10話 約束の声
次の日の空は、朝から少し白かった。
晴れているのに、光が薄い。
春の終わりより、もう少し先の季節へ移る手前みたいな空だった。
学校が終わって家に戻ると、はるかはもう玄関で靴を履いていた。
「おそ」
「普通」
「そう?」
そう言いながら、はるかは鍵を回して外へ出る。
みゆうも後を追った。
ポケットの中には、かんざしの欠片がある。
朝からずっと静かだったのに、家を出た瞬間から少しずつ熱を持ち始めていた。
「ママの知り合いって、どんな人なの」
歩きながら聞くと、はるかは肩をすくめた。
「昔から農家やってる人らしいよ」
「ママのママがちょっと世話になったとか何とか」
「へえ」
「うちもよくわかってない」
「適当すぎ」
「まあ、荷物渡すだけだし」
はるかのそういう軽さが、今日は少しありがたかった。
もし横で母が細かく説明していたら、みゆうはたぶん落ち着かなかったと思う。
畑の方へ向かう道は、何度か歩いたことがあるはずなのに、今日は妙に知らない場所みたいに見えた。
住宅が減って、空が広くなる。
土の匂いが濃くなる。
畑のあいだを抜ける風が、少し冷たい。
「この辺ってさ」
はるかが言う。
「夕方になると急に静かになるよね」
みゆうは小さく頷いた。
「うん」
「なんか、ちょっとこわい」
「そう?」
「うん」
「嫌な感じじゃないけど」
その言い方に、みゆうは少しだけ目を瞬いた。
嫌な感じじゃないけど、こわい。
それはたぶん、今の自分の感覚にも近かった。
少し歩いて、はるかは一軒の古い農家の前で足を止めた。
「たぶんここ」
門の横には、古びた表札がかかっている。
はるかがインターホンを押すと、少しして年配の女性が出てきた。
物腰のやわらかい人で、はるかが母から預かってきた包みを渡すと、何度も頭を下げた。
みゆうはそのあいだ、門の中の様子をなんとなく見ていた。
広い庭。
土の色。
軒先に吊された古い道具。
それから、その奥の納屋みたいな建物。
次の瞬間、胸の奥がどくんと鳴った。
納屋の脇に、見覚えのある形の布が干されていたからだ。
色は褪せている。
でもわかる。
あの布だ。
祠の前でやえが握っていた、宗助の荷の布。
みゆうは思わず一歩前へ出た。
「……あの」
気づけば口にしていた。
話していたはるかと女性が同時にこっちを見る。
「あれ」
みゆうは納屋の脇を指した。
「あの布、古いんですか」
女性は少しだけ不思議そうな顔をした。
「ああ、あれは古いよ」
「うちの蔵にずっと残ってたものでね」
みゆうの指先が少し冷える。
「昔のものですか?」
「そうねえ……いつのかはっきりは知らないけど、うちの先祖が持ってたものだって聞いたことはあるよ」
その言葉だけで、空気の色が変わった気がした。
ポケットの中のかんざしの欠片が、一気に熱を持つ。
みゆうは息を止めた。
「それ、どうかした?」
はるかに聞かれて、みゆうは首を振った。
「……ちょっと、見てもいいですか」
年配の女性は少し驚いたようだったけど、 「いいよ」と言ってくれた。
みゆうは納屋の方へ歩く。
足元の土がやけにやわらかい。
目の前の布は、やっぱり古かった。
手拭いというより、荷を包んだり結んだりするための丈夫な布だ。
端のほうが擦れて、少し破れている。
見た瞬間、みゆうにはそれが“返せなかったもの”だとわかった。
触れてはいけない気もした。
でも、もうここまで来て手を伸ばさない方が後悔すると思った。
みゆうはそっと布の端に触れた。
その瞬間、景色が弾けた。
土の庭も、納屋も、今の空も消える。
代わりに、荒れた風の音が耳に飛びこんできた。
雨が降る寸前みたいな空だった。
畑のあの道だ。
でも今まで見たどの時間よりも空が暗い。
風が強い。
草が伏せる。
祠の前には誰もいない。
みゆうはすぐにわかった。
これが、約束の日だ。
胸がぎゅっと痛くなる。
少し先、細い道の向こうから誰かが走ってくる。
宗助だった。
息を切らし、肩で空気を吸いながら、見沼の方へ必死に向かっている。
手にはあの布を握っていた。
顔色が悪い。
髪も少し乱れている。
みゆうは息を呑む。
間に合って、と思った。
でも、宗助の前に男が立ちはだかった。
年配の男だった。
顔立ちは宗助に少し似ている。
父親なんだとすぐわかった。
「どこへ行く」
低い声だった。
宗助が足を止める。
「……少し、行くだけだ」
「今さらか」
宗助は答えない。
男は一歩近づく。
「荷はもう出る、今から動いてどうなる」
「戻るって、約束した」
みゆうの胸が強く鳴る。
宗助はちゃんと言った。
ここへ来ようとしていた。
やえを裏切ったんじゃない。
ちゃんと、来るつもりだったんだ。
「約束」
男は吐き捨てるみたいに言う。
「今さらそんなものを優先してどうする、家の話はもうついてる」
「少しだけでいいんだ」
「少しで済む話じゃない」
宗助の顔が歪む。
「父さん」
「行くな」
その一言が、道を塞ぐみたいに落ちた。
宗助は拳を握る。
でも、相手は父親だ。
振り切って行けばいいのに、とみゆうは思う。
でも同時に、それができない理由も少しわかる。
家のこと。
奉公。
ここで逆らったら、自分だけの話では済まなくなる重さ。
宗助は動けない。
男は続ける。
「ここで余計な未練を残すな、向こうでどう生きるかだけ考えろ」
宗助は何も言わない。
その沈黙が、みゆうには叫び声よりつらかった。
やがて宗助は、一度だけ見沼の方へ顔を向けた。
祠の方角。
風の向こう。
……やえが待っている場所。
その目に、はっきりと後悔が浮かんでいた。
でも足は動かない。
みゆうは苦しくてたまらなくなる。
行って。
お願いだから行って。
そう思っても届かない。
宗助は手の中の布を強く握りしめた。
次の瞬間、それを胸元に押し込むように抱えた。
「……悪い」
誰に向けた言葉だったのかわからない。
父親にじゃない。
きっとやえにだ。
それから宗助は、見沼へ向かうのではなく、逆の方へ歩き出した。
風の中を。
振り返りもせず。
みゆうはそこで、胸の中の何かが静かに落ちるのを感じた。
これが本当だったんだ。
宗助は来なかったんじゃない。
来られなかった。
来ようとして、来られなかった。
景色がまた揺れる。
今度は見沼の祠の前だった。
やえが一人で立っている。
空はもう夕方を越えて、暗くなりかけている。
風が吹くたび、やえの着物の裾が揺れる。
でもやえは帰らない。
待っている。
まだ。
宗助が来る方をずっと見ている。
みゆうは息ができなかった。
やえは少しも動かない。
ただ、その目だけが少しずつ変わっていく。
信じていた時間から信じたい時間へ。
そこから信じるしかない時間へ。
そして最後には、何も言わずに立ち尽くすしかない時間へ。
みゆうはその全部を見た気がした。
やえはやっと小さく息を吐く。
それから、胸元から何かを取り出した。
小さな包み。
たぶん、返そうと思っていた布の端か、何か別のもの。
やえはそれを見たあと、祠の足元へ置く。
「……ばか」
その一言だけが、風にのった。
怒っているようにも聞こえる。
泣いているようにも聞こえる。
でも本当は、そのどっちでも足りない声だった。
「来ないなら」
「来ないって、ちゃんと言ってよ」
みゆうはそこで初めて、やえが最後まで知ることのなかった痛みの形を理解した。
来なかったことじゃない。
理由が届かなかったことだ。
本当は来ようとしたことも、止められたことも、 最後まで約束を捨てていなかったことも何ひとつやえには届かなかった。
だから終われなかった。
だから声になった。
風が吹く。
やえの髪が大きく揺れる。
差していたかんざしが外れかけ、欠けたままの先がまたきらりと光る。
みゆうは泣きたくなるくらい苦しくなった。
言葉ひとつ届かないだけで、こんなふうに残るんだ。
景色が引く。
今度は急だった。
みゆうは納屋の前に立ち尽くしたまま、はっと息を吸った。
目の前には今の布がある。
手はその端をつかんだままだ。
「……みゆうちゃん?」
年配の女性の声で我に返る。
少し離れたところで、はるかも心配そうにこっちを見ていた。
「大丈夫?」
みゆうは何度か瞬きをした。
「……うん」
声が少しかすれていた。
でも今は、はっきりわかっていることがあった。
宗助は来ようとしていた。
約束を忘れていなかった。
来られなかった理由もあった。
それをやえに伝えなきゃいけない。
みゆうは納屋の前からゆっくり離れた。
頭の中はまだ揺れている。
でも、もう迷ってはいなかった。
帰り道、はるかが横で小さく言った。
「今日さ」
「なに?」
「ほんとに大丈夫じゃなさそうだったけど」
みゆうは少し黙ってから、ぽつりと返した。
「……でも、たぶん大事なとこまで来た」
はるかは一瞬だけ目を丸くしたあと「そっか」とだけ言った。
それ以上は聞かない。
その感じがありがたかった。
家に着くと、みゆうはすぐに自分の部屋へ向かった。
机の上に、かんざしの欠片を置く。
もうあとはひとつだ。
見沼たんぼ。
祠。
やえが待ち続けた場所。
そこで全部を言わなきゃいけない。
やえの代わりじゃない。
でも、やえに届かなかった声を、自分が受け取ったなら。
ちゃんと返さなきゃいけない。
窓の外では、夕方の光が少しずつ沈み始めていた。
明日で終わる。
みゆうはそう思いながら、静かにかんざしの欠片を握りしめた。




