9話 果たされなかった約束
その夜、みゆうはなかなか眠れなかった。
布団に入っても、目を閉じるたびに見えるのは、見沼の祠の前で向かい合っていたやえと宗助の姿だった。
やえはちゃんと言えた。
宗助も、やっと言えた。
また、ここで会おう。
その約束が、たしかに交わされたところまで見た。
なのに、今の自分のところまで声が残っているということは、その約束は結局、果たされなかったんだ。
そこがまだ見えない。
どうして。
何があったのか。
みゆうは何度も寝返りを打った。
ポケットに入れたままだったかんざしの欠片は、帰ってすぐ机の引き出しに戻した。
触れなくてもわかる。
あれはまだ終わっていない。
朝方、ようやく少しだけ眠った気がした。
でも起きたときにはもう、胸の奥にざらついたものが残っていた。
月曜日の教室は、いつも通りうるさかった。
紗奈とは、昨日の話のあと少しだけ空気が変わった。
気まずくなったわけじゃない。
むしろ、前より静かに近くなった感じがした。
「おはよ」
紗奈が言う。
「おはよ」
「昨日さ」
「うん」
「ありがと」
みゆうは少しだけ目を瞬いた。
「何が」
「ちゃんと話してくれて」
そう言って紗奈は笑った。
軽い笑い方だったけど、前より少しだけやわらかい。
みゆうも「うん」とだけ返した。
それ以上はまだうまく言えなかったけど、それでよかった。
全部を一気に変えなくてもいい。
昨日のことを思い出すと、少しだけそう思える。
でも授業が始まってしばらくすると、また胸の奥のざわつきが戻ってくる。
やえと宗助の、その先。
今日中にまた何かが起きる気がした。
予感というより、待っている感じだった。
放課後、みゆうは寄り道もせずに家に帰った。
誰かと話していると、いま見なきゃいけないものを見失いそうだった。
家にはまだ誰も帰っていない。
リビングの静けさが珍しくて、みゆうはそのまま自分の部屋へ入った。
机の引き出しを開ける。
かんざしの欠片は、昨日と同じ場所にある。
触れた瞬間、もうためらいはなかった。
熱い。
今まででいちばんはっきり、呼ばれている感じがした。
みゆうは椅子に座る間もなく、そのままベッドの端に腰を下ろした。
景色が薄くなる。
今度はすぐだった。
風の音も、足音も、何も段階を踏まない。
気づいたときには、夕暮れの見沼に立っていた。
祠の前。
空は赤くはない。
むしろ、色を落とし始めた時間だった。
昨日より遅い。
みゆうはすぐに気づいた。
空気が変だ。
やえがいない。
宗助もいない。
誰もいないのに、風だけが妙に急いで吹いている。
祠の前の土が少しだけ荒れていた。
誰かがさっきまでいたみたいに、足跡が残っている。
「やえ」
呼ぶ。
……返事はない。
「宗助」
今度は名前を呼んでみる。
その瞬間、背後で草を踏む音がした。
振り向く。
やえが立っていた。
でも、今までと少し違う。
着物の裾に土がついていて、息も少し乱れている。
目が赤い。
泣いたあとだ、とみゆうにもすぐわかった。
「……やえ」
やえはこっちを見なかった。
祠の前まで来ると、その場にしゃがみこむ。
何かを探しているみたいだった。
「何してるの」
みゆうが聞くと、やえはようやく顔を上げる。
その目の強さはまだ消えていない。
でも、今はそれより先に傷ついた感じが出ていた。
「宗助の」
「え」
「……手拭い」
土の上に落ちていたらしい、古びた布を拾い上げる。
手拭いというより、荷をまとめるのに使っていた布の一部みたいだった。
やえはそれをぎゅっと握る。
「来てたんだ」
みゆうが言うと、やえは頷いた。
「今日、出ることになったって」
その声は平たかった。
泣きそうではない。
逆にそれが痛い。
「急すぎない?」
「急だよ」
やえは短く言った。
「昨日の夜、決まったんだって」
風が吹く。
祠の横の草がざわざわ鳴る。
やえの髪に差したかんざしが少し揺れた。
欠けたままのかんざし。
みゆうの胸がぎゅっと縮む。
「じゃあ、約束は」
口にしてから、自分でも残酷だと思った。
でもやえは怒らなかった。
「したよ」
低い声で言う。
「したけど」
その先が続かない。
みゆうは黙って待った。
やえは握っていた布を見つめたまま、少しだけ笑うみたいに息を漏らした。
「守れないかもしれない、って言ってた」
宗助らしい、と思った。
みゆうはそれを聞いただけで、昨日の夜の宗助の顔を思い出す。
怖いんだよ。
約束して、戻れなかったら。
あの声。
「それでも、したんだ」
やえが言う。
「私が、そうしようって言った」
みゆうは少しだけ目を見開く。
やえは続ける。
「守れるかどうかじゃなくて……」
「そう思ったことを、ちゃんと残したかったから」
その言葉に、みゆうの胸が熱くなる。
やえはやっぱり強い。
でも強いだけじゃない。
怖くても、それでも言葉にしたいと思ったんだ。
「宗助は」
みゆうが聞く。
「何て」
やえはまた少し黙った。
それから、ようやくみゆうを見た。
「笑った」
「笑った?」
「うん」
やえの目が揺れる。
「困ったみたいに笑って……でも、ちゃんと嬉しそうだった」
そう言った瞬間、やえの声が少しだけほどけた。
そこにあったのは、怒りでも悔しさでもなくて、確かに好きだった時間そのものみたいな柔らかさだった。
「じゃあ、何で」
みゆうは息を詰める。
「何で、こんなふうに残ってるの」
約束した。
想いも通じた。
それなのに、声は終わっていない。
やえは視線を落とした。
「来なかったから」
その一言だけで、みゆうは全部の空気が冷えるのを感じた。
「……宗助が?」
やえは頷く。
「待った」
静かな声だった。
「ずっとじゃないよ」
「でも、待った」
みゆうは何も言えなかった。
見沼の風が通りすぎる。
「来なかった」
やえはもう一度言う。
今度は少しだけ苦く笑うみたいな声で。
「それで終わりだと思ってた」
「終わりじゃ、なかったんだ」
「うん」
やえは祠の石を見た。
「終わらなかった」
その意味が、みゆうには少しずつわかってきた。
約束が果たされなかったことじゃない。
やえの中で、どうして来なかったのかが終わっていないんだ。
裏切られたのか。
来たくても来られなかったのか。
何が本当だったのか。
答えのないまま、言葉だけが残ってしまった。
だから声になった。
だから今も続いている。
「……知りたいの」
みゆうが聞くと、やえは少しだけ顔を上げた。
「本当のこと」
やえはしばらく黙る。
風の音だけがある。
それから、ゆっくり頷いた。
「知りたい」
「宗助がどう思ってたか」
「うん」
「来なかった理由も」
「うん」
その“うん”は、今までのやえよりずっと幼かった。
みゆうは胸の奥が少し痛くなる。
やえは強い子だ。
でも今、目の前にいるのは、好きな相手の本当のことを最後まで知らないまま置いていかれた、ただの女の子だった。
「だったら」
みゆうは息を吸った。
「宗助の方を見ないと」
やえの目が揺れる。
「え」
「約束のとこだけ見てても、たぶん足りない」
「来れなかった日のこと、見ないと」
口にしながら、自分でもそれが正しい気がした。
やえの声は、約束の言葉そのものより、その先で止まっている。
じゃあ必要なのは、約束をした日じゃなくて、果たされなかった日の方だ。
やえは少しだけ息を止めたみたいに見えた。
「……見れるの」
「わかんない」
みゆうは正直に言う。
「でも、見なきゃ終わんない気がする」
やえはみゆうを見た。
初めて会ったときみたいな強い目じゃない。
でも、何かを決める前の目だった。
「みゆう」
「なに?」
「もし見えたら」
「うん」
「ちゃんと聞いて」
その言い方が、最初に頼まれたときよりずっと静かだった。
命令みたいじゃない。
託すみたいな声だった。
みゆうは小さく頷いた。
「聞く」
その瞬間、風が吹く。
でも今度は景色は崩れない。
代わりにやえの姿が少しずつ薄くなる。
「待って」
みゆうが言う。
「宗助のこと、何か残ってないの」
「手紙とか、物とか」
やえは一瞬だけ考えるみたいに目を伏せた。
それから、祠の足元に視線を落とす。
「……布」
「え?」
「宗助の荷の布」
「いつも持ってたやつ」
さっき握っていた手拭いのような布を見る。
「これ」
「それがどうかしたの」
「これ、本当は返すつもりだった」
みゆうは息を呑んだ。
やえは続ける。
「でも、返せなかった」
その言葉が落ちたとき、やえの姿はもう半分くらい透けていた。
みゆうは思わず前に出る。
「待って、それって」
でも、次の瞬間には景色がふっと遠のいた。
見沼の風も、祠も、やえの顔も全部薄くなっていく。
最後に残ったのは、やえの声だけだった。
「……それが、まだここにあるなら」
そこで途切れる。
みゆうは目を開けた。
自分の部屋だった。
ベッドの端に座ったまま、呼吸だけが浅くなっている。
机の上のかんざしの欠片は、今まででいちばん静かだった。
でも、もう次に何を追えばいいのかは少し見えていた。
宗助の荷の布。
やえが返せなかったもの。
それがまだ、ここにあるなら。
みゆうは立ち上がる――。
そのとき、部屋のドアが軽く叩かれた。
「みゆう」
はるかだった。
「ちょっといい?」
「……うん」
ドアが開いて、はるかが顔を出す。
「ママから電話あってさ、明日ちょっと畑の方に寄る用事あるんだけど」
みゆうは思わず顔を上げた。
「畑?」
「うん、知り合いに渡すものあるらしくて」
「うちに頼まれたんだけど、めんどくさいから付き合ってくれないかなって」
タイミングが良すぎて、一瞬何も言えなかった。
畑。
まだここにあるなら。
みゆうは胸の奥が強く鳴るのを感じた。
「……行く」
「即答」
「別に」
「いや、別にじゃない顔してるけど」
はるかは少しだけ笑った。
みゆうは何も返さなかった。
でも心の中では、はっきりしていた。
次で終わりに近づく。
宗助が来られなかった日のこと。
その理由。
やえが最後まで知らなかった答え。
それに、もう手が届くところまで来ている。




