6話 見沼の約束
見沼の午後は、帰るころには少しだけ曇っていた。
空は明るいのに、風の匂いだけが先に夕方へ向かっているみたいだった。
みゆうは何度も振り返った。
もうやえの姿は見えない。
宗助の影も、重なっていた昔の景色も消えてしまった。
残っているのは、畑のあいだの細い道と、用水路の静かな水の気配だけだ。
なのに胸の中だけは、まださっきの場所に置いたままだった。
今日、ちゃんと言う。
自分で聞いた言葉が、頭の中で何度も反響する。
やえは答えなかった。
でも、言えたらね……とは言った。
それはつまり、本当は言いたいと思ってるってことだ。
言いたいのに、言えない。
それはみゆうにもわかる。
わかるからこそ、変に苦しかった。
家に帰っても、やえと宗助のことばかり考えてしまう。
見沼で会う。
奉公の話がある。
やえは本当のことを言いたいのに言えない。
そこまでわかっているのに、その先が見えないのがもどかしかった。
「またその顔してる」
玄関を上がったところで、はるかに言われた。
コンビニ帰りらしく、片手に小さな袋をぶら下げている。
「どんな顔?」
「頭だけ違うとこいる顔」
「なにそれ」
「そのまんま」
はるかは靴を脱ぎながら、みゆうを横目で見る。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと」
「ちょっとで畑の方まで?」
みゆうは止まった。
「……なんでわかるの」
「靴」
言われて足元を見ると、乾いた土が少しだけついていた。
「あ……」
「見沼の方って、歩くとそういう土つくじゃん」
はるかは平然と言う。
みゆうは少しだけ息を吐いた。
ばれて困ることじゃない。
でも、何かを見抜かれること自体にまだ慣れない。
「紗奈とは?」
「今日は会ってない」
「ふうん」
はるかはそれ以上聞かなかった。
でも、聞かないことの方が逆に残る。
みゆうは部屋に戻って、鞄を床に置いた。
机の引き出しからかんざしの欠片を取り出して、しばらく見つめる。
相変わらず、ただの古い飾りの一部にしか見えない。
でもこの小さな欠片の向こうに、やえがいて、宗助がいて、まだ言えていない言葉がある。
みゆうはそっと、それを手のひらに乗せた。
「……宗助」
名前を口にした瞬間、欠片がかすかにあたたかくなった。
息を止める。
昨日までみたいに急に景色が変わることはない。
でも今はもうわかる。
これはただの気のせいじゃない。
みゆうはベッドに腰かけたまま、目を閉じた。
風の音がする。
遠くで誰かの話し声がする。
それから、低い男の子の声が混ざった。
「やえ」
みゆうは目を開ける。
部屋は消えていた。
代わりに、見沼のあの場所が広がっている。
ただし昼ではなく、夕方に近い色だった。
草の先が風に揺れて、祠の影が少し長い。
そこに、やえが立っている。
そして向かい側には、宗助がいた。
今日の宗助は荷を持っていない。
でも、顔つきがいつもより少しだけ固い。
「急に呼びつけて何?」
宗助が言う。
やえはすぐには答えない。
代わりに少しだけ唇を結んで、視線を逸らした。
あんなやえは初めて見た気がして、みゆうは思わず息をひそめる。
普段のやえなら、もっと先に言葉が出る。
なのに今は、何を言えばいいのか自分でも探しているみたいだった。
「……来てくれたんだ」
やっと出た言葉がそれだった。
宗助は少しだけ困ったように笑う。
「来いって言ったの、そっちだろ」
「そうだけど」
「だったら来るよ」
その返しがやさしすぎて、やえは逆にむっとした顔をした。
「そういうの、なんかやだ」
「何で?」
「知らない」
「またそれか」
宗助は少し肩をすくめる。
でも帰ろうとはしない。
ちゃんとここにいて、やえの言葉を待っている。
その立ち方だけで、みゆうはこの二人が何度も同じことを繰り返してきたんだとわかった。
会って。
少し言い合って。
でも離れない。
たぶん、そういう時間を重ねてきた。
「それ」
宗助が先に言った。
「何の話」
やえの指先が、着物の裾を少しつまむ。
強がるときの癖なんだろうかと、みゆうはふと思った。
「……奉公」
やえが言う。
宗助の顔から笑いが消えた。
その変化が早すぎて、みゆうまで胸が重くなる。
「誰に聞いたの?」
「聞いたっていうか」
「誰?」
「別に誰でもいいでしょ」
「よくない」
やえが顔を上げる。
「ほんとに行くの?」
宗助は答えない。
風が吹く。
草の擦れる音が、やけに大きく響く。
「宗助?」
「……たぶん」
「たぶんって何」
「まだちゃんと決まったわけじゃない」
「でも行くんでしょ」
「たぶん」
やえはその答えを聞いた瞬間、ひどく嫌そうな顔をした。
怒っているのとも違う。
もっと、どうしようもなく傷ついた顔だった。
「何で」
その問いは短いのに、みゆうの胸まで痛くなった。
宗助は少しだけ目を伏せる。
「家のことだから」
「そればっか」
「それ以外に何があるんだよ」
「何かあるでしょ」
「ないよ」
「ある」
やえは食い下がる。
宗助はため息を飲みこむみたいに少しだけ息を吐いた。
「うちのこと、やえにはわかんないだろ」
その言い方はきつくなかった。
でも距離があった。
やえもそれを感じたんだと思う。
表情が一瞬だけ固くなる。
「……わかるよ」
「わかんないよ」
「わかる」
「やえ」
「何」
「そうやって無理に入ってくんなよ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が止まった。
みゆうは思わず息を止める。
宗助も、自分で言ったあとに少ししまったと思ったみたいだった。
でも、もう遅い。
やえは何も言わない。
ただ宗助を見ている。
その目の強さが、さっきまでとは少し違う。
怒ってるんじゃない。
ちゃんと傷ついている目だ。
「……そっか」
やえが言う。
小さい声だった。
それが逆に怖いくらいだった。
「やえ」
「わかんないならいい」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあどういう意味」
宗助は口を開きかけて、止まる。
たぶん、自分でもうまく説明できないんだ。
やえを遠ざけたいわけじゃない。
でも近づかれると困る。
そういう感じだ。
それはみゆうにも少しわかる。
わかるけど、言われる側が痛いこともわかる。
「……やえ」
「奉公、行けばいいじゃん」
やえはそう言った。
声だけ聞けば、いつも通り少し強い言い方だった。
でも違う。
今まででいちばん、本音じゃない。
「行きたくて行くわけじゃない」
「知らない」
「知らないって」
「知らないよ、そんなの」
やえはそこで初めて、少しだけ声を荒げた。
「宗助がどうしたいかなんて、言わなきゃわかんないじゃん」
宗助は何も言えない。
やえは一歩だけ近づく。
「何も言わないで、しょうがないで済ませて、勝手に決めて勝手に行くんでしょ」
「勝手には――」
「勝手だよ!」
その言葉が夕方の空気を切った。
みゆうは胸の奥が、ぐっと縮むのを感じる。
やえが言ってるのは、宗助のことだけじゃない気がした。
離れていくもの全部に向けた言葉みたいだった。
今のままじゃいられないのに、ちゃんとその話をしてくれないもの全部に。
「やえ」
宗助が低く呼ぶ。
その声だけは少し違った。
さっきまでみたいに平気なふりをしていない。
やえもたぶん、それに気づいた。
……でももう遅い。
ここまで来たら、やえは引けない。
「何?」
「……おれだって」
宗助はそこまで言って、止まった。
喉のあたりで言葉がつかえているのがわかる。
言え、と思った。
みゆうは見ているだけなのに、心の中で強くそう思った。
やえも待っている。
今しかない。
でも、宗助は結局少しだけ目を逸らした。
「仕方ないだろ」
その瞬間、やえの顔から表情が消えた。
みゆうはわかった。
この言葉が、たぶん一番欲しくなかった言葉。
怒ってるとか、悲しいとか、そういうのより先に、何かが切れる音がした気がした。
「……そっか」
やえが言う。
「じゃあ、もういい」
「やえ」
「来なきゃよかった」
そう言って、やえは背を向けた。
宗助が手を伸ばしかける。
でも触れない。
その迷いが、余計にみゆうを苦しくさせた。
「やえ、待てって」
「やだ」
「話、まだ」
「もういいって言ってるでしょ」
振り返らずにやえは歩き出す。
風が強く吹いて、髪のかんざしが揺れた。
その瞬間だった。
ぱき、と小さな音がした。
やえが足を止める。
宗助も止まる。
薄桃色の玉のついたかんざしの先が、根元から少し欠けて、草の上へ落ちた。
みゆうは思わず息を呑んだ。
自分が拾った欠片だと、すぐにわかった。
やえもそれを見ている。
でも拾わない。
拾ったら、今ここで全部崩れそうだったのかもしれない。
宗助が一歩だけ動く。
「やえ、それ」
「いい」
「でも」
「いらない」
それもまた、本音じゃない言い方だった。
やえはそのまま歩き出す。
今度こそ止まらない。
宗助は追いかけない。
ただ立ち尽くして、落ちた欠片とやえの後ろ姿を見ているだけだった。
その顔が、みゆうにはたまらなく苦しく見えた。
追いかければいいのに。
言えばいいのに。
今ならまだ間に合うのに。
でも宗助は動かない。
やえも振り返らない。
風だけが、二人のあいだを空しく抜けていく。
その景色が、みゆうの胸を強く押した。
――言えばいいのに。
心の中でそう思った瞬間、視界が揺れる。
見沼の夕方が遠ざかる。
土の匂いも、風の音も、やえの背中も、宗助の立ち尽くした影も全部薄くなっていく。
みゆうははっと目を開けた。
自分の部屋だった。
ベッドの端に座ったまま、かんざしの欠片を握っている。
息が上がっていた。
「……最低」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
宗助にか。
やえにか。
言えないまま、あんなふうに終わらせた二人にか。
それとも、同じように飲み込んでばかりいる自分にか。
そのときスマホが鳴った。
紗奈からだった。
「ごめん、さっき言いすぎたかも」
「なんか変な空気だったよね」
みゆうはその文を見て、しばらく動けなかった。
紗奈はちゃんと気づいてる。
自分より先を歩いているみたいに見えるくせに、こういうときは置いていかない。
それなのに自分は、また嘘をついて、またちゃんと話してない。
みゆうは画面を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
言えばいいのに。
さっき自分がやえと宗助に向けた言葉が、今度はそのまま自分に返ってくる。
机の上に、かんざしの欠片をそっと置く。
薄桃色の玉は静かに光っている。
その欠片みたいに、自分の中にも何かが欠けたまま残っている気がした。




