第二十一話 万里の長城、崩壊す
# 第三部 第一話:万里の長城、崩壊す
第二部における宮古島沖の激戦で、西欧列強が誇る「無敵艦隊」を撃ち砕いた日ノ本の大朱印船艦隊。その勝利はアジアの海に確固たる平和をもたらしたかに見えた。しかし、海上の静寂とは裏腹に、西の広大な大陸では千年の歴史を揺るがす地殻変動が進行していた。
元和九年(一六二三年)。
北方の峻烈な大地より湧き出た女真族の軍事天才、ヌルハチ率いる「後金(後の清国)」の八旗騎兵軍団が、かつてない猛威をもって南下していた。かつて大国と謳われた明国は、長年にわたる朝廷の腐敗、度重なる飢饉、そして辺境の守備兵による反乱によって、内側から瓦解しつつあった。
明国が誇る鉄壁の防衛線、巨大な岩石を積み上げて築かれた「万里の長城」。その東端に位置する要衝・山海関が、守備隊の裏切りによってついに清国軍に開け放たれた。
「長城、崩壊す!」
その凶報とともに、大地を埋め尽くす数十万の清国騎馬兵が中原へと雪崩れ込んだ。圧倒的な武力と冷徹な進軍の前に、明国の防衛線は紙細工のように引き裂かれ、ついに都・北京が陥落。最後の皇帝・崇禎帝は、煙に包まれる紫禁城の裏山で自ら命を絶った。二百七十余年続いた大帝国・明は、ここに事実上の滅亡を迎えたのである。
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同じ頃、日ノ本・大坂城。
春の柔らかな陽光が注ぐ大広間に、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。
大坂合議会の最高海軍提督・黒田長政は、大陸の素破から届いたばかりの密書を手に、深く眉根を寄せながら上段の間の豊臣秀頼を見つめていた。
「秀頼公。北京が落ち、皇帝が崩御なされました。大陸は今、清国の騎馬軍団によって完全に蹂躙されております」
三十路を越え、溢れんばかりの威厳と理性を湛えた秀頼は、その報告にゆっくりと目を伏せた。
「第二部で我らが明国と同盟を結び、渤海湾で清国を退けたのは、ほんの数年前のこと……。一時の勝利に安んじ、大陸の内憂を見抜けなかったか」
そのとき、重い襖が勢いよく開いた。
息を切らせて現れたのは、長崎の総督を務める智将・栗山四郎兵衛であった。その背後には、異国の豪華な官服をまとった数人の男女が、血と泥にまみれたまま、力なく従っている。
「殿、秀頼公! 長崎の港に、明国の残存艦隊が命からがら逃げ着きました。こちらにおわすは、亡き皇帝の血を引く若き皇族・唐王朱聿鍵殿。そして明国再興を誓う遺臣、鄭芝龍殿にございます!」
諸将が息を呑むなか、唐王は秀頼の前で崩れ落ちるように膝をつき、大粒の涙とともに床へ深々と頭を打ち付けた。
「日ノ本の主、ならびに諸侯の皆様! どうか……どうか、我が明国の哀れな民をお救いくだされ! 都は焼かれ、漢民族の誇りは清国に踏みにじられております。我らにはもう、この海の向こうの友邦・日ノ本しか頼れる国がないのです!」
唐王の傍らで、鋭い眼光を放つ海の英雄・鄭芝龍も、静かに、しかし熱を帯びた声で訴えた。
「秀頼公、長政殿。私はかつて平戸に暮らし、日ノ本の優しさと武勇を身をもって知る者。今も大陸の沿岸では、我が鄭一族の水軍が清国への抵抗を続けております。されど、陸の八旗兵を止めるには、貴国が誇る最新鋭の黒鉄の巨船と、火縄なき銃兵の力が不可欠なのです。どうか亡命政府の樹立を認め、再び大陸へ義の兵を!」
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明国の滅亡、そして「亡命政府」の哀願。
かつて秀吉の時代には侵略の対象であった明国が、今や日ノ本を「アジアの救世主」として頼ってきたのである。
大坂合議会はにわかに激しい議論の渦へと巻き込まれた。
「反対にございます!」
声を大にしたのは、島津忠恒であった。
「北京が落ちたということは、明国は名実ともに滅んだということ。旧き亡霊に義理立てし、無敵の清国軍と全面戦争を挑むなど、あまりに愚策! 我らは海路を封鎖し、静観するが上策かと存ずる」
これに対し、若き毛利秀就と加藤忠広が身を乗り出した。
「いや、島津殿。清国が大陸を完全に手中に収めれば、次は必ずやこの海を渡り、日ノ本へ牙を向けてくるでしょう。敵が巨大になりすぎる前に、明国の遺臣たちと手を結び、沿岸部で叩くのが上策。これこそ、如水公が遺された『時流を先んじて制する』知略ではありませぬか!」
議論が紛糾するなか、黒田長政はゆっくりと立ち上がり、かつて父・官兵衛が愛した水鉢へと歩み寄った。澄んだ水面には、今やアジア全体の縮図が映っているように見えた。
長政は静かに秀頼を見据えた。
「秀頼公。父・如水ならこう申したでしょう。――『国とは器、民とは水なり。器が壊れても、水は流れ続ける』と。明という器は壊れました。しかし、大陸に生きる数億の民の心は、いまだ清国に従ってはおりませぬ。我らがここで唐王殿を奉じ、大坂城に明国亡命政府を樹立すれば、日ノ本はアジア全体の『義の盟主』となります。清国を武力で滅ぼすのではなく、大陸の反清勢力を糾合し、新たな合議の世を大陸に築くのです。これこそが第三の戦い――黒田如水の遺産を完成させる、最後の旅路にございます」
長政の言葉は、広間の空気を一変させた。ただの派兵ではない。アジアの未来の形を決める、壮大な大計だ。
秀頼は深く頷くと、唐王朱聿鍵の前に歩み寄り、泥に汚れたその手を優しく、しかし力強く握りしめた。
「唐王殿、よくぞ生きて日ノ本へ辿り着かれた。豊臣秀頼ならびに大坂合議会は、貴殿を明国正統なる継承者と認め、その身の安全と、大坂城内への亡命政府の樹立を全面的に保証しよう」
秀頼の声が、大坂城の黄金の天井を震わせた。
「これより日ノ本は、清国の暴挙を止めるべく大アジア防衛軍を組織する! 長政、ただちに出陣の準備をせよ。我らの黒鉄の巨船を、再び大陸の海へ解き放つ時だ!」
「応!!!!」
諸将の凄まじい鬨の声が、大坂の空へと響き渡った。
万里の長城の崩壊は旧きアジアの終わりを告げると同時に、日ノ本が大陸の運命を担って戦う、最も壮大な「第三部」の幕開けであった。長政の脳裏には、かつて父が見据えた「戦なき新世界」の青写真が、くっきりと刻み込まれていた。
(第1話・完)




