第12話
闘技場の砂地に、残された二人の影が長く伸びていた。
観客席の歓声が、糸が切れるように途絶えた。
風さえも止まり、砂塵すら宙で凍りついたように見えた。
エイリはその静寂を裂くように、一歩を踏み出した。
黒髪の少女は微動だにせず、ただその瞳だけでエイリを捉え続けていた。
エイリは剣の柄に指をかけ、穏やかな声で呼びかけた。
「俺の名はパーム・エイリ。ベルギルド所属だ。お前は?」
少女はわずかに首を傾げ、淡々と応じた。
「私は……ネイリ・セツ。……無所属」
その声は風のように軽く、しかし底に沈む石のような重みを帯びていた。
エイリは小さく頷き、唇の端を上げる。
「セツか。いい戦いにしようぜ」
セツの瞳が一瞬、細くなる。
セツは地面に爪先を沈めた。
「戦いに……良いも悪いもないよ」
言葉が終わらぬうちに、セツの体が弾けた。
一瞬で距離を詰め、右拳を下から弧を描いてエイリの顎を狙う。
エイリは避けきれぬと瞬時に判断し、逆に一歩踏み込んで迎え撃つ。
拳が胸当てに直撃し、ゴンッ! と鈍い音が響いた。
衝撃が骨を軋ませ、頭の芯が白く弾けた。
足元が砂に沈み、膝がわずかに曲がるが、エイリは必死に踏ん張った。
後退の勢いが止まらず、二歩、三歩と砂を抉りながら引かされる──周囲の観客が息を飲み、トリエの叫びが遠くで響く。
「エイリ、構えろー!」
エイリは息を漏らし、盾を素早く前方に構え直した。
「なんて身体能力だ……!」
セツは再び間合いを詰め、右拳を水平に振り抜く。
拳風が砂を巻き上げ、エイリの髪を乱暴に払う。
エイリは盾を斜めに滑らせ、拳の軌道を外側へ逸らした。
甲高い金属音が炸裂し、衝撃が肘から肩まで響くが、体を捻って反撃に転じる。
右脚を低く振り抜き、セツの脇腹を抉るように蹴り込む。
革靴の底が黒い布に深く沈み、鈍い打撃音が腹の奥まで響いた。
「ぐっ、重いっ」
セツの体がわずかに傾く。が、古木のように根を張った重さでびくともしない。
顔を上げた瞬間、漆黒の瞳がエイリを真っ直ぐ射抜いた。
「レディに失礼」
次の刹那、セツの腕が鞭のようにしなり、蹴り出した足首をがっちり掴んだ。
強引に体を捻られ、エイリは宙を舞った。
背中から砂地に激突し、熱い擦過が皮膚を裂く。
肺の空気が根こそぎ奪われ、意識が一瞬遠のいた。
だが転がる勢いを殺さず、体を丸めて即座に跳ね起きる。
砂が舞い上がり、視界を覆う中、セツの足音がすでに迫っていた。
「くそっ、戦い方を変えねーと……」
エイリは盾を前方に掲げ、剣をその陰で低く構える。
足を肩幅に開き、片足を後ろに引き、息を整える。
セツが再び走り寄る。
エイリは正面を避け、右へ、右へと円を描くようにステップを踏む。
側面を狙い、セツの蹴りを警戒して距離を保つ。
セツの右拳が横薙ぎに放たれ、空気を鞭のように鳴らす。
エイリは体をわずかに後退させ、拳の先端を紙一重で躱す。
風圧が頰を熱く撫で、汗が一筋零れる。
カウンター──剣を低く引き、セツの胴へ鋭く突き入れる。
刃先が布を裂き、感触が手に伝わる。
「──っ」
セツの体がわずかに止まるが、痛みを無視したように振り返り、上段の蹴りを閃かせる。
脚が弧を描き、エイリの頭上を薙いだ。
エイリは膝を折り、盾を斜めに差し出して衝撃を逸らす。
轟音と共に盾が鳴り、腕が痺れたが、エイリは歯を食いしばって軸足を据えたまま剣を逆手に返し、低く薙ぐ。
刃が砂を掻き、セツの左膝裏を薄く裂く。
鮮血が一筋、弧を描いて宙を舞う。
セツの体がわずかに傾ぎ、着地の砂が乱れる──エイリはその隙を見逃さない。
爆発的に体を起こし、詰めた間合いで盾の縁をセツの肩に叩き込む。
セツは後退を強いられ、息がわずかに乱れるが、即座に体を捻って反撃の肘打ちを繰り出す。
エイリは剣の柄でそれを弾き、互いの息遣いが熱く交錯する。
観客席からどよめきが上がり、ベルが酒瓶を握りしめて身を乗り出す。
「ほう、坊主の動きが……徐々に良くなってきておるの」
トリエの声が鋭く飛ぶ。
「エイリ、誘い込め!」
二人の攻防は、砂を巻き上げながら徐々に速度を増し、剣戟の音が闘技場に連続するリズムを刻む。
レベル一以下の試合とは思えぬ激しさ──観客の鼓動が一斉に高鳴り、静寂が張り詰めた熱気に変わる。
しかし、勝負は一瞬で決した。
エイリが盾で躱し、カウンターの突きを喉に叩き込む。
その刹那、セツの目が赤く光る。
瞳の奥から、血のような赤い輝きが迸り、闘技場の空気を一瞬染め上げる。
するとエイリに変化が訪れた。
ダンジョンで鬼を倒した時の感覚、狼の動きを予測した感覚が思考とリンクし、今まさにセツの動きを目で、いや脳で、脳を超えて感覚で捉えていた。
「この感覚は……あの時の……!」
セツの次の拳が来る──その軌道が、肌に触れる前に見える。
エイリは体をわずかにずらし、拳風を背中で感じるだけで躱す。
セツの息遣いが熱く、筋肉の微かな収縮が伝わる。
そして先に置いておくようにカウンターを決める──未来予知にも似たその剣閃が徐々にセツを後退させる。
セツが回転蹴りを放つ──脚が鞭のようにしなり、砂を巻き上げて迫る。
エイリは一寸にも満たない距離で体を沈め、蹴りの風圧を頰で受け止めながら剣を低く構える。
「ここだっ!」
セツの軸足が露わになり、砂に沈む音が響く──エイリはそれを捉え、剣を閃かせて足首を掠め、セツの体を崩す。
セツが砂に膝をつき、倒れかかる瞬間、エイリは距離を詰め、上から剣を振り下ろした。
刃は首のすぐ横、わずか数センチのところを通過し、砂地に深く突き刺さる。
砂が跳ね、柄を伝う振動がエイリの腕を震わせた。
風が止み、観衆の息すら聞こえない。
誰が見ても、勝負は決していた。
セツの赤い瞳の輝きが静かに鎮まり、肩の力が抜けるように小さく落ちた。
エイリは剣を地面に突き立てたまま、荒い息を吐きながら見下ろす。
声は穏やかだが、瞳に火が灯る。
「まだ……やるか?」
セツは首をゆっくり振り、黒髪を払う。
セツの瞳に、静かな諦念が浮かぶ。
「降参する。私の負けだ」
審判の角笛が鋭く響き、試合終了の合図が闘技場に広がった。
「すげえええええええ!!」
「これがレベル一帯ってマジか!?」
「やったやったやったやったやった!!」
「黒髪の子も可愛かった!」
観客席が爆発的な歓声に包まれ、砂煙が再び舞い上がる。
スタッフたちが倒れた参加者を次々と運び出し、トリエが立ち上がって拳を振り上げる。
「やった、エイリ!」
ベルは酒瓶を掲げ、くすくす笑う。
「ふむふむ。良い成長を遂げておるの」
エイリは剣を鞘に収め、セツに手を差し伸べた。
セツの掌は意外に冷たく、しかししっかりと握り返す。
「いい戦いだったぜ、セツ」
セツは立ち上がり、砂を払いながらエイリをまっすぐ見つめた。
黒髪が風に揺れ、声は低く、しかし確かな響きを帯びる。
「……私と、番になって欲しい」
エイリに、新たな運命が静かに訪れる。
闘技場の喧騒が、二人の周りを優しく包み込んだ。




