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約束の声  作者: ナオ
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3/11

3話 見沼で待ってる

 次はあそこへ行かなきゃいけない。


 そう思ったのは、みゆうの意思というより、声に押されたみたいな感覚だった。


 家に帰っても、その言葉だけが耳の奥に残っていた。


 見沼で待ってる。

 誰が。

 何を。

 どうして自分に。


 考えても答えは出ない。

 でも、行かなきゃいけない気がした。


 晩ごはんのとき、母は仕事の話をしながら慌ただしく箸を動かしていた。


 ともきは相変わらず適当で、こはるはその言い方にいちいち突っかかって、はるかはそれを横で見ながら笑っている。


 いつもの家だった。


 人が多くて、声もあって、別に静かな家じゃない。


 なのにみゆうは、その中で一人だけ別の場所にいるみたいな気分になっていた。


「みゆう、聞いてる?」


 こはるに言われて、はっとする。


「え」


「え、じゃないし……明日、ゴミ出し手伝ってって言ったんだけど」


「あ、ごめん、聞いてなかった」


「なに、今日ほんとどうしたの」


「なんでもない」


 言ってから、自分でもまたその言葉かと思った。


 はるかが向かい側からじっと見てくる。

 でも何も言わなかった。


 代わりに、ごはんのあと台所で皿を洗っているみゆうの横に来て、冷蔵庫から麦茶を出した。


「明日さ」


 はるかが言う。


「学校終わったらヒマ?」


「なんで」


「いや、駅前まで行くから、ついでにアイスでも買ってこようかなって」


「……別に」


「来るなら来れば」


 その言い方が、誘っているのかそうじゃないのか微妙で、みゆうは少しだけ困る。


「行けたら行く」


「はいはい」


 はるかはそれ以上聞かなかった。

 その感じが少しだけ楽だった。

 聞かれたくないことを、無理に開けようとしない。


 でもたぶん、全部気づいてる。

 そういうところがある。


 その夜、みゆうは何度も目を覚ました。

 夢を見た気がする。

 でも、起きるたびに細かいところは消えていった。


 残るのは、土の匂いと、風に揺れる草の先と、誰かが急いで走っていく背中だけだった。


 朝、制服に着替えるとき、机の引き出しにしまったはずのかんざしの欠片が気になって、みゆうはまた取り出してしまった。


 薄桃色の玉は、朝の光の中ではやけに淡く見えた。


 ポケットに入れるか迷って、結局入れた。

 置いていく方が怖かった。


 学校では昨日よりは少しだけ普通にしていられた、授業もちゃんと受けたし、紗奈ともいつも通り話した。


 でも、ふとしたときに気配が混ざる。

 廊下を歩いているとき。

 窓の外を見たとき。

 ノートに視線を落とした瞬間。


 ほんの一瞬だけ、今じゃない景色が差しこんでくる。


 古い屋根。

 低い空。

 見たこともないはずの道。


 みゆうは何度もまばたきをした。


 昼休み、紗奈がパンをかじりながら言った。


「今日さ、帰りちょっと付き合って」


「どこ」


「図書室」


「なんで」


「調べるやつある」


「図書室で?」


「そう、進路のやつ」


 みゆうは一瞬だけ黙った。

 まただ、と思う。

 紗奈は本当に悪くない。

 ただ普通に前へ進んでいるだけだ。


 それなのに、その言葉のひとつひとつが、今のみゆうには少しずつ重い。


「みゆう?」


「……あ、ごめん」


「無理ならいいけど」


「いや、行く」


「ほんと?助かる」


 紗奈はそう言って笑った。

 その笑い方は昨日と同じで、やっぱりやさしい。


 なのにみゆうは、自分の中だけがずれていく感じを止められなかった。


 放課後、図書室は思ったより空いていた。


 紗奈は進路コーナーの棚の前で、学校案内の冊子を何冊か抜き出して机に広げる。


「えら」


 みゆうが言うと、紗奈は顔を上げた。


「なにそれ」


「ちゃんとしてるなって」


「そんなことないし」


「してるじゃん」


「いや、うちも全然わかんないよ」


 紗奈は冊子をめくりながら言う。


「でも、何も見ないままの方が嫌っていうか」


 それがたぶん紗奈なんだろうと思った。

 怖くても、先に見ようとする。

 進めるうちに進んでおこうとする。


 みゆうには、それが少しまぶしかった。


「みゆうはさ」


 紗奈が急に言う。


「まだ決めたくない感じ?」


 みゆうは答えに詰まった。


「……わかんない」


「そっか」


「決めたくないっていうか、決めたらもう戻れない感じするし」


 口に出してから、あ、と思った。

 自分からこういうことを言うのは珍しい。

 紗奈も少しだけ意外そうな顔をした。


「まあ、それはあるかもね」


「でしょ」


「うん」


 そこで終わればよかったのに、紗奈は少し笑って続けた。


「でも、どうせ戻れないなら、早めに決めた方が楽じゃない?」


 その言い方は軽かった。

 たぶん深い意味もない。


 でもみゆうの中では、その一言だけが変に引っかかった。


 どうせ戻れない。

 その通りだ。

 卒業も、進学も、変わっていくことも、たぶん全部そうだ。


 だから苦しいのに。


「……紗奈ってさ」


 みゆうは自分でも驚くくらい小さい声で言った。


「けっこうそういうの、平気だよね」


「え?」


「変わるのとか」


 紗奈は目を丸くした。


「平気っていうか、別に平気じゃないけど」


「でも楽しそうじゃん」


「そんなことないよ」


 少しだけ、空気が止まる。

 大げさな沈黙じゃない。

 でも、ちゃんと止まった。


 みゆうは急に、自分が変な言い方をした気がして落ち着かなくなった。


「……ごめん、別に責めてるとかじゃなくて」


「うん、わかってる」


 紗奈はそう言った。

 それから少しだけ困ったみたいに笑う。


「でも、うちも普通に不安だよ」


「え」


「そりゃそうじゃん。

高校とか全然わかんないし」


 みゆうは何も言えなかった。

 紗奈は冊子を閉じる。


「たださ、考えないともっとやなんだよね」


 その言い方は、さっきまでより少し本音っぽかった。


 みゆうは初めて、紗奈にも紗奈の怖さがあるんだと気づく。


 気づくのが遅い。


 いつも、自分の引っかかりばかり先に見てしまう。


「みゆう?」


「……ん」


「なんか今日、いつもより変だよ」


「それ昨日も言われた」


「誰に」


「こはる」


 紗奈は少し吹き出した。


「なんか想像つく」


「うるさい」


「でもほんとに大丈夫?」


 その聞き方がやさしすぎて、みゆうは逆に困った。


 本当のことなんて言えない。


 古い声が聞こえるとか、知らない女の子の気配がするとか、そんな話をしても仕方ない。

 でも、何も言わないままでもいたくなかった。


「……昨日さ」


 口が、勝手に少しだけ開いた。


「変なもの拾った」


「変なもの?」


「うん」


「なにそれ、怖」


「怖いっていうか……」


 言いかけた瞬間だった。


 ポケットの中で、かんざしの欠片が熱を持った気がした。


 みゆうは息を止める。


 次の瞬間、耳の奥で声がした。

 今までよりも、ずっとはっきり。


 ――見つけて。


 みゆうは立ち上がっていた。


「みゆう?」


 紗奈の声が遠い。


 視界の端で、図書室の窓の外の景色が一瞬だけ歪む。


 畑の向こう。

 用水路。

 細い道。

 そして白い着物の裾。


「ごめん」


 みゆうは鞄をつかんだ。


「え、なに」


「今日、先帰る」


「え、ちょ、みゆう」


「ごめん、ほんとごめん」


 それだけ言って、みゆうは図書室を飛び出した。


 廊下を走る。

 階段を下りる。

 何をしてるんだろうと思うのに、足は止まらない。


 見沼で待ってる。

 その言葉だけが頭の中で何度も繰り返される。


 校門を出て、住宅地の道を抜けて、見沼たんぼの方へ向かう。


 制服のスカートが足にまとわりつく。

 息が上がる。

 でも、行かなきゃいけない気がした。


 畑の広がるあたりまで来ると、空気が変わった。

 住宅の近くなのに、急に音が薄くなる。


 土の匂い。

 草の匂い。


 少し離れた場所の水の気配。


 夕方の光は昨日よりも少し白くて、畑の畝の影が長く伸びていた。


 みゆうは足を止める。


 ポケットの中のかんざしの欠片が、今度ははっきり熱かった。


「……どこ」


 思わず口に出す。


 返事はない。

 でも風が吹いた。

 畑の向こう、細い道の先で、誰かの袖が揺れた気がした。


 みゆうはそちらへ歩く。


 用水路に沿った道は細く、土が少し乾いていて歩きにくかった。


 風で草が擦れる。

 遠くで鳥が鳴く。

 それだけなのに、胸の奥が変に騒ぐ。


 道の先に、小さな祠みたいなものがあった。

 古くて、今はほとんど使われていないような、小さな石の祠。


 その前で、みゆうは立ち止まった。

 風が止む。


 畑の上の空気が、急に重くなる。

 次の瞬間、景色が変わった。

 完全に、ではない。


 今の景色の上に、別の時間が薄く重なる。

 畑はもっと荒れていて、道は今より狭い。

 遠くに見える家の形も違う。


 空の色まで、少しだけ古い。

 祠の前に、女の子が立っていた。

 白ではなく、くすんだ色の着物。

 髪は長いままじゃなく、何かの飾りで少し雑にまとめている。


 顔までは、まだはっきり見えない。

 でもその姿を見た瞬間、みゆうはわかった。


 この子だ。


 氷川参道で見た影。


 声の主。

 その少女が、ゆっくり振り返る。


 ようやく顔が見えた。


 同い年くらい。

 思ったよりも強い目をしている。

 泣きそうというより、何かを飲み込んだまま睨んでいるみたいな顔。


 みゆうは息を呑む。

 少女の唇が動いた。


「……遅い」


 今度は、はっきり聞こえた。

 みゆうの足がすくむ。


「だ……れ」


 喉が乾いて、声がうまく出ない。

 少女は少しだけ眉をひそめた。


「そんなことも、わからないの」


 言い方がきつい。

 でも、不思議と怖いだけじゃなかった。

 むしろその強さに、どこか現実味があった。


「わ、わかるわけないじゃん」


 みゆうも思わず言い返していた。


「急に声だけ聞こえて、変なもの拾って、勝手に呼ばれて」


 少女の目が少しだけ揺れる。


「……かんざし」


「え」


「それ、返して」


 みゆうはポケットの上から手を当てた。


「これ、あんたのなの」


「そう」


「じゃあ、なんで」


「なんで今さら、あんたが持ってるのかって聞いてるの?」


 みゆうは口を閉じた。


 その言い方に、少しだけ紗奈でもこはるでもない、別の温度を感じる。

 まっすぐで、隠さない。


 でもたぶん、この子も本当は全部言えてるわけじゃない。


 そんな気がした。


「……返してほしいなら、ちゃんと教えてよ」


 気づけば、みゆうはそう言っていた。


「何なの、これ」


「……」


「宗助って誰」


 その名前を口にした瞬間、少女の表情が変わった、初めて目の奥にひびが入るみたいな揺れが見えた。


 でもそれもすぐ消える。


「言わない」


「は?」


「まだ」


「何それ」


「まだ、あんたには言わない」


 腹が立つような、でも腹を立ててる場合じゃないような、変な気持ちになった。


「じゃあ何で呼んだの」


 みゆうがそう言うと、少女は少し黙った。


 風が吹く。

 草の先がざわざわ鳴る。

 その音の中で、少女は小さく言った。


「……ひとりじゃ、もう届かないから」


 その言葉だけは、さっきまでの強い言い方と違っていた。


 みゆうは息を止める。


「届かないって」


「宗助に」


 その名前を言うときだけ、少女の声が揺れた。

 ほんのわずかだったけど、はっきりわかった。


「だから、あんたが聞いて」


 みゆうは何も言えなかった。


 自分が今、何を見ているのかも、何を頼まれているのかも、まだ全然わからない。

 でもそのとき、少女の髪をまとめていた飾りの先がきらりと光った。


 かんざし。


 その一部が折れて欠けている。


 みゆうのポケットの中の欠片と、同じ形だった。

 少女が一歩だけ近づく。

 みゆうは反射的に身構えた。


「名前」


 少女が言う。


「え」


「あんたの」


「……みゆう」


「みゆう」


 少女は確かめるみたいに繰り返した。

 それから少しだけ顎を上げる。


「私は、やえ」


 風が強く吹いた。

 思わず目を細めた、その一瞬のあと。

 景色は元に戻っていた。


 夕方の畑。

 細い道。

 古い祠。


 そして、誰もいない空気。


「……やえ」


 みゆうは立ち尽くしたまま、その名前だけを口の中で転がした。


 ポケットの中のかんざしの欠片は、もう熱くなかった。


 ただ、確かにそこにあった。

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