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約束の声  作者: ナオ
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8/11

8話 言わなきゃ消える

 日曜日の朝は、いつもより静かだった。


 母は用事で昨晩から出ていて、ともきとこはるも午前から出かけている。


 はるかだけが珍しく起きていたけれど、リビングのソファで毛布にくるまったまま、スマホを見ながらぼんやりしていた。


 みゆうは朝ごはんのトーストを半分残したまま、コップの牛乳を少しずつ飲んでいた。


「今日さ」


 はるかがスマホから顔も上げずに言う。


「紗奈と会うんでしょ」


 みゆうはコップを置いた。


「……なんで知ってるの」


「顔」


「またそれ」


「便利だから使ってる」


 はるかはそこで少しだけ笑った。


「まあ、スマホ見てる回数も多いし」


 みゆうは何も返さなかった。

 昨日、紗奈に話せると返したあとから、ずっと落ち着かなかった。

 何を話すのかはわからない。


 たぶん紗奈の方にも、ちゃんと話したいことがある。

 みゆうにも、本当はある。

 でもそれをちゃんと口にできるかは、まだわからない。


「みゆう」


「なに」


「言えそうなら言った方がいいよ」


 はるかが初めてこっちを見た。

 眠そうなのに、そういうときだけ妙に目がはっきりしている。


「何を」


「何でも」


「雑」


「でもそうじゃん」


 はるかは毛布を引き上げながら言う。


「言いたいことって、言える時に言わないと、あとでちょうどいい形になったりしないし」


 その言い方が少しだけおかしくて、みゆうは眉をひそめた。


「何それ」


「なんか、勝手に丸くなってくれたりしないってこと」


 みゆうは小さく黙る。

 それはたぶん、やえのことにも当てはまる。


 宗助のことにも。

 自分のことにも。


「……はるか姉ってさ」


「ん」


「そういうの、言える方?」


 はるかは少し考えた。


「言えない時もある」


「あるんだ」


「あるよ、普通に」


 それから少しだけ間を置いて、はるかは肩をすくめる。


「でも、言わないで後悔したやつの方が覚えてる」


 その言葉が、やけに真っすぐ入ってきた。


 みゆうは返事の代わりに、トーストの残りを一口だけ食べた。

 もう冷めていて、あんまり味がしなかった。


 昼前に、紗奈から待ち合わせ場所のメッセージが来た。


 見慣れた駅前の小さな広場だった。

 大宮じゃない。

 いつもの生活圏の近く。


 それが少しだけ救いだった。

 会いに行く前に、みゆうは自分の部屋に戻った。


 机の引き出しを開ける。

 かんざしの欠片は、昨日置いたままの位置にあった。


 薄桃色の玉は静かで、触れてもまだ熱くない。


 でも、これから何かが動く気がした。

 みゆうは迷ってから、それをポケットに入れた。

 やえがもしまた現れるなら、今日だと思った。


 そんな確信みたいなものがあった。

 駅前の広場には、紗奈の方が先に来ていた。


 ベンチの近くで立ったまま、スマホを見ている。

 みゆうに気づくと、いつものみたいに軽く手を上げた。


「おそくない?」


「まだ5分前」


「いや、うちが早かっただけだけど」


「じゃあいいじゃん」


「いいけど」


 そこまではいつも通りだった。


 でも、二人ともその先に何かあるとわかっている感じがして、空気だけが少し違う。


 ……紗奈が先に歩き出す。


「ちょっと歩こ」


「うん」


 住宅の間の道を、ゆっくり歩く。

 昨日までなら、こんなとき何となくどっちかが別の話をして、普通に流れていった気がする。


 でも今日は、紗奈もすぐには話さなかった。


「昨日さ」


 先に口を開いたのは紗奈だった。


「図書室で急に帰ったじゃん」


「……うん」


「なんかあったのかなって」


 責める言い方じゃなかった。

 確認するみたいな、少しだけ慎重な声だった。


「別に責めてるとかじゃないよ」


「わかってる」


「でも、ちょっと気になってた」


 みゆうは足元を見た。


 言えない。


 いや、言えないわけじゃない。

 ただ、ちゃんとした言葉の形にならない。


「ごめん」


 先に出たのは、それだった。

 紗奈が少しだけ困った顔をする。


「ごめんっていうか」


「うん」


「なんか、最近みゆう変だよ」


 その言い方は少しだけ刺さった。

 でも本当のことだった。


「変なのは自分でもわかってる」


「じゃあ何なの」


「……わかんない」


 それしか言えなかった。


 紗奈は少し黙る。


「うちさ」


 それからゆっくり言った。


「みゆうに避けられてんのかと思った」


 みゆうは顔を上げた。


「え」


「だって、なんか距離あるし」


「そんなことない」


「ほんとに?」


「ほんと」


 言いながら、自分でもそれが足りないと思った。


 紗奈は目をそらさない。


「じゃあ、何で」


 その問いに、みゆうはしばらく答えられなかった。

 ポケットの中で、かんざしの欠片が少しだけあたたかくなる。


 来る、と思った。

 でも今は紗奈がいる。

 こんなところでまた、あっちに引かれたらどうすればいいのかわからない。


「……なんか」


 やっと出た声は、思ったより小さかった。


「置いてかれる感じしてた」


 紗奈の表情が止まる。


 みゆうはそこまで言ってしまった自分に、少しだけ息が苦しくなった。

 でももう戻れない。


「紗奈が悪いとかじゃなくて」

「そういうんじゃなくて」


「うん」


「紗奈はちゃんと考えてるし」

「普通に進んでるだけなのに」


 みゆうは自分の手を握る。


「なんか、うちだけ変われてない感じして」

「それで勝手に、やだった」


 最後の方は、自分でも情けないくらい不格好な言い方だった。

 もっとちゃんと伝えたいのに、言葉が足りない。


 紗奈はしばらく何も言わなかった。

 それが逆に怖かった。


 でもやがて、小さく息を吐く音がした。


「そっか」


 昨日図書室で聞いたのと同じ言葉なのに、今度は全然違って聞こえた。


「……ごめん」


 紗奈が言う。


「なんで紗奈が謝るの」


「気づいてなかったから」


「だから、別に紗奈が悪いわけじゃ」


「でも、みゆうがそう思ってたなら、うち全然見えてなかったってことでしょ」


 紗奈は少し笑った。

 いつもの笑い方じゃない。

 ちゃんと困ってるときの笑い方だった。


「うちさ、みゆうってそういうの平気な方だと思ってた」


 みゆうは目を瞬く。


 それは昨日、自分が紗奈に感じていたことと似ていた。

 お互い、勝手にわかったつもりになっていたのかもしれない。


「……平気じゃないよ」


 みゆうが言うと、紗奈は頷いた。


「うん、今わかった」


 風が吹く。


 住宅の屋根の上を抜けて、少し乾いた風が通る。


 その中に、また少しだけ別の匂いが混ざった。


 みゆうの心臓が強く鳴る。

 ポケットの中のかんざしの欠片が、はっきり熱を持つ。


「みゆう?」


 紗奈の声が少し遠くなる。

 視界の端で景色が揺れた。


 今の道の上に、別の道が薄く重なる。


 草の揺れ。

 土の匂い。

 見沼の、あの場所だ。


 みゆうは思わずポケットを押さえた。


「ごめん」


「え」


「ちょっとだけ」


 紗奈が何か言う前に、風が強く吹く。


 目を閉じる。

 次の瞬間、みゆうは見沼の祠の前に立っていた。

 さっきまで昼の住宅街にいたはずなのに、空は夕方に傾いている。


 やえがそこにいた。


 昨日よりもずっと張りつめた顔で。


「遅い」


「いきなり来る方がおかしいでしょ」


 思わずそう返すと、やえは少しだけ眉を寄せた。


「今しかないの」


「何が」


「今なら、まだ言えるから」


 その言葉に、みゆうの息が詰まる。


 やえの顔は、昨日までと違った。

 強いだけじゃない。

 もう逃げられないとわかってる人の顔だ。


「宗助が来るの」


 みゆうが聞くと、やえは短く頷く。


「今日、ちゃんと言う」


「……ほんとに」


「たぶん」


「たぶんなんだ」


「うるさい」


 そう言い返す声が、少しだけ震えていた。

 みゆうはそれ以上何も言えなかった。


 たぶん、怖いんだ。


 言えば、今までと同じではいられなくなる。

 でも言わなきゃ、たぶん何も残らない。

 やえは今、その境目に立っている。


 そしてそれは、さっき紗奈に少しだけ本音を言った自分の感覚と、どこかでつながっていた。


 足音がする。


 やえの肩が小さく揺れる。


 宗助だった。


 息を切らしているわけでもなく、でも迷わずここへ来た顔をしている。


「やえ」


 名前を呼ぶ声が、今日は最初から違っていた。

 逃げない声だった。

 やえは少しだけ視線を落として、それから顔を上げる。


「……来たんだ」


「来るって言っただろ」


「言ってない」


「言ってなくても来る」


 宗助の返しに、やえの表情が一瞬だけ崩れる。

 笑いそうになって、でも笑えないみたいな顔だった。


「昨日の続き」


 やえが言う。


 宗助は頷く。


「うん」


「ちゃんと話したい」


「うん」


 風が吹く。


 その音の中で、やえは一度だけ目を閉じた。

 みゆうは祠の横で、息をひそめて見ていた。


 今度こそ、だと思う。

 今度こそ、やえは言う。


「私」


 やえが口を開く。


「宗助が行くの、やだ……」


 みゆうの胸がどくんと鳴る。

 まっすぐだ。

 すごく短いのに、何もごまかしてない。


 宗助の顔がはっきり揺れた。


 やえは続ける。


「仕方ないって言われてもやだし」

「何も言わないで決められるのもやだし」

「わかったふりして送るのもやだ」


 声が少しずつ震え始める。


 でもやえは止まらない。


「ずっと、やだった」


 宗助は何も言わない。


 たぶん、言えないんじゃない。

 ちゃんと受け取ってしまったから、簡単な返事ができないんだ。


 やえは唇を結ぶ。

 それでも、もう一歩だけ進むみたいに言った。


「……好き」


 風が止んだ気がした。


 みゆうは息を呑んだまま動けない。

 やえは俯かない。

 強い目のまま、でも今までで一番弱い声で続ける。


「だから、行ってほしくない」


 その言葉は、きれいじゃなかった。


 飾ってない。

 ちゃんとしてない。

 でも、だからこそ痛いくらい本当だった。


 宗助が一歩近づく。


 やえは逃げない。


「やえ」


 その声が、昨日までと違う。

 やっと、まっすぐ呼んだ声だった。


「おれも」


 宗助がそこで少し詰まる。

 でも目は逸らさなかった。


「おれも、離れたくない」


 やえの目が揺れる。


 宗助は続ける。


「怖かった」

「約束して、戻れなかったらって」


「……うん」


「でも、何も言わないで行く方がずっとひどいって」

「昨日、やえに言われてわかった」


 やえは泣いていなかった。


 でも、今にも泣きそうな顔はしていた。


 宗助がもう一歩近づく。


「だから」


 その先を、みゆうはきっと一生忘れないと思った。


 宗助ははっきり言った。


「また、ここで会おう」


 やえの顔が崩れる。


 やっとだ、と思った。

 これが約束なんだ。

 みゆうは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 でも、その瞬間だった。

 風が強く吹く。

 祠の前の空気が大きく揺れて、景色が波打つみたいに歪む。


 やえがはっと顔を上げる。


 宗助も気づく。


 何かが変だ。

 みゆうはポケットの中のかんざしの欠片を押さえた。


 熱い。


 今までで一番。


「……時間が」


 やえが小さく言う。


 その声が、急に遠くなる。


 宗助が手を伸ばす。


「やえ」


 触れそうだった指先が、風の中でわずかにずれる。


 みゆうは思わず前へ出た。

 でも自分には何もできない。

 景色が急速に引いていく。


 やえの着物の袖。

 宗助の伸ばした手。


 そのあいだの、あと少しの距離。

 全部が夕暮れの中へ溶けていく。

 みゆうは気づけば、また住宅街の道に立っていた。


 目の前には紗奈がいる。


「みゆう!」


 肩をつかまれて、はっとした。


「大丈夫?」


「……あ」


「急にぼーっとするから、びっくりした」


 紗奈の顔が近い。


 現代の空気。

 見慣れた制服じゃない私服。


 さっきまでと違う時間の匂い。

 みゆうは何度か瞬きをした。


「ごめん」


「ほんと大丈夫?」


「うん」


 まだ少し息が乱れている。


 でも、胸の奥にはさっきの言葉が残っていた。


 好き。

 行ってほしくない。

 また、ここで会おう。


 やえは言えた。

 宗助も言えた。


 なら、自分は……。


 みゆうは紗奈を見た。

 紗奈はまだ少し心配そうな顔をしている。


「紗奈」


「なに」


「さっきの、続きなんだけど」


 紗奈が黙って待つ。


 みゆうは小さく息を吸った。


「うち」

「ちゃんと置いてかれるって思ってた」


 紗奈の目が少しだけ揺れる。


「でも」

「今のままじゃなくなるのが怖いだけで」

「紗奈のこと嫌とかじゃ全然なくて」


 そこまで言って、みゆうは少しだけ笑った。

 うまくはない。

 でも、ちゃんと自分で言ってる感じがした。


「たぶん、変わるのが怖い」


 紗奈はしばらく何も言わなかった。


 それから、少しだけ肩の力を抜く。


「……そっか」


「うん」


「言ってくれてよかった」


 その言葉に、みゆうの胸の奥が少しだけ軽くなる。


 全部じゃない。


 まだ、全部きれいに言えたわけじゃない。


 でも、たぶんこれでよかった。


 風がもう一度吹く。


 今度の風は、もう見沼の匂いを連れてこなかった。

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