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神様ごっこ  作者: 五月雨
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2.街の中には

 街の中には、時折樹木が立っている。


 街路樹ではない。道の傍らではなく、『河』の中央に聳えているのだ。樹齢数百年は経とう古老の木。白線の引かれた黒い地面を突き破り、文明の侵食をものともしない力強さに溢れている。


 これは現実の木だ。上に登れば、幻の都を端から端まで見渡せる。頭を出すことはできないようだが、現世との境目は微妙な薄暗がりとなって彼我の世界を曖昧に分かつ。


 瀝青の地面も、実は貫かれてなどいない。それらには実体がないゆえ、同じ空間に少しの摩擦もなく共存できる。エアとその身体を支える巨大な楡の木が、こちら側の人々には全く見えていなかった。


「…さて」


 縺れた銀の旋毛を、ざっと手櫛で整える。


「これから、どうしよっか?」


 光の河を見下ろしつつ、漠然と呟く。下りられなくなったのではない。街の全貌を摑めたものの、どうすればよいか途方に暮れているのだ。


 礎の女神に会えれば、どんな願いも叶う。そんな噂を馴染みの商人から聞いたのは十五分前。今すぐ実現したい望みがあるわけではなかったが、それは見つけてから決めればよい。ただの噂と切り捨てるには、あまりにも魅力的な話だ。


 エア自身は、この噂を眉唾ものだと思っている。


 むしろ目的は別にあって、こんな未練だらけの夢を見る神様に今の気分を伺ってみたい。神様だって元はヒトなのだから、愚痴を言いたくなるときもあろう。その上でお礼のひとつもくれるのなら、あえて断るつもりはなかった。


 樹を登ったのには、確たる理由などない。景色を眺めてみたかったのと、神様だから高いところにいるのではないかと単純に思っただけだ。元々あまり期待していなかったが安直な予想は外れ、来て早々途方に暮れることとなった次第である。


 そもそも情報が少ない。女性であることと、容姿端麗なエルフ族の姿であること。知っているのはそれだけだった。


(…それにしたって怪しいよね。エルフが神の末裔って話は、ニクス共が言ってるだけなんだし)


 アトルムは六柱の魔神を信仰しているが、それは自らの祖となった転生体の原種とは違う。男女二人ずつの創術師達が綾取りをするように子供を生し、なるべく近親相姦を避ける形で数を増やしていったのが始まりだ。神懸かり的存在の子孫ではあるが、神そのものではない。この歴史的な経緯もあって、アトルムの間に夫や妻という概念はない。


 ニンゲンの神話では、また別の筋書きになっている。世界は三柱の聖神と二柱の邪神、そして一柱の中立神により創造されたのだという。非主流派は別の見方をしていると聞くが、そこまで詳しくは知らない。重要なのはアウラの存在を無視していること、代わりに中立神たる豊穣の女神ラフィニアの神格を重視している。


 神についてエアが知っているのは、大体これで全部だ。ニンゲンの中にも礎の女神を信奉する部族があったり、ニウェウスの祖先が雑神扱いされているなどの噂もあるが、それらは全て大樹の幹から派生した末枝末葉と言ってよい。


 アトルムの神話にはアウラと六柱の魔神が親しかったという一節もあり、礎の女神はアトルムの上位種だったのではないかと仄かに期待する向きもあった。


「……よし」


 腹這いになった梢から、ぶらりと両脚を伸ばして垂れ下がる。


「まず探してみよう。見た感じ、そんなに黒い人はいなかった」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 地上へ舞い降りると、エアは人混みを中心に歩き回った。


 狙いは大所帯の集団。これが楽しい夢だとしたら、きっと親しい仲間が傍にいるはず。あるいは男女の二人連れ。今が独身だからって、恋人もいなかったとは限らない。もしも悪い夢なら……街が滅びるような大惨事とすれば、どこにいても気づけるだろう。


 屋内にいる可能性も捨てきれない。しかしその点は問題なかった。幻の存在はほんのり薄れかかって見えるため、その気になれば見たいものだけ透視できる。他人の私生活を覗き見るのは微妙な気分だったが、今はまだよいほうだ。もっと遅い時刻になれば、顔から火が出てしまいそうな現場に遭遇するかもしれない。


(……興味がなくはないけど……いや違う違う違う)


 上から見た限りでは、三本椰子と竜爪岩の間に都の中心がある。そこを連なった細長い箱が行き交っていて、大勢の人々が吸い込まれたり吐き出されたり。樹上で不思議な女性に出会ったりもしなかった。空飛ぶ夢を見ているのではなさそうである。意味がある場所は多分ここだけ。夢の景色は曖昧だ。近くは鮮明なのに少し離れると色褪せてしまう。


 高床式の広場周辺を洗ってゆけば、気づけないまでも遭遇する可能性は高い。顔も知らない相手、直感を頼りに探すしかなかった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 逢魔が時。


 ラダラムから預かった時計の短針が、大きな目盛ひとつ分動いた。円周にして十二分の一。同じ時間をもう十一回繰り返したら、家に戻らなくてはならなくなる。


 結果は芳しくなかった。広場の周りを隈なく調べ歩いて全滅。範囲を拡大しようにも、夢の中心から離れすぎるわけにはゆかず。通行人も注意したが目につく者はいない。


 やり方に問題があるのか。外見的な特徴は、あくまでエアの想像だ。神話や伝承に基づくとはいえ、不確かな部分が多い。それによく考えたら、二番目に困る状況を思いついた。夢の中にいるアウラが、神化する前の原種という可能性を。


「……見つかるわけないよ~」


 聞こえないと思うから、独り言の声も大きくなる。


「分かんない。どんな探し方したんだろう……?」


 向こうから来てくれれば――虫のよすぎる希望は瞬く間に散逸した。


 大樹の幹にもたれて、道行く人々を観察する。


 無言で立ち止まる者もいた。明後日の方向を見つめ、右の人差し指だけが忙しく彷徨う。時々他人にぶつかり謝っているから、別の幻を見ているのかもしれない。奇妙なのは鼠色の群れ。厚着をしながら暑そうにしている。身綺麗だが異様に画一的。男は平たい紐で首を括っているのが尚更滑稽である。我慢比べでもしているのか。


 見慣れてきた今では、彼らの風俗も珍しくない。多少の違和感を覚えるだけだ。目先の違いに囚われず、隠れた本質を読み解くことができる。この街を闊歩する人々の価値は、同じように見えても決して等しくはない。


(…消えかかってる。今視界を出たら、多分もう)


 虚ろな顔で歩く若い男。台詞もなく、何か役割があるとは思えない。その男が今、エアの前を過ぎて左へ流れた。なるべく注意を向けない。目の端には捉えておく。なかなか至難の業だ。しかし実験に成功すれば、彼女が立てた仮説のとおり。


(……消えた!)


 即座に振り向き、雑踏へ分け入って今の男を探す。


 どこにもいない。両手に紙袋を提げた特徴的な体型の男は。


 念のため屋内も調べた。他の階へ移動する暇はなかっただろう。


 五人同じことが続いている。老若男女にかかわらずだ。


 間違いない。ここの住人は、視られていないと消えてしまう。


 雑多な群衆の中で、一人だけ本物の意思を持つ者がいる。加えて何人か、女神との関係が深い贋物も。数合わせで作られた人形より複雑な反応をするはずだ。思い入れがある相手なら、些細なところまで詳しく憶えているもの。存在の生々しさとでも言えばよいか。接してみれば何となく分かるような気がする。


 広大な砂漠の中から、たった一個の宝石を見つけ出すためには……



 ☆★☆★☆★☆★☆



 両手に構えた二つの物体。無骨なそれらを、エアは強く打ち合わせた。珍しくもない鉄と黒曜石だが、両方揃ったときのみ別の名を与えられる。火打石と。


 手元から微かな火花が飛んだ。落ち葉の山が燃え広がったら、すかさず乾いた枯れ枝をくべる。少しずつ魔力を送り込んで生きた焔にすれば、ようやく準備は完了だ。不慣れな術を扱うときは、いろいろ下拵えが必要になる。


「ちょっと乱暴だけど。許してね」


 瞑目。心を溶かして混沌の扉を開く。今から使う術は、マテリアライズなどと求められる心構えが違う。あちらは理性と知識なのに対し、こちらは剝き出しの感情だ。直感的に制御できる代わり、失敗したときの危険度は比較にならないほど大きい。


(……セロ。……ラワセ……)


(よし。聞こえてきた)


 火の精霊。特に名前はなく、一般にそう呼ばれている。実体を持たず、魔力で生かされるだけの概念的な存在だ。顕現するときは人の魂に寄生し、宿主の力を吸いながら様々な奇跡を起こす。基本的には術者の側に主導権があるが、油断すれば身体ごと乗っ取られてしまう。あまり善良な友であるとは言い難かった。


 今回エアが考えているのは、彼らとの同居ではない。適当に連れまわして、都の人々を驚かせるつもりなのだ。魔力でできた住人達は、魔力でできた火なら見えるかもしれない。エアの姿は見えないはずだから、さぞかし奇妙な現象に映ることだろう。


(喰ラワセロ!)


 火の精霊が直接的な思念を送ってきた。


 これが水の精霊なら『ひとつになろう』といったところか。片や衝動、片や融和を本質とする精霊。言葉は違えど意味するところは同じである。精霊による印象の差は、同調する術者の心が聞かせているに過ぎなかった。


「さあ、行くよ」


 見えやすいように、枝を高く掲げる。


 小さな熾火で構わない。人形達の注意を惹きさえすれば。魔力を帯びた焔は、枝が焼け落ちても残る。勢いは弱まるが、今はそれで充分。


 予想したとおり、精霊は人形達に影響を与えた。狐火を視線で追い、しかしすぐに興味を失ってしまった。見えてはいるが、条件反射だけで考える力がないらしい。夢の展開は理不尽なもので、破綻を来した人形が退場を強いられたりしている。


 一部には正常な反応を示したものもいた。しかし重要な役どころではなかったのか、マテリアライズを施しても彼らにはエアの声や姿が分からなかった。あるいは女神と視線を交わしただけなのかもしれない。精霊をけしかけたりはしなかったから、怪訝そうな表情を浮かべると雑踏の中へ戻っていった。


 どうにかして話をする方法はないものか?エアは真顔で首を捻った。


 まず考えたのは、精霊に字を書かせること。しかしこれは無理だった。精霊が字を知らないため、エア自身が細心の注意を払って精霊の力を制御するしかない。


 そこまで繊細な作業に耐えるのは正式な契約を結んだ精霊だけで、今のところ該当するのは熱の精霊のみ。焦げ目を使って書こうにも時間がかかるし、せめて風の精霊なら音に魔力を込めることもできたのだが。


 次に考えたのは、物質化した幻に文字を刻むこと。これは成功するような気がした。元は夢に属するものだから、現実の染料で書いたりしなければ見えるはず。


 適当な相手と遭遇したときのために、少し時間をかけて短い文を拵えた。街路樹の皮が五枚、『私が見えるか?』『アウラを知っているか?』『どこに行けば会える?』『それはどうやって行く?』『こちらは見えるし聞こえている』――こんな内容である。


 ようやく作り終えたとき、時計の長針が更に一回りしていた。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 小一時間が経過した。空は真っ暗だというのに、人の波は絶えない。むしろ増えているようにさえ感じられるのは気のせいだろうか。


 光の河を跨ぐ広場のような橋の、傍に聳える縦長の箱。高さは群を抜いており、全部物質化するとしたら必要な魔力は想像もつかない。


 エアは今、その一階にいた。二階と地下を繋ぐ階段の前、どちらへ進むか思案している。下は本物の土に埋もれ、上は幻の階段。どちらを選んでも手間がかかる。結局穴掘りは崩落の危険があるということで、ここは上の道を行くことに決めた。暇潰しの遊びにしては、なかなか大事になってきたと思う。


「こんなことなら、もっと真面目に修業しとくんだった……」


 一番最初に教えられる基礎だが、マテリアライズはそれほど簡単な技術ではない。始まりから終わりまで結構な時間がかかり、対象の大きさに比例した忍耐力を必要とする。昔訓練で鶏の魂を蘇生したときは、疲れて動くことができなかった。死んだ仲間の魂を連れ帰るのは、部族の戦士に課せられた最も重要な義務のひとつである。十五歳の誕生日を迎えたというのに、未だエアは苦手意識を拭いきれていない。


(練習あるのみ。いつかは必ず上達する)


 養父の言葉を思い出す。工夫を忘れなければ、努力は結果として報われる。逆にこうも言っていた。考えなしの努力は、結局何もしないのと同じなのだと。


(全体を物質化しようとするから無理になる。これは魂じゃないし、幻との繋がりを切り離してしまうわけでもない……!)


 自分の身体を載せる薄皮一枚。それだけあれば、たとえ割れたとしても支障はない。彼岸と此岸に属する床板を、その下の構造物が支える。夢が終わったときには抜け落ちてしまうが、巨大な建物の一部を残されるよりはいい。


 発想の転換。持てる力を最大限に生かすこと。強くなるためには、誰しも強くなるための時間が要る。どれほど才能があっても、力任せでは徒に寿命を縮めるだけ。


 手応えはあった。創術特有の気配を感じる。成功したとすれば、物質化した床の表面が幻の上に載っているはず。予想したとおり、見た目に変化はない。


 恐る恐る、一段目に爪先を乗せてみる。象牙色の床材は確かな硬さでエアの足を跳ね返した。重さを加えても変わらない。階段の後ろに回り込み、下から指を伸ばす。基礎の部分を通り抜けて、反対側から床材の裏面に触った。こちらから強く叩けば、あるいは壊れるのかもしれない。もう一度上から二段目を踏みしめる。しっかりした感触に、じわりと喜びが込み上げる。


「やった……!」


 夢中で階段を駆け上がる。二階の床も同じ要領で実体化。この調子なら最上階まで行けるかもしれない。


 まず広場のような橋までを領土に。言い方が面倒、今後は『広場』。光の河を挟んで対岸の大きな平屋は『駅』。人形達が話していた。駅は幾つもあって、ここはオーミヤという名前。若長達に訊ねれば、面白い話を聞かせてくれるか。


 土木工事が一段落すると、エアは二階の壁に寄りかかった。危うく落ちそうになり、慌てて物質化。見た目は区別がつきにくいから、油断しているとこうなる。どれだけ注意を払っても、死ぬときはそんなもの。


 上着の裾を捲りあげ、噴き出た冷や汗を拭う。


 呼吸が整うのを待つ。空気が湿っぽい。雨でも降るのだろうか。


 夜中に雀の声を聞くのは妙な気分。叱られるのが怖くて、兄と一緒に窓のない廃屋へ逃げ込んだときのことを思い出す。あのときは結局、疲れて眠った隙に運び出されてしまった。林檎パイの甘い香りがして、久しぶりに幸せな気持ちで目覚めたのだった……


 家出の原因は憶えていない。ゆえに子供扱いされた恥ずかしさだけが残る。


(今もあまり変わらないんだけどね……)


 身近な大人達は、昔からエアを甘やかす。


 優しくされるのは嬉しい。が、こういうのとは違う。


「…………?」


 広場の下、水場に群れていた鳥達がいない。謎の石材で囲んだ小さな池と重なり、枯れ葉や半透明な袋が浮いている。


 それを嫌ったのかと思った。いや他にも何かあるような?目を凝らして違和感の正体を探す。鳩は残っている、森の住人も幻が見えないわけでは……


「……いた」


 元凶は唐突に見つかった。


 広場を貫く大樹の根元。木陰に潜む不審な輩がいたのである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



 のそりとした動きは、あまり俊敏と言い難かった。女神とその眷属は、行動力溢れる前向きな人々でなければならない――とはエアの願望。自然な挙動。定まった視線。耳に届く声の明瞭さ。どれを取っても探していた条件に合致する。


「あれが神様?」


 信じられない思いで一杯になる。


 アウラではない。見るからに男だから。


 薄汚い。控えめに言ってみすぼらしい。端的に言うと甚だ疑問。神話のやり直しを切望する。あんなやさぐれた俗物が創造主の近親者などと。


 逆の可能性を考えてみた。それなら納得できなくもない。となるとこれは悪い夢になってしまうが。表情の作り方ひとつ取っても品のなさが滲み出ている。腰のものを確かめながら、値踏みでもするように通行人の顔を覗いて見遣って……


 そこであることに気がつく。陶然と声にならない呟きを洩らす。


 同じだったのだ。さっきまでの自分と。挙動不審の意味において。


 違うのは真意、剣呑な仕種で何を目論むか。男の格好は鼠色の軍団と似ても似つかない。口から飛び出そうな心音を誤魔化し、悠然と男の背後に忍び寄ってゆく。


 関わるべきかどうか。それは迷わなかった。こいつは侵入者だが、問答無用で追い出せるほど力がないのは自覚している。さりとて普通に話すのは退屈だ。アトルムは悪魔の下僕、忌むべき不吉と災厄の凶兆。どちらもニンゲン共が言っていること。自ら育てた偏見に足を掬われる。さぞかし愉快に違いない。


 街を一望できる巨木の根元。そこでニンゲンは休んでいた。背中はどうあれ、頭上は全くの無防備である。死角から反対側の幹を登り、絶好の射線を確保した。矢でも剣でも、この位置からなら確実に当てられるような気がする。


 そろりと木製の鞘を払う。頭の高さまで持ち上げ、一気に振り下ろすのだ。途中で手を離せば、銀色の刃はまっすぐ突き進むだろう。溝を雨水が流れるように。あとはそれを見送るだけでいい……



 ☆★☆★☆★☆★☆



 風を切る音は、思ったほど響かなかった。


 時間と暗さが違うからだろう。雨季を控えた午前の日差しは、幻の熱帯夜をそれなりに演出する。中途半端な柔らかい風も、気だるげな人々の表情と合わなくはない。さりとて威嚇の効果まで萎められるのは、些か不本意と言わざるを得なかったが。偶然与えられた不利を努力で覆すのは難しい。


「こら。原種」


「ぅあぉあああっ!?」


 ほとんど悲鳴。少しは効き目があったようだ。見た目によらず臆病らしい。軋んだ音の歪みが半端な苛立ちを呼ぶ。最初の反応は予想の範囲。無様なほど怯え、それから見下したような視線に変わる。忌むべき妖魔が幼いことに気づくと、無精髭の男はぞんざいな口調で何だよ、と吐き捨てた。


「まだガキじゃねぇか。びびって損したぜ」


「愚かね。見たままだと思うの?」


 エルフ族の肉体は二十歳を境に成長が止まる。それから寿命の二千年まで、ずっと若いまま生きてゆく。全員が部族の戦士であり、戦いの技や経験は重ねた歳月に比例する。百歳の戦士もいることを考えれば、十四歳が十二歳に見えても実力的には大差ない。


 エルフ族が最も得意とする武器。それは神の言葉を用いた事象の改変である。攻撃から防御まで多様な術式が存在し、優れた使い手ならば微動だにせず大軍を滅ぼしたという。


 原種社会では失われて久しく、知らぬゆえの憶測が彼らの恐怖を膨らませている。この男にしてもエアにそこまでの力があるとは思っていまい。素手の少女を相手に緊張を隠せないのは、昔聞かされた伝説の記憶が頭の片隅に残っているからだった。


「私達エルフの領土と知っての狼藉?何ひとつここから持ち出すことは許さないわ」


 視線に矢のような力を込める。こんな村の近くに侵入者がいるとは思わなかったから、弓矢は家に置いてきていた。これで怯まなければ、次は熱の精霊を宿す。威嚇にはなりにくい地味な能力だが、素手でも触れば酷い火傷を負わせられる。彼女の非力さを補うのに充分な力だ。戦って勝つ自信はある。


 原種の男は、エアを童顔の大人とは見做さなかった。にやにや笑いながら短剣の柄を弄んでいる。殺せばアトルム全体を敵に回すから、あるいは捕まえて必要な情報を吐かせるつもりなのかもしれない。


 敵は油断している。エアのほうには、この男を殺して困る理由もなかった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



(今が好機。緒戦で勝負を決める)


 何度か深呼吸すると、エアの髪が暗褐色に変わった。依代の外見は、宿す精霊の特質に大きく影響される。


「ガキのくせに魔法かよ!」


 男の危機感が跳ね上がった。一気に始末するか、それとも尻尾を巻いて逃げだすか。目に見えて狼狽しており、どちらを選ぶべきか迷っている。間合いの外から嬲り殺されるのを警戒しているのだ。


 これで精霊に対する理解度が読めた。個別の精霊については無知。今からエアが何をするのかも分かっていない。地を蹴ると同時に原種の男も短剣を抜いた。術が来ると思っただけに、ますます混乱している。動きがなっておらず、突き出された刃を避けるのは容易い。よくそんな腕で危険を冒したと驚くほど。最小限の動きでかわすと剝き出しの利き腕にそっと手を触れた。


「あぢぢぢぢぢッ!?」


 深追いせず、すぐ間合いを取る。男の肌には焼け爛れた手形の痕がついていた。白く腫れ上がった水膨れが痛々しい。次の狙いは涙目で傷口を庇う左。腕力が要らない分だけエアのほうが動きやすい。振り回される上腕を掻い潜り、もう一つ焼印を進呈する。


「んげっ!?…こ、この……!」


「降参しなさい。そうしたら楽にしてやる」


 火傷で死ぬのは苦しい。ヒトの場合、表面積にして二割程度の損傷により重篤な状態まで進む。呼吸困難や不整脈に喘ぎながら、終わりの見えない地獄と闘う。エアの手は女性にしても小さかったが、あと数回押しつけてやれば身動きさえ満足に取れなくなる。


 地面に蹲った男は、大粒の冷や汗をかいていた。今やめれば命に別状はない。曲がりなりにも冒険者、応急手当の仕方くらい心得ているだろう。あえて生かし、ニンゲンの里で森の恐ろしさを吹聴してもらうのも手。成人前のエアは、食べるため以外で何かを殺したことがなかった。我ながらえげつないと感じていることは、おくびにも出さずにおく。


「じょ、冗談じゃねぇぞ……」


 青色吐息の男が呻いた。膝を立てた姿勢のまま、鋭くエアを睨みつける。胡乱な奴と思っていたが、どうやら見た目より骨があったらしい。金儲けのためとはいえ、命の危険を冒してくるのだから当然と言えば当然か。思わず見直してしまい、それから一瞬で後悔する。意外な素早さで起き上がると、原種の男は直ちに回れ右をしてエアとは反対の方角に駆け出した。向かってくると思っただけに、追い撃ちも忘れて男の背中に叫ぶ。


「えっ……えええ!?ちょっと!あんた……」


「るせぃ!命あっての物種だ!」


 律儀な返事を残して消えた。男の姿は人混みに紛れて見えない。探し出して殺そうにも、これでは無理だろう。ここへ来た目的を果たす前に日が暮れる。


 強く自分を意識し、熱の精霊を追い出した。それに合わせて髪と光彩の色が元に戻る。


 あれほどの騒ぎにも、古の都は動じない。永遠とすら思える平和な時間を享受する。今もどこかにあるのか、それとも滅びてしまったか。本物を訪れる機会があれば是非行ってみたいと思う。もしも神様に会えたら、そう願ってみるのも悪くない。


 思いきり背筋を伸ばして、全身の緊張を解す。それから笑みを浮かべると、少し大きな声で呟いた。


「ま、いっか。あいつ弱そうだったしね」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 原種の男が去った後、エアは地道な聞き込みを再開した。熾火を見て強く反応した人々に刻んだ文章を見せまわったのである。しかしこの作戦は間もなく失敗に終わった。


 まず火の玉が飛び、続いて無骨な文字盤が迫ってくる。いきなり金属の欠片が追いかけてきたらエアだって驚く。しかも見えない声の主は、妙なことを訊ねてくるのだ。彼らにしてみれば怪奇現象以外の何物でもない。これで逃げるなと言うほうが無理だろう。


 そんな騒ぎを起こして学んだのは、とある意外な事実。神の国に住む人々が、術の存在自体を全く知らないということだった。


(アウラやカスパルは、神々の中でも特別な存在だったのかもしれない)


 アウレアに伝わる神は、大きく分けて三つ。ニンゲンの崇める神、ニウェウスが祖先と呼ぶ神、アトルムが教えを乞う神だ。これらに創世の礎アウラを加え、全部で二十四柱の神々がいるという。ラダラムらドワーフが主と仰ぐカスパルも、アトルムの奉ずる六柱の一つに数えられる。


 交信の方法は分かっているが、実際に会話できた者は少ない。すぐ応じてくれたり、延々待って音沙汰ないときもある。首尾よく捕まえられた場合、高位の術者ほど円滑に交信できるようだ。余程忙しいのか、中断されることも珍しくなかったが。


 ちなみにエアは、まだ一度も神と対話したことがない。続けて交信するには、少なくとも百年の修業が要る。アウラの居場所を直接訊けたら簡単なのに――そう思わずにはいられなかったが、子供の遊びに若長達を付き合わせるわけにもゆかない。


 また手詰まり。ラダラムの時計は、既に短い針が三分の一ほどを回っている。外の時間ではもうお昼時だ。


 よろしくとは言ったものの、兄のルークは行儀が悪い。戻って食べさせなければ、確実に幼馴染みのところへ転がり込む。傍から見ても仲がいいから無碍にはされまい。しかし彼女には恋人がいる。お腹も空いてきたことだし、一度家に帰るか。


「……よし」


 文字盤を隠し、ひらりと身を翻して立つ。


 兄に餌付けをし、自分も何か口に入れて戻ってくる。林檎酒のことがばれなければ大丈夫だ。ラダラムには悪いが、水甕を運ぶのは明日。それから若長のシェラに話を訊く。神話に造詣の深い彼女なら、面白そうな話を知っているかもしれない。


「また来るよ。絶対見つけてやるんだから」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 思い立ったら行動する。それがエアの美徳であり悪癖だ。しなければならないことを思い浮かべては、声に出しながら整理する。


「まずは広場。ラダラムさんに断らないとね」


 目的は彼の時計だ。一度戻ってきたが、探検を続けたいので夕方まで貸してくれるよう頼む。最初からそういう約束だったから、無理なことはないだろう。


「…何じゃ。もう戻ってきたのか」


 木立を抜けて広場に出ると、ラダラムは弁当を広げたところだった。正確には単なる保存食。店の商品と言い換えてもいい。自生している野草を加え、煮込んだだけの簡単なもの。ぞんざいな言葉とは裏腹に、どことなく安心したような気配が感じられる。


「ちょっと事情があって。この時計、もう少し借りててもいいですか?」


「それは構わんが……何をそんなに急いどる?」


「早く餌付けしないと、お兄ちゃんがいろいろ……じゃあまた!」


 会話もそこそこに走り出す。まだ何か言いたそうだったが、きっと水甕のことだろう。明日必ず引き取りに行くからと、心の中で詫びておく。


「次は……御飯か。まだいるといいけど」


 その期待は裏切られた。さほど遅れていないはずだが、ルークは僅かな空腹も我慢できない。彼の大好きな林檎も秘密の場所に隠しているから、一人では食事ができないようになっている。万一見つかったときに備え、五箇所に分散する念の入れようだ。その中の一つ、家の裏手を流れる小川の下流に沈めた網の中から、よく冷えたのを摑んで一口齧る。硬く引き締められた林檎は、身震いするほど酸っぱかった。


 見つかりやすい場所ゆえ、ここにはルークの好みに合わない林檎だけを集めてある。また彼は濡れるのが嫌いだから、そういう意味でも少しは躊躇ってくれるように。しかし今回は裏目に出てしまったかもしれない。訴える相手がいなければ、矛先を変えるだけのこと。


 修羅場の予感がする。せめて血は流れていませんように――幸いエアの勘は外れた。とはいえ全くの杞憂とも言い切れなかったのである。


「あらエア。いらっしゃい」


「こんにちはアローナさん。戦況はどうですか?」


 顔を出した家主に逸早く問いかける。深刻そうな妹分の風情にエプロン姿の纏め髪は優しげな目元を綻ばせた。兄と同い年の彼女は、エアにとって姉のような存在である。ルークの扱いにかけては、ライセンの村でアローナの右に出る者はいない。


「いつもと同じよ。そんなに心配しないで」


 僅かに身を退いた隙間から内部の様子が窺える。古い樫のテーブルには、長身の偉丈夫と闇色の四足獣が並んでいた。どちらも背中を向けており、ここから表情は見えない。左は最古参の若長グスマ、右はエアの兄ルークだ。人外の魔物を兄と呼ぶことについては、少し説明が必要だろう。


 人型の両親を持ちながら、四足の変異体として生まれた忌み子。総じてバーゲストと呼ばれる彼らは、虎並みの体格と犬に似た頭、優れた身体能力や高い知能を持つ。だが生まれつき不稔であり、構造上の問題から言葉も全く喋れない。不完全な神化の賜物アトルムには、時として偉大な失敗作が出現した。


 とほ、と肩を落とす。言葉を理解しているはずなのに、何故かこういうことをする。毎度のことなのだが、何を考えているのか分からない。


「今日は巡回の日なんです。サボってアローナさんの家に来ていることが若長にバレたら……」


「上手くやっておくわ。何か用事があるんでしょう?」


 胸を叩いて請け負うと、台所へ行って小さな包みを持ってきた。手渡されたそれは、ほんのりと温かくて柔らかい。アローナお手製の出来立てパイだ。酸味が抜けた林檎の甘い匂いが鼻腔を擽る。


「はい、エアの分。硬くなるから冷めないうちに食べてね」


「いつもすみません。今度いいところの実を持ってきますから」


 軽く頭を下げて感謝の意を示すと、アローナに背を向けた。包みの数は三個。別の若長を訪ねるのに手土産としては丁度よい。


「気をつけて行ってらっしゃい。楽しみにしているわ」



 ☆★☆★☆★☆★☆



 若長シェラの家は、村の広場から遠いニウェウスとの境界側にある。もしも攻め込まれたとき、彼女が先頭に立って敵を食い止めるためだ。すぐ駆けつけられるよう、ほぼ最前列に位置している。


 白兵戦の場において、シェラの実力は年長の若長グスマを凌ぐ。それゆえ誤解されやすいが、普段の彼女は温厚そのものだ。時には気弱な一面を見せることもある。族長が彼女に期待しているのは、個人の武勇による味方の士気向上――養父の独り言を以前に聞いた。未熟な少女の目から見ても、他人の命を背負うには優しすぎると思えた。


(この悪い癖がなければ、だけど……)


 人見知りをするシェラは、照れ隠しに過剰な演技の仮面を佩く。


 相手の性別によらず、妖しい声音で隠微な言動を繰り広げるのだ。


「……いらっしゃい。よく来てくれたわ」


「普通に喋っていいですよ。ここには私達しかいませんし」


「………………」


 ほっと溜息を洩らし、軽く握った右手で胸元を押さえる。硬く俯いた仕種は、十四歳のエアと比べても遥かに少女らしい。


「…他に人がいるかもしれないって思いましたから……」


 このことを知っているのは、エアの他に族長と若長のグスマだけだ。若長見習いのバルザも、シェラとは歳が離れているため本当の彼女を知らない。


「いませんよ。約束はちゃんと守ります」


 安心させるように頷く。表向きの彼女は、妖艶な美女で通っている。賢者グスマと双璧を成す自信に満ちた武の若長。半分は仲間のためであり、もう半分は彼女自身を守るためだ。


 秘密を知ったのは五年前。思いつきからシェラを尾行し、一人で愚痴を零している場面に遭遇した。内容はいかにも女々しく、頼りないものだったことを憶えている。


 ルークと一緒でなければ、途中で気づかれていただろう。柔軟な四肢を持つ彼は、小柄な妹を背中に乗せても気配を断つことができる。苦手な祭りから解放されて、気が緩んでいたのかもしれない。強そうに見えた若長の弱さに触れて、エアは彼女の心を守ろうと決めた。


「…今日来たのは、いろいろ教えてほしいことがあったからです」


 単刀直入に来意を告げる。


「シェラさんは、伝説の都を見たことがありますか?」


 元から大きな瞳が、更に丸く見開かれた。アウレアの者なら創世神話は知っている。しかし実際に見たことがあるかというと話は別だ。


「え……?」


「見たんです。森の外れ、ニクスとの緩衝帯近くで」


 宝探しに誘われたところから、順を追って話してゆく。街と森が重なって見えたこと。街の中だけが夜だったこと。マテリアライズしなければ何も触れなかったこと。原種と思われる人種しかいなかったこと。彼らにはエアの声や姿が認識できなかったこと。


「つまり……本物ではない?」


「不思議な感じでした。質感はあるのに触れないんです」


「……そう………」


 それきり黙ってしまった。深刻な表情で腕組みしながら考え込む。やはりシェラは神域の幻が浮かぶ現象を知っている。何をそんなに悩んでいるのか、それは訊いてみるまで分からなかったが。


「あ……ごめんなさい。驚いたものですから」


「…顔色が悪いですよ。疲れてるなら出直しますけど……」


「ありがとう。でも大丈夫。あれのことについて知りたいのでしたね」


 子供に聞かせてはいけないのだけれど。そう前置きしてシェラは話を続けた。明日の明け方、エアは十五歳を迎えて大人になる。今教えたところで変わりないと考えたのだろう。忘れ去られて久しい知識だが、また必要になる時代が来ているとしたら。部族の平和を守るために、多少の禁は破ってでも伝えておかなければならない。


「出入を許可したドワーフ……ラダラムと云ったかしら。彼は何を持ち出したの?」


「何って……ただの包丁です。『ちたんせらみくす』とか呼んでましたけど」


 シェラの口調は尋問の様相を呈していた。お土産のパイを渡す機会を逸し、思わず弁解するように答えてしまう。若長としての責任感が、今の彼女を動かしているのだろうか。


「それだけ?他に持ち出したものは?気になることを言っていなかった?」


「え、ええっと……」


 他に持ち出したものはない。奴隷として誰かを連れ出したようなことも。


 気になること。そう言われても、何を気にすればよいのかが分からない。


「訊き方を変えるわ。彼は今どこにいるの?あなたにどこまで教えたの?」


 ラダラムは広場にいる。ついさっき会ったばかりだから間違いはあるまい。


 気になることといえば……そうだ。懐中時計を渡されて、短い針が一回りする前に帰ってこいと言われたこと。その後も何か言いたそうだったが、水甕のことだろうと勝手に決めつけて聞かなかった。


「心配してくれているようでした。危険はないって言ってたのに……考えてみると、これってかなり変ですよね」


「分からないわ。どういうつもりで態度が変わったのか……」


 神様の話を最初に持ち出したのはエアだ。しかし見つけることで得があるかまでは訊かなかったと思う。どんな願いも叶えてくれる、話の流れで教えてくれたようなもの。


「小人族は代々野心がなかったの。彼個人も同じと見てよさそうね」


 物作りと商いに生きる小人族は、得てして異種族社会との相性がよい。魔族の生まれにもかかわらず、ニウェウスを除く全ての種族と友好関係を保っている。決まった領土を持たない獣人族と違って、組織的な力がないわけでもない。共存を得手とする彼らにとって、覇道を望む必然がなかった。


「そういえば……原種の男も見かけました。幻じゃなくて生身の」


「!?…ニンゲンを見たの?」


「はい。すぐ追い払ってやりましたけど。薄汚い臆病な奴で。あれが冒険者っていうんでしょうか」


 相手が一人だったこと、舐められていたことが幸いした。今にしてみれば、かなり無謀だったと思う。敵の伏兵が近くに隠れていたかもしれないのだから。


 だが予想に反して、軽率を窘められることはなかった。状況は見習いの遊びという次元を遥かに超えてしまったのである。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「…ニンゲンの国、神社、豪商、冒険者……獣人。ニウェウス、アトルム」


 単語を並べるうち、シェラの声音が厳しさを増してゆく。


「最初は獣人の世界だった。一番数が多かったからね。その次はニウェウス、その次はニンゲンの言霊使いリュドミーラ……」


 ニウェウスが原種を嫌うのは、それ以来と言われている。アトルムの姿は争いの場になかった。そもそも生まれる前のことだったからである。


「獣人族の繁栄は自ら勝ち取ったもの。本当かどうかは分からないけれど、ニウェウスも神の末裔として人々を導いたと。彼らはそう主張しているわ」


 だが証拠はない。女王ティターニアが唱え、他のニウェウス達はその言葉を信じているだけである。


「獣人達の地位を簒奪したとまで言われなければ、私達も信じなかったでしょう。ティターニアと昵懇だったアウラは、同胞の弥栄を願う友の祈りを歪めて叶えました」


「…ち、ちょっと待ってください」


 知恵熱が出てしまい、段落を見計らってシェラの言葉を遮る。


 伝説や昔話の類は、年に一度村の子供達を集めて聞かされる程度だった。この島にニンゲンが上陸してからの百年間を憶えるだけでやっと。況してやアトルムが生まれる前、それも異種族の歩んできた歴史など。


 長くなりそうである。全部を聞いている暇はなかった。


「…私がやるべきこと。とりあえずそれだけ教えてください」


 直感は間違っていなかった。アウラは誰かが来るのを待っている。


 だから『願い』という餌を撒いて力ある者を呼び寄せた。


 最初はニウェウスの女王。次はニンゲンの言霊使い。


 あるいは他にもいたか。その者達は世界を望まなかっただけ。


「…族長や若長は、ここを離れるわけにはゆきません。そして今は、過去の改変も辞さないニンゲン達の世紀です。再び『願い』を許したら、何が起きるか分かりません」


 急がねばならない。シェラも同じ結論に至ったようだ。ここからは遊びであって遊びではない。自ずと表情が引き締まる。


「フランとゼクスを連れてゆきなさい。それとルークも」


 げっ、と言いそうになるのを喉元で我慢する。


 フランは変わり者、ゼクスは乱暴な武闘派だ。どちらも一足先に成人した男達であり、ゼクスのほうは何かとエアを馬鹿にする。できれば関わりたくなかったが、任務と思えば仕方がない。


「バルザを行かせたいところですが、ルークなら代役として充分でしょう。特にもクラウヴェルの使徒達に願いを叶えさせてはなりません」


 重要な役目らしい。しかし意外と緊張はなかった。あるのは心地好い昂揚感だけ。


 それが戦士として与えられる、一番最初の任務だった。



 ☆★☆★☆★☆★☆



「……遅い」


 三十分後。エアは大樹の根元にいた。


 ルークも一緒である。見張りの定義を拡大解釈して、今回の探索に加わった。まだ安全な村の中ゆえ、気持ちよさそうに日光浴を愉しんでいる。


 ふかふかの毛並みに寄り添いながら、エアは七度目の愚痴を呟いた。


「遅い……」


 陽射が押し入ってきて、僅かに位置を変える。それほど待っても二人は現れなかった。


「…あんの馬鹿共。何やってるんだか……!」


 悪態をついて、ひらりと起き上がる。


 召集の伝達は、ルークが契約する風の精霊を介して行われた。水の中か土の下にでもいない限り、まず聞こえないということはない。


 最初に思いつくのは意図的な無視。ゼクスは女と子供を見下している。今日までとはいえ、エアはまだ見習いだ。女の若長が命じ、奴隷戦士の術を使い、未熟な女の声で届けられた指令。その手の悪癖がないフランも、腐れ縁の従弟に巻き込まれたのだろう。


 自分達だけが馬鹿にされたのではない。問題はむしろ若長だ。勝手を許せば部族の秩序に差し障る。シェラのためにも、ここは圧倒的な力を以て屈服させるべきか。


「行くよ。お兄ちゃん」


 ルークはさも大儀そうに一声啼いた。

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