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約束の声  作者: ナオ
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4/11

4話 やえと宗助

 やえ。

 

 その名前は、帰り道のあいだも、家に着いてからも、ずっとみゆうの頭の中に残っていた。

 

 ただの幻じゃない。

 

 そう思ったのは、見沼たんぼで見た姿があまりにもはっきりしていたからだ。

 強い目をしていた。

 きれいとか可愛いとか、そういうふうに最初に思う顔じゃなかった。

 もっと先に来るものがあった。

 あの子は、ちゃんと怒っていた。

 

 何かに。

 たぶん……誰かに。

 

 それなのに最後のほうだけ、急に声が弱くなった。

 宗助に届かないから、聞いて。

 あの言葉の意味を考えるたび、胸のあたりがざわついた。

 

「みゆう、上の空すぎ」

 

 晩ごはんのとき、こはるに言われた。

 

「今日もう3回目」

 

「なにが」

 

「聞いてないふり」

 

「ふりじゃないし」

 

「いや、ほんとに聞いてないじゃん」

 

 ともきが笑いながら味噌汁をすすった。

 

「なんか最近ずっと変だよな」

 

「ともきに言われたくない」

 

「なんでだよ」

 

「いつも適当じゃん」

 

「それとこれとは別」

 

 母は仕事帰りで少し疲れているのか、そんな二人のやり取りを「はいはい」と流しながら食器を寄せていた。

 

 はるかだけが何も言わず、みゆうの顔を少し見たあと、唐揚げにレモンをかけている。

 その静かさが逆に落ち着かなかった。

 

「明日、土曜だよね」

 

 こはるが言った。

 

「午後からバイトなんだけど」

 

「だから?」

 

「だから、お昼どうするのかなって」

 

「知らない」

 

「みゆうに聞いてない」

 

「なんで今こっち見たの」

 

 ともきとこはるがまた言い合いになって、母が呆れたように止める。

 

 いつもの家だった。

 人がいて、声が重なって、少しうるさい。

 

 それなのにみゆうだけが、その輪の外から見ているみたいな気分だった。

 

 ポケットの中には、もちろん何も入っていない。

 学校から帰ってすぐ、かんざしの欠片は机の引き出しの奥にしまった。

 

 なのに時々、まだそこにあるみたいな気がする。

 指先に残るあの冷たさまで。

 

 ごはんのあと、みゆうは自分の部屋に戻った。

 机の引き出しを開ける。

 欠片はちゃんとそこにあった。

 薄桃色の玉が、部屋の明かりを鈍く返している。

 

「……ほんとに何なの」

 

 昨日も言った気がする同じ言葉を、また口にした。

 返事なんてない。

 

 でも、見つめているとだんだん、それが物じゃなくて目印みたいに思えてくる。

 

 やえの声に繋がる、小さな欠片。

 みゆうはそっとそれを手に取った。

 

 その瞬間だった。

 

 頭の奥がふっと引かれる。

 眠くなる感じとは違う。

 足元だけが急に別の場所に立ったみたいな、軽いめまいに近かった。

 視界の端から、部屋の壁や机の色が薄くなる。

 

 みゆうは息を止めた。

 

 次に見えたのは、自分の部屋じゃなかった。

 

 古い木の天井。

 障子の白。

 差し込む夕方の光。

 空気の匂いまで違う。

 乾いた畳と、少し土っぽい匂い。

 

 知らない場所なのに、不思議と怖さより先に、さっきまでの見沼の風が続いている感じがした。

 

 足音がする。

 誰かが走っている。

 ばたばたと、遠慮のない音。

 

「やえ!」

 

 女の人の声が飛ぶ。

 

「どこ行くんだい、また」

 

 襖が勢いよく開く。

 

 みゆうはそこで初めて、自分が“見ている”だけなんだと気づいた。

 体は動かない。

 でも景色だけが目の前にある。

 廊下を走っていく少女の後ろ姿。

 長い髪を後ろでざっくりまとめていて、その髪に、小さなかんざしが差してある。

 欠ける前の形だった。

 薄桃色の玉が揺れる。

 

「やえ!」

 

「あとで戻る!」

 

「戻るって、どこへ――」

 

 声は途中で遠ざかった。

 やえはもう庭へ飛び出している。

 

 その動きがあまりにも迷いがなくて、みゆうは思わず目で追った。

 

 土の庭。

 木戸。

 

 その向こうへ、やえは草履の音を鳴らして走っていく。

 

 景色が変わる。

 宿場の道だった。

 今のみゆうの知っている中山道じゃない。

 もっと土が近くて、道の両側に低い屋根が並んでいる。

 荷を運ぶ人の声。

 店先の音。

 夕方へ傾く空の色。

 みゆうはただ、その中をやえがまっすぐ進んでいくのを見るしかない。

 

 やえは速い。

 

 走るというより、慣れた足取りで町を抜けていく。

 道の先、小さな茶屋のような店の前で、ようやく立ち止まった。

 

 店先には、竹の腰掛けと、簡単な木の机。

 湯気の気配。

 

 そして、荷を持って外へ出てきた少年がいた。

 

 みゆうはすぐにわかった。

 

 この子だ。

 

 宗助。

 

 名前を知っていたせいかもしれない。

 

 でもそれだけじゃなかった。

 やえが、あんなふうに足を止める相手は他にいない気がした。

 

「遅い」

 

 やえが息も整えないまま言う。

 

「待ってたのに」

 

 宗助は少しだけ目を丸くしたあと、持っていた荷を抱え直した。

 

「いや、今出るとこなんだけど」

 

「知ってる」

 

「知ってるならその顔やめろよ」

 

「どういう顔」

 

「文句ある顔」

 

「あるから来たんだけど」

 

 言いながら、やえは少しだけ顎を上げる。

 強い。

 見沼で振り向いたときと同じ目だ。

 

 でも今は、もっと生きてる感じがする。

 

 宗助は困ったように笑った。

 その笑い方は大げさじゃない。

 慣れているんだと思った。

 やえにこう言われることに。

 

「今日は手伝い終わるの早いって言ったじゃん」

 

「言った」

 

「じゃあなんで今からまた荷なんて持ってんの」

 

「急に頼まれたから」

 

「断ればよかったでしょ」

 

「断れるなら断ってる」

 

「断ればいいじゃん」

 

「そういうわけにもいかないんだって」

 

 宗助はそう言って、少しだけ視線を逸らした。

 

 その顔を見て、やえが一瞬だけ黙る。

 

 みゆうはその間に気づいた。

 

 やえは強く言う。

 

 でも、相手の顔はちゃんと見てる。

 

 見てるからこそ、宗助のこういう誤魔化しが気に入らないんだ。

 

「またそうやって」

 

 やえが低く言う。

 

「なんでも平気みたいに言う」

 

「平気とは言ってない」

 

「言ってるのと一緒」

 

 宗助は荷を置いた。

 

 それから、やえの顔を正面から見る。

 

「やえ」

 

「なに」

 

「今、機嫌悪いだけだろ」

 

「悪いよ」

 

「なんで」

 

「……そういうの、自分で考えなよ」

 

 宗助は少しだけ笑った。

 

「難しいな」

 

「ほんとだよ」

 

 やえはそう返して、ふいっと横を向く。

 そのとき、風が吹いた。

 

 髪に差したかんざしの先が小さく揺れる。

 薄桃色の玉が光った。

 宗助の目がそこへ向く。

 

「それ、新しいの」

 

 やえが少しだけ表情を戻す。

 

「姉さんの使わなくなったやつ」

 

「似合うじゃん」

 

「……そういうの、急に言わないで」

 

「なんで」

 

「なんでも」

 

 今度はやえの方が目を逸らした。

 

 その一瞬だけ、見沼で見た強い顔より年相応に見えた。

 みゆうは、胸の奥が少しだけ変に鳴るのを感じた。

 

 ああ、この二人はもうそういうところにいるんだ、と思った。

 まだ何も始まってないみたいに喋っているくせに、たぶんもうずっと前からそうだったんだろう。

 

「今日はさ」

 

 やえが少し声を落とす。

 

「見沼の方、風がすごかった」

 

「そうなんだ」

 

「見てきたの」

 

「また?」

 

「またって何」

 

「この前も行ってただろ」

 

「別にいいじゃん」

 

「いいけど、あんま一人で行くなよ」

 

 やえが宗助を見る。

 

「なんで」

 

「なんでって」

 

 宗助は少し言葉を探したあと、うまく見つからなかったみたいに肩をすくめた。

 

「……なんか危なそうだし」

 

「それだけ?」

 

「それだけって」

 

「ふうん」

 

 やえは明らかに不満そうだった。

 

 でも宗助はそれ以上言わない。

 みゆうは、そこにも少しだけ引っかかった。

 この子は、言えばいいことを言わない。

 

 やえとは逆だ。

 

 だから余計に、やえは腹が立つのかもしれない。

 

「宗助」

 

「ん」

 

「明日」

 

「明日?」

 

「昼すぎ、時間ある?」

 

 宗助は少し驚いた顔をした。

 

「あるけど」

 

「じゃあ来て」

 

「どこに」

 

「見沼」

 

「また?」

 

「また」

 

 やえはそれだけ言うと、宗助の返事を待たずにくるりと背を向けた。

 

「ちょ、待てって」

 

「じゃあね」

 

「やえ」

 

「昼すぎだから」

 

「おい」

 

 呼び止める声を半分無視したまま、やえは軽い足取りで駆けていく。

 宗助はその後ろ姿を見ながら、少し困ったように、でもどこか嬉しそうに笑っていた。

 

 その表情を見た瞬間、みゆうの視界がまた揺れた。

 

 景色が遠ざかる。

 木の匂いも、土の色も、夕方の宿場の音も、全部が急に引いていく。

 

 みゆうは思わず息を吸った。

 気づくと、自分の部屋だった。

 

 ……机の前。

 

 椅子に座ったまま、かんざしの欠片を握っている。

 手のひらが汗ばんでいた。

 

「……宗助」

 

 口に出してみる。

 ただの名前のはずなのに、もうさっき見た顔と声がくっついている。

 

 穏やかで、はっきり言わなくて、でもやえのことをちゃんと見ていた。

 

 そして、やえはあんなふうに強く言いながら、その相手にだけ少し崩れる。

 

 みゆうはしばらく動けなかった。

 

 自分が何を見たのか、考えれば考えるほど現実味がなくなる。

 でも、見たことだけは確かだった。

 

 次の日は土曜日だった。

 

 午前中、家はいつもより少しゆるい空気だった。

 

 ともきは午前から部活で、こはるは午後からバイト、母は買い物。

 

 はるかは昼近くまで部屋から出てこなかった。

 

 みゆうはリビングのテーブルで宿題を開いたまま、ほとんど進んでいないページを見つめていた。

 

「それ、全然やってなくない?」

 

 急に背後から声がして、肩が跳ねる。

 

「びっくりした」

 

「こっちの台詞」

 

 はるかが冷蔵庫から麦茶を取り出しながら言う。

 

「そんな顔で英語見てても、たぶん入ってないでしょ」

 

「入ってるし」

 

「ほんとに?」

 

「……半分くらい」

 

「入ってないじゃん」

 

 はるかは笑って、自分のコップに麦茶を注いだ。

 それからみゆうの向かいに座る。

 

「昨日、駅前行くって言ってたじゃん」

 

「うん」

 

「今日じゃなくて明日にした」

 

「なんで」

 

「めんどくさくなって」

 

「最低」

 

「でしょ」

 

 そう言いながら、はるかはどこかみゆうを見ていた。

 

 探るみたいにじゃない。

 ただ、待ってる感じで。

 

「なんかあった?」

 

 結局、聞かれる。

 

 でも母やこはるみたいな聞き方じゃない。

 だから余計に困る。

 

「……別に」

 

「うん」

 

「うん、なの」


「別にって言うなら別にでいいし」

 

 はるかは麦茶を一口飲む。

 

「でも、その顔のときってだいたい別にじゃないんだよなって思ってるだけ」

 

 みゆうは宿題のノートに目を落とした。

 言えるわけがない。

 

 知らない昔の女の子が見えるとか、その子の恋みたいなものを見せられたとか、そんな話。

 

「はるか姉」

 

「ん」

 

「……誰かに言いたいことあるのに、言えないことってある?」

 

 聞いてから、変な聞き方だったと思った。

 でもはるかは笑わなかった。

 

「あるでしょ、そりゃ」

 

「どうするの」

 

「どうするって」

 

「言えないままのとき」

 

 はるかは少し考える。

 

「相手による」

 

「……なにそれ」

 

「いや、ほんとに」

 

 そう言って、はるかはテーブルに頬杖をついた。

 

「言わない方がいいこともあるし、言わないと終わんないこともあるし」

 

 みゆうは黙る。

 その“終わんない”が妙に残った。

 

「なんで、急にそんなこと聞くの」

 

「別に」

 

「またそれ」

 

 はるかは少し笑った。

 でもそれ以上は聞かなかった。

 

 そのとき、みゆうのスマホが震えた。

 紗奈からだった。

 

「今日ひま?」

「午後ちょっと出れる?」

 

 みゆうは画面を見たまま止まった。

 

 紗奈。

 現代。

 学校。

 昨日までの自分の時間。

 

 でもその下で、かんざしの欠片が入った引き出しのことを思い出す。

 

 やえは昨日、言っていた。

 

 明日、昼すぎ、見沼。

 みゆうはそっとスマホを伏せた。

 

 その動きだけで、はるかはたぶん何か察したんだと思う。

 

「行きたい方、行けば」

 

 みゆうは顔を上げた。

 

「え」

 

「顔に出てる」

 

「そんなに?」

 

「うん、びっくりするくらい」

 

 はるかはそれだけ言って立ち上がった。

 

「後悔しない方ね」

 

 それだけ残して、キッチンの方へ歩いていく。

 みゆうは一人、スマホとノートを見比べた。

 

 紗奈に返したい。

 

 でも、見沼にも行かなきゃいけない気がする。

 

 どっちも今の自分の時間なのに、片方を選ぶと片方から少し離れてしまうような気がした。

 窓の外では、昼の光が静かに広がっていた。

 見沼の方から風が来る。

 

 その風の気配だけで、みゆうの胸の奥はまたざわつき始めていた。

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