7話 言えない理由
紗奈からのメッセージは、しばらく既読をつけられなかった。
ごめん、さっき言いすぎたかも。
なんか変な空気だったよね。
その二行を見ていると、胸のあたりがじわじわ重くなる。
変な空気にしたのは、たぶん自分だ。
紗奈はちゃんとそれに気づいて、こうして言葉にしてくれている。
それなのにみゆうは、画面を見つめたまま、何を返せばいいのかわからない。
机の上には、かんざしの欠片が置かれている。
薄桃色の玉は、部屋の明かりの下で静かに光っていた。
やえも宗助も、言えばいいのにと思った。
思ったくせに、自分だって今同じことをしている。
みゆうはようやく短く打った。
「ううん、大丈夫」
「こっちこそごめん」
送ってから、すぐに足りないと思った。
大丈夫じゃない。
ごめん、だけでも足りない。
でも、それ以上はやっぱり出てこない。
紗奈から返事が来る前に、みゆうはスマホを伏せた。
これ以上画面を見ていたら、また何も言えない自分ばかり見えてしまいそうだった。
窓の外はもう暗い。
見沼の方からくる夜の風が、カーテンをかすかに揺らしていた。
その風の気配に混ざるように、また少しだけ古い匂いがした気がした。
土と、木と、夕方がそのまま冷えていくみたいな匂い。
みゆうはそっと、かんざしの欠片に触れた。
今度はすぐに景色は変わらなかった。
でも、指先の奥がわずかに痺れる。
その感じはもう覚えていた。
来る、と思ったときには、部屋の輪郭がゆっくり薄くなり始めていた。
最初に聞こえたのは、桶の水を汲む音だった。
次に、人の話し声。
低い男の人の声と、女の人の少し早口な声。
景色がはっきりすると、そこは茶屋の裏手みたいな場所だった。
板張りの床。
積まれた薪。
大きな桶。
宗助が、木の桶に水を移している。
袖をたくし上げた腕が少し濡れていて、今日の昼に見たときよりずっと疲れて見えた。
「宗助」
女の人の声がする。
振り向いた先にいたのは、年上の女性だった。
姉か、母親か、すぐにはわからない。
でも身内なんだろうと思った。
遠慮のない距離で、宗助の手元をのぞきこむ。
「聞いたよ」
「何を」
「あんた、やえちゃんに言われたんだって?」
宗助の手が止まる。
みゆうは思わず息をひそめた。
この時代にも、話はちゃんと回るんだ、と思う。
「別に」
「別にじゃないでしょ」
女性は呆れたみたいに言った。
「見沼まで呼び出されて、何もなかった顔してんじゃないよ」
「何もなくはない」
「だったらその顔やめなって」
宗助は黙る。
その顔に、みゆうは少しだけ見覚えがあった。
平気じゃないのに、平気みたいにしてしまう顔。
やえが腹を立てたのもわかる気がする。
「行くの?」
女性が聞く。
今度は奉公のことだと、みゆうにもすぐわかった。
「……まだ決まってない」
「ほぼ決まってるんでしょ」
「だから、まだ」
「宗助」
その呼び方が少しだけやさしくなる。
「うちだって、あんたに行ってほしいわけじゃないよ」
宗助は目を伏せたまま何も言わない。
女性はしばらく黙ってから、少しだけ疲れたみたいに笑った。
「でもさ、うちは家のこと考えたら止められない」
その言い方が、みゆうには重かった。
宗助が黙っている理由が、少しだけ輪郭を持つ。
行きたくて行くんじゃない。
でも、自分だけのことじゃないから、嫌だとも言い切れない。
……そういう重さだ。
「やえちゃんには何て言ったの」
「何も」
「は?」
「……何もちゃんと言えてない」
その答えに、女性はあきれたみたいに眉を上げた。
「何やってんの、あんた」
「しょうがないだろ」
「出た」
ぴしゃりと返される。
「そればっか」
「だって」
「だってじゃないでしょ」
宗助は桶の縁を強く握った。
その指先に、みゆうは少しだけ切羽詰まったものを見る。
「何て言えばいいんだよ」
初めて、宗助の声が少しだけ乱れた。
その瞬間、みゆうの胸が詰まる。
この子も、本当にわからないんだ。
やえと同じように。
「行きたくないって言ったら、困らせるだけだろ」
宗助は低く続ける。
「待っててくれなんて言えるわけないし」
「戻るって約束したって、その通りになるかわかんないし」
女性は黙った。
宗助は視線を下げたまま言う。
「中途半端なこと言う方が、あいつには悪い」
その言葉を聞いた瞬間、みゆうは少しだけ苦しくなる。
それはやさしさなんだろう。
でも、やえからしたらいちばんつらいやさしさだ。
言わないことで守ろうとして、何も届かなくなる。
それが一番残酷なことだって、みゆうは今なら少しわかる。
「でも」
女性が静かに言う。
「何も言わなきゃ、やえちゃんはあんたが平気なんだと思うよ」
宗助の指先が、桶の縁で止まった。
「平気なわけないだろ」
その声は、小さかった。
でもはっきりしていた。
みゆうはその言葉に、思わず目を見開く。
やえに聞かせたい、と思った。
……今すぐ。
宗助はちゃんと平気じゃない。
行きたくないわけじゃなくても、離れたくないと思ってる。
なのに、それをやえには言えていない。
みゆうは胸の奥がじりじりするのを感じた。
どうしてこう、言いたいことが同じなのに、違う言葉ばっかり選ぶんだろう。
そのとき、視界の端で何かが揺れた。
茶屋の戸の向こう。
人影。
みゆうは息を呑む。
やえだ。
そこに立っていた。
たぶん、今の話を聞いてしまったんだ。
でも宗助も女性も、まだ気づいていない。
やえの顔は見えない。
ただ、戸の影に立ったまま動かない。
呼べるなら呼びたかった。
聞いてるよ、って。
宗助はそう思ってるよ、って。
でもみゆうは、ただ見ていることしかできない。
女性が先に宗助の肩を軽く叩いた。
「なら、ちゃんと自分で言いな」
宗助は何も言わない。
言え、とまた思う。
言って。
今ならまだ間に合うから。
そのとき、宗助がふいに顔を上げた。
戸口の方を見たのだ。
やえの影に気づいたのかと思った。
でも違った。
もう、やえはいなかった。
ほんの少し前まで確かにいたはずなのに、影だけが消えている。
みゆうの胸がざっと冷える。
嫌な予感がした。
次の瞬間、景色が引いた。
部屋に戻るかと思ったのに、違った。
今度は夜の道だった。
暗い。
宿場の外れのあたりだろうか。
月明かりの薄い道を、やえが早足で歩いている。
いや、歩いているというより、怒ったまま帰ろうとしている足取りだった。
「やえ!」
後ろから声が飛ぶ。
宗助だ。
みゆうは思わず振り向く。
宗助が息を切らして追いかけてくる。
「待てって」
「やだ」
やえは止まらない。
でも宗助も食い下がる。
「ちょっと、話」
「今さら何」
「今さらじゃない」
「今さらだよ」
やえはそこで足を止めて振り向いた。
月明かりの下でも、強い目だ。
でももう、怒ってるだけじゃない。
泣く寸前の人みたいな鋭さがある。
「聞いてたのか」
宗助が言う。
やえは笑わなかった。
「聞こえたから」
「やえ」
「平気じゃないんだ」
その一言に、宗助の顔が揺れる。
やえは一歩だけ近づいた。
「だったら何で言わないの」
「……」
「私が怒ってると思ってた?」
「違う」
「じゃあ何」
宗助は答えられない。
いや、答えはあるんだろうけど、言葉にできない。
みゆうは胸の奥が苦しくなる。
昨日と同じだ。
今日の昼とも同じだ。
やえも宗助も、答えの手前までは来てるのに、その最後だけが越えられない。
「言えばいいじゃん」
やえの声が少しだけ震える。
「行きたくないならそう言えばいいし」
「困ってるなら困ってるって言えばいいし」
宗助は目を伏せたままだ。
「私に言うと、何か変わるの?」
やえが息を呑むのがわかった。
その一言は、たぶん宗助が思っていた以上にひどく響いた。
みゆうまで胸が痛くなる。
……違う。
宗助はきっとそんな意味で言ってない。
でも、言葉はちゃんと失敗する。
やえの目が少しだけ見開かれる。
「……変わんないよ」
声が低い。
静かなくせに、よけいに怖い。
「変わんないけど」
「言ってくれたら、ちゃんと覚えてられるじゃん」
宗助が顔を上げる。
やえは続ける。
「何も言わないで行かれたら、何で離れたのかも」
「何を思ってたのかも」
「あとに残るの、勝手な想像ばっかになる」
みゆうは息を止める。
その言葉があまりにもまっすぐで、胸の奥の柔らかいところに刺さる。
言ってくれたら、ちゃんと覚えてられる。
それはやえのことだけじゃない気がした。
紗奈のことも。
今の自分のことも。
宗助はしばらく何も言わなかった。
夜の道に風が吹く。
遠くで犬が鳴く。
静かなのに、二人のあいだだけが張りつめていた。
やがて宗助が、小さく言う。
「……怖いんだよ」
その瞬間、みゆうの胸がどくんと鳴る。
やえも、目を見開いたまま動かない。
「何が」
宗助はすぐには答えない。
でも今度は逃げなかった。
「言ったら」
「待たせることになるかもしれない」
やえの唇が少しだけ開く。
宗助は低く続ける。
「戻れなかったらどうすんだよ」
「約束して、守れなかったら」
「その方が、ずっとひどいだろ」
夜の空気が静かになる。
やっと出た本音だった。
たぶん宗助は、ずっとこれを言えなかったんだ。
約束したい。
でも約束するのが怖い。
戻れないかもしれない自分を、先に知っているから。
やえはしばらく動かなかった。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……ばか」
小さい声だった。
でも、さっきまでの怒りは少しだけ薄れていた。
「そんなの、言わなきゃわかんない」
宗助は何も言わない。
やえは目をそらしたまま続ける。
「勝手に一人で決めて」
「勝手に私の分まで終わらせないでよ」
その言葉に、宗助の顔が少しだけ歪んだ。
みゆうは思った。
この二人は、たぶん今、ようやく同じ場所に立ったんだ。
まだ全部じゃない。
好きだとか、行かないでとか、そこまでは届いていない。
でも少なくとも、怖いことだけは言えた。
それだけで空気が少し変わる。
「……悪い」
宗助が言う。
やえは少しだけ眉を寄せる。
「ほんとだよ」
「うん」
「うん、じゃないし」
それでも、さっきほどの刺々しさはない。
やえはようやく真正面から宗助を見る。
「まだ行くの」
「……行くと思う」
その答えに、やえの目が揺れる。
でももう、さっきみたいには崩れなかった。
「そっか」
それだけ言って、少し黙る。
みゆうは思わず身を乗り出すみたいな気持ちになった。
ここだ。
今だ。
言えるなら、今だ。
やえの唇が動く。
「じゃあ」
でも、その先は風にかき消された。
急に強く吹いた風が、夜の道の砂を巻き上げる。
みゆうは思わず目を閉じた。
次に目を開けたとき、部屋の中だった。
カーテンが少しだけ揺れている。
机の上のかんざしの欠片が、今までで一番はっきり熱を持っていた。
みゆうは息を切らしたまま、それを見つめる。
「……その先、何」
じゃあ、のあと。
やえが何を言おうとしたのか、それだけが見えなかった。
でもそこがたぶん、一番大事なところだった。
スマホが震える。
紗奈だった。
「明日さ、ちょっと話せる?」
短い文だった。
みゆうは画面を見つめた。
話せる。
その言葉が、今はやけに重い。
やえと宗助が、あそこまで来てまだ全部言えなかったことを思い出す。
でも、だからこそ思う。
話せるうちに、話した方がいいのかもしれない。
みゆうはゆっくり親指を動かした。
「うん」
「話せる」
送ったあと、胸の奥が少しだけざわついた。
怖い。
でも、少しだけ前とは違うざわつきだった。




