンチの端に腰を下ろし、セツの寝顔を横目で盗み見る。

 静かな寝息に混じって、自分の心臓がまだドクドク鳴っているのが分かった。

 背後で気配が動いた。

 慌てて顔を上げると、トリエが腕を組んだままどっしりと隣に座り込んでいた。

 トリエはまずセツに鋭い一瞥を投げ、すぐにエイリへ目を移す。

 口元をわずかに歪め、小さく舌打ちしてから、肘でエイリの脇腹を軽く突いた。

「ずいぶんそいつに優しいんだな」

 からかうような響きに、エイリは慌てて首を振って手を振る。

「えっ、いや、そんなことはない……んだが」

 トリエは横目でエイリを舐めるように見やり、鼻先で笑った。

「ふーん。番って……なるのか?」

 探るような声音に、エイリは首を傾げ、真正面からトリエの顔を覗き込む。

「それなんだが……番ってなんなんだ?」

 純粋な困惑を浮かべたまま、ちらりとセツの寝顔に視線を走らせ、すぐにトリエへ戻す。

 トリエの目が細められ、背もたれに体を沈めた。

「……そうか」

 短く呟くと、闘技場の方へ顔を向ける。

 轟き立つ歓声が石壁を震わせ、次の試合の火蓋を告げていた。

 エイリが小さく身を寄せ、そっと袖の布を指で摘まんだ。

 布越しに伝わる体温が、少しだけ熱を帯びていた。

「トリエは知ってるのか」

 声に期待が混じり、エイリの指が袖を摘む。

 トリエは袖を払い、エイリの頭を軽く小突く。

「知らねーよ。バーカ」

「バカって……」

 観客席の熱気が、再び二人を包み込む。

 次の試合の鼓動が、響き始めた。


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