第一章-16. 塔での始動
ゴブリンの巣窟──
そう呼ぶのが、最もふさわしい光景だった。
天井は低く、湿り気を帯びた空気が通路に重くのしかかる。
足元には淀んだ水溜まり。
壁面には、煤の黒い跡。
どこかで火が焚かれた痕跡があるが、すでに冷えきっていた。
そこにいた“何か”の気配すら、跡形もない。
レムナは松明の炎ひとつを頼りに、無言で進んでいく。
安全策。
最も穏当で踏破率の高いルート──それは、初めから捨てた。
塔を登り切るためには、誰かにとっての“最悪”を選ぶ必要がある。
だがそれは、彼にとっての“最善”の攻略だった。
塔は、挑んだ者にしか力を与えない。
(強さが必要だ。知識も、経験も。そして何より“実績”が)
ゴブリンエリアには、隠された“裏ボス”が存在する──
かつてゲーム内で発見されたその条件を、彼は正確に記憶していた。
だが、それが現実となったこの世界でも通じるのか。
それは、誰にもわからない。
(ならば、証明するまでだ)
(俺の知識が、この世界でも通じると)
レムナは静かに息を吸い、
手にした松明の火を──吹き消した。
一瞬で、闇が彼を呑み込む。
そして、次の瞬間。
彼の“気配”が、空間ごと消えた。
*
「……これは、少し期待外れね」
眉をひそめながら呟いたのは、アリサ・ラインフォード。
湿気、獣臭、腐臭が入り混じる不快な空間。
目の前には、使われなくなった坑道と、崩れかけた支柱が続いている。
「アリサ様。ここはゴブリンエリアです。これ以上の追跡は……時間の無駄です」
背後から低く進言したのは、銀髪の騎士──セシリア。
一階層は、四つの“エリア”に分かれている。
北がスライム。東がケイブバット。南がコボルト。
そして西が、このゴブリンの巣。
どのエリアにも“ボス部屋”が存在し、ボスを討伐することで第二階層へのポータルが開く。
それがこの塔の基本的な構造だった。
──しかし。
「……ゴブリンエリアには、ボス部屋がありません」
それは、この階層に挑む者なら誰もが知っている常識。
「わかってるわ」
アリサはあっさりと頷いた。
「だからこそ、ちょっとガッカリしたのよ。
でも、知っててここに来るなんて……普通じゃないわ」
「そんなことも知らないのでは?」
「そうかしら?……選定式でのステータス、スキル、どれも最低値。……でも、‟唯一職”、面白いわ」
アリサは、あの少年の歩みに“確かな意志”を見た。
ゴブリンエリアは、他のエリアとは一線を画す危険地帯。
複雑な地形、密集する罠、巧妙な伏兵、視界の悪さ――
ただの迷路ではなく、“殺すための構造”だ。
それでも彼は、迷いなく進み、恐れの色もなかった。
「彼、なにか知ってるのよ。……目的があるようだったわ」
セシリアは黙したまま言葉を控える。
反論はあったが、主の直感を否定できるほどの確証はなかった。
「これは私の勘。……理屈じゃないのよ」
アリサは肩をすくめ、小さく笑った。
「もう少しだけ、付き合って頂戴」
その瞳に宿るのは、興味を超えた何か。
それは知性よりも、本能に近い“探求の光”だった。
「……アリサ様。先頭は私が行きます」
「ええ、お願い」
優秀すぎるがゆえに、この塔の開始早々から“退屈”していたアリサにとって──
あの少年は、まさに逸脱者だった。
どうして気になるのか。なぜ、目を離せないのか。
アリサ自身にも、その理由はまだ分かっていなかった。




