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約束の声  作者: ナオ
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11/11

最終話 帰る場所

 次の日の放課後、みゆうはまっすぐ見沼たんぼへ向かった。

 

 家へ帰るより先に、終わらせなきゃいけないことがあるとわかっていたからだ。

 

 空はまだ明るい。

 でも、風は昨日より少し冷たかった。

 住宅地を抜けて、畑の広がる方へ入ると、音が遠くなる。

 

 土の匂い。

 乾いた草の匂い。

 用水路の、細い水の気配。

 何度も来た場所なのに、今日は最初から空気が違っていた。

 

 待っている。

 この土地そのものが、そう言っているみたいだった。

 

 みゆうはポケットの中のかんざしの欠片を握る。

 もう熱い。

 

 歩くたび、その熱が少しずつ指先に移ってくる。

 祠の前まで来ると、風がぴたりと止んだ。

 みゆうは立ち止まる。

 

「……やえ」

 

 呼ぶと同時に、景色が揺れた。

 今の見沼の上に、もうひとつの時間が重なる。

 

 空の色が少しだけ褪せる。

 畑の形が変わる。

 道の土が、もっと近くなる。

 やえは祠の前に立っていた。

 

 昨日と同じ着物。

 欠けたかんざし。

 でも今日は、はじめからこっちを見ていた。

 

「来た」

 

 低い声だった。

 

 みゆうは頷く。

 

「うん」

 

「……聞けたの」

 

 その一言だけで、やえがずっと何を待っていたのか、全部わかる気がした。

 

 みゆうは小さく息を吸う。

 

「聞けた」

 

 やえの肩が、ほんの少しだけ揺れる。

 それでも目はそらさない。

 

「宗助は」

 

 その先を、やえは言わなかった。

 みゆうが言うべきことだと思った。

 

「来ようとしてた」

 

 やえの目が見開かれる。

 

 風が戻る。

 草の先がざわざわ鳴る。

 

「来なかったんじゃない」

 

 みゆうは続ける。

 

「来るつもりだった」

「ちゃんと、ここに戻るつもりでいた」

 

 やえの唇が少し開く。

 でも声は出ない。

 

 みゆうは、自分の胸も苦しくなるのを感じながら、最後まで言葉をつなげた。

 

「でも、止められた……家のことで、奉公のことで、行こうとしても来られなかった」

 

 やえはしばらく動かなかった。

 ただ、まばたきだけが遅い。

 

 みゆうは知っている。

 本当に欲しかった答えほど、すぐには入ってこない。

 

 自分の中に届くまで、少し時間がかかる。

 

「……ほんとに」

 

 やえの声は、今までで一番小さかった。

 

「ほんと」

 

「見たの」

 

「見た」

 

 みゆうは頷く。

 

「宗助、約束忘れてなかった」

「布も持ってたし、来ようとしてた……最後まで、やえに何も残さないつもりじゃなかった」

 

 そこで、やえの目から初めて涙が落ちた。

 静かな涙だった。

 

 声もなく、頬を伝って落ちる。

 でもやえは泣き顔を隠さなかった。

 

「……遅い」

 

 絞り出すみたいに言う。

 

「そんなの、遅い」

 

「うん」

 

「今さら聞いたって、どうにもなんないのに」

 

「うん」

 

 みゆうはそれしか言えなかった。

 なぐさめられないと思った。

 ここで大丈夫だよなんて言えない。

 だって本当に、どうにもならないから。

 

 やえと宗助は、もうあのときに戻れない。

 約束した日にも。

 来られなかった日にも。

 戻れない。

 

 でも、それでも。

 

「でも」

 

 みゆうはゆっくり言う。

 

「やえが知らないままなのは、違ったと思う」

 

 やえが涙で濡れた目のまま、みゆうを見る。

 

「来なかっただけで終わるのと、来ようとしてたって知るのは、たぶん全然違う」

 

 やえは何も返さない。

 でも、その目だけが少しだけ変わる。

 

 痛みが消えるわけじゃない。

 怒りも、寂しさも、たぶん全部残る。

 それでも、止まっていたものが少しだけ動き出す顔だった。

 

「宗助は」

 

 やえが息をつく。

 

「私のこと、忘れてなかった」

 

「うん」

 

 今度は、やえがちゃんと泣いた。

 

 声を上げるんじゃない。

 しゃくりあげるんでもない。

 ただ、張っていたものが切れたみたいに、その場にしゃがみこんで、肩を小さく震わせる。

 

 みゆうは少しだけ迷ってから、やえのそばへ行った。

 

 触れられるかわからない。

 でも、何もしないで立っている方が嫌だった。

 そっと肩に手を伸ばす。

 

 今までならすり抜けたかもしれないその体に、今度はちゃんと触れられた。

 

 着物越しの体温はない。

 でも、たしかにそこにいた。

 やえが小さく息を呑む。

 

「……あんた」

 

「なに?」

 

「ほんとに、へんな子」

 

「そっちも」

 

 みゆうが言うと、やえは泣いたまま少しだけ笑った。

 

 その顔を見た瞬間、みゆうの胸の奥にあった固いものが、少しだけほどける。

 

 やえはしばらく泣いていた。

 でも、やがて自分で涙をぬぐう。

 強い子なんだと思う。

 ただ強いんじゃない。

 泣いても、ちゃんと前を見る強さだ。

 

「みゆう」

 

「うん」

 

「私、あのとき……ほんとはもっと、ちゃんと言えばよかった」

 

 みゆうは黙って聞く。

 

「行かないでほしいって」

「好きだって」

「戻ってきてって」

「全部」

「もっとちゃんと」

 

 やえの声は震えていた。

 でも、今はもう逃げていない。

 

「でも、言えたんだよね」

 

 みゆうが言う。

 

「最後に」

 

 やえは少し驚いたみたいに目を上げる。

 みゆうは続ける。

 

「好きって」

「行ってほしくないって」

「ちゃんと言えた」

 

 やえは黙る。

 その言葉を、自分の中で確かめているみたいだった。

 

「……うん」

 

 やがて、小さく頷く。

 

「言えた」

 

「だったら……それ、ちゃんと残ってるよ」

 

 やえの目が、少しだけやわらぐ。

 風が吹く。

 見沼の畑を渡ってきた風が、祠のまわりを静かに抜けていく。

 

 その風の中に、もう一つの気配が混ざった。

 みゆうははっと顔を上げる。

 

 祠の向こう。

 畑のひらけた向こう側に、誰かが立っていた。

 

 宗助だった。

 はっきりした姿じゃない。

 夕暮れに溶けるみたいな、淡い影。

 

 でもその顔だけは、見間違えようがなかった。

 やえも気づいた。

 

 息を止める音が聞こえた。

 

「……宗助」

 

 宗助は何も言わない。

 

 ただ、やえをまっすぐ見ている。

 その目にあるものは、みゆうにもわかった。

 

 後悔。

 寂しさ。

 それから、たしかな想い。

 

 やえがゆっくり立ち上がる。

 

 一歩だけ前へ出る。

 でも追いかけない。

 もう追いかけなくていいんだと、たぶんどこかでわかっているからだ。

 

「遅い」

 

 やえが言う。

 涙で少しかすれた声だった。

 

「ほんとに遅い」

 

 宗助の影が、少しだけ笑う。

 困ったみたいな、でもやわらかい笑い方だった。

 

「知ってる」

 

 声は風に混ざるくらい小さいのに、ちゃんと聞こえた。

 

 みゆうは息を呑む。

 宗助は続ける。

 

「ごめん」

 

 やえは首を振る。

 

「……もういい」

 

 本当にそう思ったわけじゃない。

 全部が消えたわけでもない。

 

 でも、その言葉の意味はもう前とは違う。

 終わりにしていい、という意味だった。

 

「約束、忘れてなかったなら」


「それでいい」

 

 宗助の影が、もう一度だけ笑う。

 

「うん」

 

 その返事と同時に、風が強く吹いた。

 畑の向こうの空気が、夕暮れの光ごとほどけていく。

 

 宗助の姿が少しずつ薄くなる。

 やえはもう追いすがらなかった。

 ただまっすぐ見送っていた。

 みゆうも一緒に、その影が消えるまで見ていた。

 

 気がつくと、風は元に戻っていた。

 

 今の見沼の匂いだけが残っている。

 やえはしばらく何も言わなかった。

 それから、髪に差していたかんざしへ手を伸ばす。

 

 欠けたままのかんざし。

 やえはそれを外し、欠けた先を見つめた。

 

「返して」

 

 みゆうはポケットの中のかんざしの欠片を取り出した。

 

 薄桃色の玉がついた、小さな欠片。

 手のひらに乗せると、やえはそれをそっと受け取る。

 

 欠けた先と欠片が、ぴたりと重なるわけじゃない。

 

 でも不思議と、それで十分な気がした。

 やえはそれを胸元で握る。

 

「ありがとう」

 

 初めて、やえがそんなふうに言った。

 みゆうは少しだけ笑う。

 

「どういたしまして」

 

 やえも少し笑った。

 その笑い方は、最初に見た強い顔とも、泣いたあとの顔とも違った。

 

 ようやく軽くなった人の顔だった。

 

「みゆう」

 

「なに」

 

「ちゃんと言いなよ」

 

「……え」

 

「言いたいこと」

 

 やえはまっすぐ言う。

 

「言わないと残るから」

 

 みゆうは一瞬だけ返せなかった。

 でも、その通りだと思った。

 

 やえと宗助がずっと残してしまったものを、自分はもう知っている。

 

「……うん」

 

「ちゃんと」

 

「わかった」

 

 やえは満足したみたいに小さく頷く。

 それから、風に溶けるみたいに少しずつ姿を薄くしていった。

 

「やえ」

 

 みゆうが呼ぶと、やえは最後に振り返る。

 

「何」

 

「会えてよかった」

 

 やえは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、ほんの少しだけ照れたみたいに笑う。

 

「私も」

 

 その言葉を最後に、やえの姿は夕暮れの中へほどけて消えた。

 

 もう声は聞こえない。

 風の音だけが残る。

 みゆうはしばらく祠の前に立っていた。

 胸の奥はまだ少し痛い。

 

 でも、ずっとひっかかっていたものが静かに下りていく感じがした。

 

 帰り道、畑のあいだを歩きながら、みゆうはスマホを取り出した。

 

 紗奈とのトーク画面を開く。

 少しだけ迷う。

 でも今日は、前みたいに閉じなかった。

 

「今度またちゃんと話したい」

「この前のことも、もう少し」

 

 打って、送る。

 それから少し考えて、もう一通だけ送った。

 

「あと、卒業しても」

「できれば、今までみたいに会いたい」

 

 送信したあと、心臓がうるさく鳴った。

 でも嫌な感じじゃない。

 少し怖いけど、ちゃんと自分の声で言えた感じがした。

 

 すぐに返信が来る。

 

「うん、会うに決まってるじゃん」

「ていうか、こっちもそう思ってたし」

 

 その文字を見た瞬間、みゆうは少しだけ力が抜けた。

 

 笑いそうになる。

 泣きそうでもあった。

 空を見上げる。

 見沼の上の空はもう夜に近くて、遠くに細い月が出ていた。

 

 風が吹く。

 

 でも、もう知らない声は混ざっていない。

 ただ静かな、今の風だった。

 みゆうはその風の中で、そっと息を吐いた。

 言えなかった想いは、言わなければ消えるんじゃなかった。

 

 届かないまま残り続けるのだ。

 だからこそ、声にしなきゃいけない。

 そのことを、自分はきっともう忘れないと思った。

 

 歩き出す。

 家の方へ。

 少し変わった今の方へ。

 それでもまだ、ちゃんと帰っていける場所へ。

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