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第三話:大坂城の影と「昭君の間」

# 第三話:大坂城の影と「昭君の間」


関ヶ原の激戦から数年。天下の情勢は、如水の予見通り、急速に徳川一色へと染まりつつあった。


慶長八年(一六〇三年)、徳川家康は征夷大将軍に就任。江戸に幕府を開き、豊臣家を一介の大名として押し込めようとする執拗な圧迫を始めた。大坂城に囲われた豊臣秀頼はすでに二十歳を迎え、凛々しい青年へと成長していた。だが、徳川の天下が盤石になればなるほど、その命脈が尽きつつあることは、誰の目にも明らかであった。


その危機を最も肌で感じていたのが、肥後・熊本城主の加藤清正であった。


「このままでは、遠からず大坂は囲まれる。太閤殿下の血筋が絶えてなるものか」


慶長十六年(一六一一年)春。清正は、京の二条城で行われた家康と秀頼の会見に護衛として同席した。そこで家康が秀頼の聡明さに危機感を抱いていること、豊臣を助命する意志が微塵もないことを確信した清正は、ついに決断する。


京からの帰路、清正は密かに豊前の中津城へ急使を飛ばした。


――「かねてよりの秘策、今こそ動かす時。御隠居殿、熊本城へお越しくだされ」


数日後。熊本城の最奥、本丸御殿の一室に、黒田如水、加藤清正、そして島津義弘の三人が再び顔を揃えた。


如水が通されたのは、清正がこだわり抜いて造らせた絢爛豪華な部屋であった。壁や障子には、中国の故事に伝わる悲劇の美女・王昭君の姿が、金碧の絵の具で鮮やかに描かれている。


「……ここが、噂に聞く『昭君の間』か」


如水は静かに部屋を見回し、低く呟いた。


「昭君、すなわち『将軍』。清正殿、この部屋を造った真の意図は、やはり秀頼公をここへ迎えるためであったな」


清正は真っ直ぐに如水を見据え、力強く頷いた。


「その通りにございます。この部屋の床下には、城外へと通じる隠し通路が掘ってある。いかなる大軍に囲まれようとも、秀頼公を逃がし、守り抜くための牙城。それがこの熊本城です。……官兵衛殿、これより大坂城から秀頼公をお連れする。どうかお力添えを」


島津義弘が腕を組み、鋭い目を向けた。


「大坂城の周りは徳川の素破で溢れておるぞ。輿に乗せて堂々と連れ出すなど、到底かなわぬ。清正、いかにして秀頼公を九州へお連れするつもりだ」


「そこで、御隠居殿の知恵をお借りしたいのです」


清正の言葉に、如水は水面のように静かな笑みを浮かべた。


「案ずるな。すでに手は打ってある」


如水がパチリと指を鳴らすと、天井の影から、音もなく一人の男が舞い降りた。黒田家に仕える忍びの頭領である。


「大坂城内には、我が黒田の素破がすでに深く潜り込んでおる。さらに、豊臣の忠臣・真田幸村とも密かに気脈を通じておる。……清正殿、島津殿。家康が『方広寺の鐘銘』などに難癖をつけ、大坂攻めの大義名分をでっち上げるのは時間の問題だ。奴が兵を動かす、その前夜こそが唯一の好機」


如水は地図の上に指を立てた。


「大坂城の地下道から淀川の水脈へ抜ける。そこには我が黒田の水軍が偽装した商船を待たせてある。秀頼公と淀殿をその船に乗せ、徳川の監視の目を掻い潜りながら瀬戸内海を一気に西進。清正殿、お主の領内である肥後・三角の港へ引き入れる。これならば、家康の鼻を明かせよう」


義弘が不敵に笑った。


「瀬戸内を通るなら、我が島津の水軍も護衛に出そう。徳川の船が近づけば、海の藻屑にしてくれるわ」


「ありがたい。……だが、清正殿」


如水は一転して、冷徹な軍師の目を清正に向けた。


「秀頼公を熊本へお迎えしたその瞬間から、我らは徳川に対する明白な謀反人となる。もはや引き返せぬぞ。その覚悟はあるか」


清正は一歩も退かなかった。その拳は、怒りと決意で固く握りしめられていた。


「豊臣の御恩に報いるためなら、この命、いつでも家康にくれてやる。黒田殿、貴殿の野心、この清正が共に担おう!」


「よし」


如水は、静かに、しかし深く頷いた。


――数ヶ月後。大坂城から忽然と、豊臣秀頼の姿が消えた。


家康が慌てふためき、日ノ本中に捜索の網を広げた時には、すでに遅かった。


秀頼は熊本城「昭君の間」の畳の上に端座し、窓の向こうに広がる九州の天を静かに見上げていた。


名分は揃った。黒田の知略、加藤の武勇、島津の蛮勇。そして豊臣の御大将。


徳川の支配に抗う巨大な拠点が、ついに西の地に完成した。如水の眼裏には、すでに次なる国造りの青写真が描かれていた。

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