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光太と別れてひとり、修弥の部屋へ向かいながら、まだ夢を見ているような気分だった。
今頃になって、あのときの事実を知るなんて……。
おまけに光太は今でも、私を忘れられないと言う。
放心状態で家へ戻ると、久しぶりに修弥が帰ってきていた。
「修弥……」
「ただいま」
「お、おかえりなさい……」
なんだか後ろめたくて、つい目をそらしてしまう。
「梓、さっき一緒にいたのは誰だ?」
修弥は怖いくらいに低い声で聞きながら、きつい視線を私に向けてくる。
「え?」
「さっき、誰かといたろ?
車から見えた」
光太といるところを見られていたの?
一瞬、私は青ざめる。
だけど、私ばかりが尋問されているって、何かおかしくない?
私だって修弥の政略結婚のことや、家を出ていた理由を聞きたいのに。
その理不足さに気づいて、気を取り直した。
「……たまたま会っただけよ」
努めて冷静に答えると、修弥の表情はさらに険しくなる。
それを見て、私も少し狼狽した。
「元彼と?
たまたま会っただけで、抱き合うのか?」
「あ、あれは、光太が一方的に……」
そこまで見られていたとは思わなかった。
しどろもどろになってしまう私にますます不信感を募らせたようで、修弥は唇を噛み締めている。
修弥が怒っているのはわかるけど、私だって負けてはいられない。
今日、会社で見た光景のことが、つい口をついて出てしまった。
「だけど、修弥だって人のこと言えないでしょ?
なんなの?
結婚って」
動揺したように、修弥の目が泳いだ。
「あれは、オヤジが勝手に決めたんだよ。
オレは断るつもりだから」
私を見つめる目には、焦りも感じられる。
「そうやって、口じゃなんとでも言えるわよね?
じゃあ、事情も話さずに一週間も帰らなかったのはなんで?」
私がお返しをするように問い詰める。
「そ、それは……」
修弥が言葉に詰まるなんて、きっと、よほどの事情があるんだろう。
しかも、決してよくない事情が。
「……言えないようなことなのね?」
問いかけると、修弥は苦渋に満ちた顔をした。
「そうじゃない。
ただ、今はまだ言えないんだ……」
俯く修弥に、私は今までの胸のつかえを吐き出すように感情を爆発させる。
「なんなの、その曖昧な答え方は!
そうよね。
所詮私と修弥じゃ、釣り合わないのよ。
はっきり言えばいいじゃない。
社長令嬢と結婚するって」
すると修弥も、感情をあらわにしてきた。
「そんなことを言いたいんじゃない!
だいたい、釣り合うとか釣り合わないとか、そんなこと関係ないだろ?」
「関係あるわよ。
会長からは反対されてるし、公の場で声をかけることすら禁止されてるのよ?
それに……私ね、光太から『やり直したい』って言われたの」
こんなことを言ってどうするんだろう。
私は別に、光太とやり直したいと思っているわけじゃないし、修弥を動揺させるようなことを言いたいわけでもないのに、歯止めがきかない。
「なんだよ、それ……」
案の定、修弥の声が震えている。
「浮気相手の赤ちゃんね、光太の子じゃなかったんだって。
だからね、そもそも彼女と結婚していなかったの」
「……だから?
梓はどうしたいんだ?」
修弥は私の顔を、気迫に満ちた目でまっすぐ見つめた。
「だから、もう一度、夢を見直そうと思って」
言ってはいけない。
そう思うのに、止められない。
「夢って……」
初めて見る、修弥の愕然とした表情。
「光太と結婚して、光太の赤ちゃんを産むこと。
それが、一年前までの私の夢」
「ちょっと待てよ。
そんなことを急に言われて、納得できるわけないだろ?」
「してよ。
納得して。
私、もう疲れたの。
こんな身分違いの恋愛に」
つらいの。
人前で声をかけるなと言われたこと。
周囲からイヤな視線を向けられること。
私たちの関係を知っている会長が、政略結婚を進めようとしていること。
そして、修弥が何かを隠していること。
それらに考えを巡らせ続けることに、私は疲れきってしまった。
「さようなら。
お互い、元いた世界に戻ろう?
修弥はVIPの世界、私は庶民の世界に」
修弥の生活色を、極端に変えたくなかったから、このマンションへ引っ越してきたとき、元々持っていた家具類はすべて処分した。
だから、一年間同棲していたというのに、服を整理するくらいで私の荷物は片付いてしまう。
バッグに服を詰め込む私の後ろから、修弥が震える声で言った。
「……オレが社長じゃなければ、梓はそんなふうに思わなかった?」
違うよ。
社長でも、社長じゃなくても、私は修弥が好き。
だけど、一度夢見た幸せが崩れていくあの絶望感は、光太のときで、うんざり。
もう二度と傷つきたくないの。
「どこに行くつもりなんだ?」
黙ったままの私に、修弥は感情を押し殺した声で違う質問をしてきた。
荷物を詰めたバッグを肩にかけたとき、重みでよろけた私を、修弥がとっさに支えてくれる。
「あ、ありがと……」
この手の温もり、フワッと漂う大人の香り。
忘れるまでには、相当時問がかかりそうだ。
涙を堪えながら、私はもう一度修弥と正面から向き合った。
修弥は青ざめた顔で、私をぼうっと見ている。
それだけ、私が追い詰めているのかと思うと、罪悪感に苛まれる。
でも、言葉を撤回するつもりはなかった。
「じゃあね。
修弥。
私、会社も辞めるから。
修弥との繋がり、すべて断ち切りたいの」
私を支えるその手を振り払って、部屋を出る。
エレベーターは最上階に来ていて、すぐに乗り込むことができた。
一階に着くと、飛び出すようにエントランスを抜けた私は最後に、修弥との甘い思い出が残るマンションを見上げた。
こんな夜に、私はどこへ行くつもりよ。
本当に、光太の家に行くわけにはいかないし……。
そんなことを考えていたとき。
「梓、待って」
肌寒い秋口だというのに、上着も着ないで出てきたのは、修弥だった。
「オレが出ていくから、梓は家にいろよ」
肩で息をする修弥は、よほど急いで追いかけてきてくれたらしい。
私がまだ近くにいて、ホッとしたようだった。
そんな修弥の姿に、私はまた自己嫌悪に陥ってしまう。
大好きな修弥に、なんてことをさせて、なんてことを言わせているんだろう。
修弥を追い出して私が残るなんて、できるはずがない。
さすがに首を横に振って断ると、彼はそれ以上に大きく首を振った。
「元彼のところになんか、行かせるわけないだろ?
オレ、しばらく実家に帰るよ。
だから、梓はこのまま、ここにいてほしい」
修弥はそう言って、ふっと微笑んだ。
「オレは、梓と結婚したい。
だから今回の話は、必ず断ってくる」
決意したかのように、きっぱりと言いきる修弥。
その言葉に嬉しさが込み上げるけど、まだ笑顔を浮かべることはできなかった。
「修弥、私と結婚したいって、思ってくれてる?
本当に……?」
確かめるように、ゆっくりと言葉を噛み締めるように言う。
修弥は、力強くうなずいた。
「だから、お前を他の男のもとへは行かせない」
いつか夢見た、好きな人との結婚。
その夢を、本当に修弥と叶えられるの……?
「どのみち、オヤジとは話さないといけないから」
修弥の言葉から感じる強い意志に、不安が和らいでいき……私はついに、彼の想いに甘えることにした。
「信じて待ってろ。
梓が元彼と果たせなかった夢は、必ずオレと叶えよう」
修弥はそう言うと、私を抱き締めた。
優しく髪を撫でながら、ぎゅっと強く。




