8話 言わなきゃ消える
日曜日の朝は、いつもより静かだった。
母は用事で昨晩から出ていて、ともきとこはるも午前から出かけている。
はるかだけが珍しく起きていたけれど、リビングのソファで毛布にくるまったまま、スマホを見ながらぼんやりしていた。
みゆうは朝ごはんのトーストを半分残したまま、コップの牛乳を少しずつ飲んでいた。
「今日さ」
はるかがスマホから顔も上げずに言う。
「紗奈と会うんでしょ」
みゆうはコップを置いた。
「……なんで知ってるの」
「顔」
「またそれ」
「便利だから使ってる」
はるかはそこで少しだけ笑った。
「まあ、スマホ見てる回数も多いし」
みゆうは何も返さなかった。
昨日、紗奈に話せると返したあとから、ずっと落ち着かなかった。
何を話すのかはわからない。
たぶん紗奈の方にも、ちゃんと話したいことがある。
みゆうにも、本当はある。
でもそれをちゃんと口にできるかは、まだわからない。
「みゆう」
「なに」
「言えそうなら言った方がいいよ」
はるかが初めてこっちを見た。
眠そうなのに、そういうときだけ妙に目がはっきりしている。
「何を」
「何でも」
「雑」
「でもそうじゃん」
はるかは毛布を引き上げながら言う。
「言いたいことって、言える時に言わないと、あとでちょうどいい形になったりしないし」
その言い方が少しだけおかしくて、みゆうは眉をひそめた。
「何それ」
「なんか、勝手に丸くなってくれたりしないってこと」
みゆうは小さく黙る。
それはたぶん、やえのことにも当てはまる。
宗助のことにも。
自分のことにも。
「……はるか姉ってさ」
「ん」
「そういうの、言える方?」
はるかは少し考えた。
「言えない時もある」
「あるんだ」
「あるよ、普通に」
それから少しだけ間を置いて、はるかは肩をすくめる。
「でも、言わないで後悔したやつの方が覚えてる」
その言葉が、やけに真っすぐ入ってきた。
みゆうは返事の代わりに、トーストの残りを一口だけ食べた。
もう冷めていて、あんまり味がしなかった。
昼前に、紗奈から待ち合わせ場所のメッセージが来た。
見慣れた駅前の小さな広場だった。
大宮じゃない。
いつもの生活圏の近く。
それが少しだけ救いだった。
会いに行く前に、みゆうは自分の部屋に戻った。
机の引き出しを開ける。
かんざしの欠片は、昨日置いたままの位置にあった。
薄桃色の玉は静かで、触れてもまだ熱くない。
でも、これから何かが動く気がした。
みゆうは迷ってから、それをポケットに入れた。
やえがもしまた現れるなら、今日だと思った。
そんな確信みたいなものがあった。
駅前の広場には、紗奈の方が先に来ていた。
ベンチの近くで立ったまま、スマホを見ている。
みゆうに気づくと、いつものみたいに軽く手を上げた。
「おそくない?」
「まだ5分前」
「いや、うちが早かっただけだけど」
「じゃあいいじゃん」
「いいけど」
そこまではいつも通りだった。
でも、二人ともその先に何かあるとわかっている感じがして、空気だけが少し違う。
……紗奈が先に歩き出す。
「ちょっと歩こ」
「うん」
住宅の間の道を、ゆっくり歩く。
昨日までなら、こんなとき何となくどっちかが別の話をして、普通に流れていった気がする。
でも今日は、紗奈もすぐには話さなかった。
「昨日さ」
先に口を開いたのは紗奈だった。
「図書室で急に帰ったじゃん」
「……うん」
「なんかあったのかなって」
責める言い方じゃなかった。
確認するみたいな、少しだけ慎重な声だった。
「別に責めてるとかじゃないよ」
「わかってる」
「でも、ちょっと気になってた」
みゆうは足元を見た。
言えない。
いや、言えないわけじゃない。
ただ、ちゃんとした言葉の形にならない。
「ごめん」
先に出たのは、それだった。
紗奈が少しだけ困った顔をする。
「ごめんっていうか」
「うん」
「なんか、最近みゆう変だよ」
その言い方は少しだけ刺さった。
でも本当のことだった。
「変なのは自分でもわかってる」
「じゃあ何なの」
「……わかんない」
それしか言えなかった。
紗奈は少し黙る。
「うちさ」
それからゆっくり言った。
「みゆうに避けられてんのかと思った」
みゆうは顔を上げた。
「え」
「だって、なんか距離あるし」
「そんなことない」
「ほんとに?」
「ほんと」
言いながら、自分でもそれが足りないと思った。
紗奈は目をそらさない。
「じゃあ、何で」
その問いに、みゆうはしばらく答えられなかった。
ポケットの中で、かんざしの欠片が少しだけあたたかくなる。
来る、と思った。
でも今は紗奈がいる。
こんなところでまた、あっちに引かれたらどうすればいいのかわからない。
「……なんか」
やっと出た声は、思ったより小さかった。
「置いてかれる感じしてた」
紗奈の表情が止まる。
みゆうはそこまで言ってしまった自分に、少しだけ息が苦しくなった。
でももう戻れない。
「紗奈が悪いとかじゃなくて」
「そういうんじゃなくて」
「うん」
「紗奈はちゃんと考えてるし」
「普通に進んでるだけなのに」
みゆうは自分の手を握る。
「なんか、うちだけ変われてない感じして」
「それで勝手に、やだった」
最後の方は、自分でも情けないくらい不格好な言い方だった。
もっとちゃんと伝えたいのに、言葉が足りない。
紗奈はしばらく何も言わなかった。
それが逆に怖かった。
でもやがて、小さく息を吐く音がした。
「そっか」
昨日図書室で聞いたのと同じ言葉なのに、今度は全然違って聞こえた。
「……ごめん」
紗奈が言う。
「なんで紗奈が謝るの」
「気づいてなかったから」
「だから、別に紗奈が悪いわけじゃ」
「でも、みゆうがそう思ってたなら、うち全然見えてなかったってことでしょ」
紗奈は少し笑った。
いつもの笑い方じゃない。
ちゃんと困ってるときの笑い方だった。
「うちさ、みゆうってそういうの平気な方だと思ってた」
みゆうは目を瞬く。
それは昨日、自分が紗奈に感じていたことと似ていた。
お互い、勝手にわかったつもりになっていたのかもしれない。
「……平気じゃないよ」
みゆうが言うと、紗奈は頷いた。
「うん、今わかった」
風が吹く。
住宅の屋根の上を抜けて、少し乾いた風が通る。
その中に、また少しだけ別の匂いが混ざった。
みゆうの心臓が強く鳴る。
ポケットの中のかんざしの欠片が、はっきり熱を持つ。
「みゆう?」
紗奈の声が少し遠くなる。
視界の端で景色が揺れた。
今の道の上に、別の道が薄く重なる。
草の揺れ。
土の匂い。
見沼の、あの場所だ。
みゆうは思わずポケットを押さえた。
「ごめん」
「え」
「ちょっとだけ」
紗奈が何か言う前に、風が強く吹く。
目を閉じる。
次の瞬間、みゆうは見沼の祠の前に立っていた。
さっきまで昼の住宅街にいたはずなのに、空は夕方に傾いている。
やえがそこにいた。
昨日よりもずっと張りつめた顔で。
「遅い」
「いきなり来る方がおかしいでしょ」
思わずそう返すと、やえは少しだけ眉を寄せた。
「今しかないの」
「何が」
「今なら、まだ言えるから」
その言葉に、みゆうの息が詰まる。
やえの顔は、昨日までと違った。
強いだけじゃない。
もう逃げられないとわかってる人の顔だ。
「宗助が来るの」
みゆうが聞くと、やえは短く頷く。
「今日、ちゃんと言う」
「……ほんとに」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「うるさい」
そう言い返す声が、少しだけ震えていた。
みゆうはそれ以上何も言えなかった。
たぶん、怖いんだ。
言えば、今までと同じではいられなくなる。
でも言わなきゃ、たぶん何も残らない。
やえは今、その境目に立っている。
そしてそれは、さっき紗奈に少しだけ本音を言った自分の感覚と、どこかでつながっていた。
足音がする。
やえの肩が小さく揺れる。
宗助だった。
息を切らしているわけでもなく、でも迷わずここへ来た顔をしている。
「やえ」
名前を呼ぶ声が、今日は最初から違っていた。
逃げない声だった。
やえは少しだけ視線を落として、それから顔を上げる。
「……来たんだ」
「来るって言っただろ」
「言ってない」
「言ってなくても来る」
宗助の返しに、やえの表情が一瞬だけ崩れる。
笑いそうになって、でも笑えないみたいな顔だった。
「昨日の続き」
やえが言う。
宗助は頷く。
「うん」
「ちゃんと話したい」
「うん」
風が吹く。
その音の中で、やえは一度だけ目を閉じた。
みゆうは祠の横で、息をひそめて見ていた。
今度こそ、だと思う。
今度こそ、やえは言う。
「私」
やえが口を開く。
「宗助が行くの、やだ……」
みゆうの胸がどくんと鳴る。
まっすぐだ。
すごく短いのに、何もごまかしてない。
宗助の顔がはっきり揺れた。
やえは続ける。
「仕方ないって言われてもやだし」
「何も言わないで決められるのもやだし」
「わかったふりして送るのもやだ」
声が少しずつ震え始める。
でもやえは止まらない。
「ずっと、やだった」
宗助は何も言わない。
たぶん、言えないんじゃない。
ちゃんと受け取ってしまったから、簡単な返事ができないんだ。
やえは唇を結ぶ。
それでも、もう一歩だけ進むみたいに言った。
「……好き」
風が止んだ気がした。
みゆうは息を呑んだまま動けない。
やえは俯かない。
強い目のまま、でも今までで一番弱い声で続ける。
「だから、行ってほしくない」
その言葉は、きれいじゃなかった。
飾ってない。
ちゃんとしてない。
でも、だからこそ痛いくらい本当だった。
宗助が一歩近づく。
やえは逃げない。
「やえ」
その声が、昨日までと違う。
やっと、まっすぐ呼んだ声だった。
「おれも」
宗助がそこで少し詰まる。
でも目は逸らさなかった。
「おれも、離れたくない」
やえの目が揺れる。
宗助は続ける。
「怖かった」
「約束して、戻れなかったらって」
「……うん」
「でも、何も言わないで行く方がずっとひどいって」
「昨日、やえに言われてわかった」
やえは泣いていなかった。
でも、今にも泣きそうな顔はしていた。
宗助がもう一歩近づく。
「だから」
その先を、みゆうはきっと一生忘れないと思った。
宗助ははっきり言った。
「また、ここで会おう」
やえの顔が崩れる。
やっとだ、と思った。
これが約束なんだ。
みゆうは胸の奥が熱くなるのを感じた。
でも、その瞬間だった。
風が強く吹く。
祠の前の空気が大きく揺れて、景色が波打つみたいに歪む。
やえがはっと顔を上げる。
宗助も気づく。
何かが変だ。
みゆうはポケットの中のかんざしの欠片を押さえた。
熱い。
今までで一番。
「……時間が」
やえが小さく言う。
その声が、急に遠くなる。
宗助が手を伸ばす。
「やえ」
触れそうだった指先が、風の中でわずかにずれる。
みゆうは思わず前へ出た。
でも自分には何もできない。
景色が急速に引いていく。
やえの着物の袖。
宗助の伸ばした手。
そのあいだの、あと少しの距離。
全部が夕暮れの中へ溶けていく。
みゆうは気づけば、また住宅街の道に立っていた。
目の前には紗奈がいる。
「みゆう!」
肩をつかまれて、はっとした。
「大丈夫?」
「……あ」
「急にぼーっとするから、びっくりした」
紗奈の顔が近い。
現代の空気。
見慣れた制服じゃない私服。
さっきまでと違う時間の匂い。
みゆうは何度か瞬きをした。
「ごめん」
「ほんと大丈夫?」
「うん」
まだ少し息が乱れている。
でも、胸の奥にはさっきの言葉が残っていた。
好き。
行ってほしくない。
また、ここで会おう。
やえは言えた。
宗助も言えた。
なら、自分は……。
みゆうは紗奈を見た。
紗奈はまだ少し心配そうな顔をしている。
「紗奈」
「なに」
「さっきの、続きなんだけど」
紗奈が黙って待つ。
みゆうは小さく息を吸った。
「うち」
「ちゃんと置いてかれるって思ってた」
紗奈の目が少しだけ揺れる。
「でも」
「今のままじゃなくなるのが怖いだけで」
「紗奈のこと嫌とかじゃ全然なくて」
そこまで言って、みゆうは少しだけ笑った。
うまくはない。
でも、ちゃんと自分で言ってる感じがした。
「たぶん、変わるのが怖い」
紗奈はしばらく何も言わなかった。
それから、少しだけ肩の力を抜く。
「……そっか」
「うん」
「言ってくれてよかった」
その言葉に、みゆうの胸の奥が少しだけ軽くなる。
全部じゃない。
まだ、全部きれいに言えたわけじゃない。
でも、たぶんこれでよかった。
風がもう一度吹く。
今度の風は、もう見沼の匂いを連れてこなかった。




