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オフィス内に、書類を投げつける音が響く。
と同時に、リーダーの怒鳴り声が聞こえてきた。
「なんだ?
この企画書は!
これじゃあ、競合に勝てないだろ!」
「すみません。
作り直します」
今日もまた、営業マンのひとりがリーダーの怒りを買い、肩を落としながらデスクへ戻っていった。
高城リーダーが赴任してきてから、約二週間。
社内は毎日ピリピリムードだ。
そして、私はというと……今まで以上に仕事に身が入らず、気を緩めると泣きそうになっていた。
婚約破棄のことは、まだ家族以外に誰にも言えていない。
誰かに話すような気力すら、今はなかった。
「梓、どうかした?
元気ないじゃん?」
いつも以上にキーボードを打つ手が遅い私に、ちーちゃんが心配そうに声をかけてきた。
こんなムードの中でも、彼女のテンションは至って普通だ。
「ううん……心配させてごめんね。
ねえ、ちーちゃん、また今度、ゆっくり話を聞いてくれる?」
「もちろんよ。
梓が話したくなったら、いつでも声をかけて」
空気が読めるちーちゃんは、それ以上、何も聞いてこなかった。
そして夕方、どうにか自分の持ち分だけの仕事を終え、退社の準備をしているときに、大問題が発生した。
けたたましく鳴った電話は、取引先からのクレー厶だった。
対応に追われるリーダーと支店長が、メールの履歴や書類を確認し……原因は、私の発注ミスだったことがわかった。
「本当に、申し訳ありませんでした!」
どんなに頭を下げても許されないのはわかっているけれど、私は青い顔で謝罪した。
営業マンたちやちーちゃんが、緊張で張り詰めた空気の中で、心配そうに私たちを見ている。
間違った商品が、それもケタ違いの量で納品されていて、先方は怒り心頭らしい。
そして、さらに追い打ちをかけるかのように、その企業は取引先の中でも一、二を争う、うるさ型の会社だったのだ。
「オレが行って、先方に謝ってきます」
リーダーはジャケットを手に取ると、羽織りながら支店長に言う。
私はいてもたってもいられず、ドアを開けてオフィスから出ていこうとする彼を呼び止めた。
「待ってください!
私も行きます!」
「お前は来なくていいよ。
かえって火に油を注ぐだけだから」
こちらを見もしないで後ろ手にドアを閉めようとするリーダーに、私は必死に食い下がる。
「私に謝らせてください。
私のミスですから」
リーダーはゆっくりと振り返ると、小さくため息をついてから静かに言った。
「わかった。
そこまで言うならついてこいよ」
社用車を飛ばしながら、リーダーは何も言わない。
当たり前か。
それだけ大きな問題だってことよね……。
助手席に座った私は、窓の外の景色に目を向けながら、自己嫌悪に陥っていた。
いくらフラれたからって、こんなミスをしていちゃダメだ。
本当に最悪。
私は、社会人としても、光太の彼女としても、失格だ。
取引先に着き、応接室に通される。
ほどなくして先方の担当者が現れると、すぐにリーダーは頭を下げた。
「このたびは、大変ご迷惑をおかけしまして……本当に申し訳ありません!」
ミスを犯した私が言うのも生意気だけど、相手の態度はかなり横柄だった。
人の弱みにつけ込むかのように薄ら笑いを浮かべながら、腕を組んで立っている。
「まあまあ……ミスした本人は、そこの姉ちゃんだろ?
あんた、土下座しろよ」
「え?」
「土下座。
土下座しろって言ってんだよ。
当然だろ?
それだけのことをしてくれたんだから」
私は自分の耳を疑った。
私のせいで、ものすごく迷惑をかけているのは事実だけど、まさかこんなことを言われるなんて。
呆然と立ち尽くしていると、リーダーが一歩前へ出た。
「責任者は私です。
彼女のミスは、私の責任ですので」
そう言うと、彼はその場で膝を折り、床に両手をついた。
「リ、リーダー!?」
ちょっと待ってよ。
なんでリーダーが土下座するの!?
そのまま視線を床に落としている彼の隣で私がうろたえていると、担当者は感心したような顔をした。
「へぇー。
今どき珍しい上司だねぇ。
でもさ、本当に悪いほうが何もしないって、おかしくないか?」
なんて言いつつ、ニヤニヤしながら私を見ている。
この、ハゲオヤジ!!
本当にムカつく。
本当にムカつくけど、リーダーだけに土下座をさせるなんて間違っている。
「本当に、申し訳ありませんでした!」
カッとなった私は、リーダーの隣で、同じように床に膝と手をつき、頭を下げる。
リーダーが、驚いたように少し顔を上げてこちらを見ているのがわかった。
リーダー、支店長、会社のみんな。
たくさんの人に迷惑をかけてしまった。
悔しと情けなさで涙が滲んだ目で、私は床を睨みつけ続けた。
車の多い夜の町に、クラクションの音が鳴り響いている。
「今日は本当に、すみませんでした」
なんとか事態は収拾して、取引先をあとにしたのは二十時過ぎだった。
まだあの、ハゲオヤジに対する怒りはおさまっていなかったけれど、社用車の中で、私はもう一度リーダーに頭を下げる。
「もういいよ。
だけど、あのハゲオヤジ、ムカつくな」
「……リーダーでも、そんなことを言うんですか?」
意外な台詞に、私は軽く目を見開いた。
いたずらっ子みたいに笑いながら話すリーダーは、いつもよりちょっとテンションが上がっているみたい。
普段の冷静な態度とのギャップに、ドキッとしてしまう。
「アハハ、たまには言うよ。
それにしても、カッコよかったぞ、お前」
「えっ!?
私ですか?」
「ああ。
土下座って、結構プライド傷つくだろ?
普通、なかなかできないよ」
「あれは、私が悪いんで……」
それに、リーダーにかばってもらってしまったのが申し訳なくて、とっさにしてしまったんだよね。
「意外と、骨があるんだな」
「そんな」
もっと怒られるかと思ったのに、リーダーの私への態度が柔らかくて、なんだか戸惑ってしまう。
「怒らないんですか?
私のこと」
「起きてしまったミスをどうこう言っても仕方ないからな。
今後二度としないように気をつけろ。
今日みたいな思いはもうしたくないだろ?」
リーダーは、穏やかに笑いながら言う。
「それにさ、オレなんか、前に決算処理で失敗したことがあって。
それに比べたら、今日のミスなんて、まだマシだよ」
「えっ?
リーダーにも、そんなことがあったんですか?」
「オレだって、ミスくらいするって。
おかげで、社長から大目玉食らったけどな」
「社長!?」
『社長』という言葉に、私は目を見開き、思わず聞き返してしまう。
「リーダー、社長と直接やりとりをしたことがあるんですか?」
「えっ!?
ああ、いや、たまたまね……」
やっぱりすごい人なのかも。
私なんて、社内報と入社式でしか社長を見たことはない。
うちみたいな大企業では、一般社員にとっては社長なんて雲の上の存在。
役職者だって、社長と直接話す機会はほとんどないはず。
私が尊敬の眼差しを向けると、彼はちょっと気まずそうに話題を変えた。
「それより香川、これから用事あるか?」
「このあとですか?
いえ、とくには……」
急にそんなことを聞かれて、私はちょっと驚いたけど、考えるまでもなかった。
むしろ、これからずっと暇なんだよね。
もうアフター7や週末を一緒に過ごす相手はないんだから。
そんなことを思って暗い気持ちになりかけたところで、意外な言葉が聞こえた。
「じゃあ、飲みにでも行くか!」
「えっ?
お、お酒ってことですか?」
「そう。
パーッと飲んで、嫌なことは忘れようぜ」
リーダー、私に気を遣ってくれているのかな。
驚いたけど、その気持ちが嬉しい。
私は数秒の間をおいて、返事をした。
「はい」
「よし。
会社の近くで、いい居酒屋見つけたんだよ。
車を置いて、そこに行こう」
「はい!」
支店に戻り、もう誰もいなくなっていたオフィスから荷物を持って出ると、先に歩くリーダーのあとを追った。




