3話 見沼で待ってる
次はあそこへ行かなきゃいけない。
そう思ったのは、みゆうの意思というより、声に押されたみたいな感覚だった。
家に帰っても、その言葉だけが耳の奥に残っていた。
見沼で待ってる。
誰が。
何を。
どうして自分に。
考えても答えは出ない。
でも、行かなきゃいけない気がした。
晩ごはんのとき、母は仕事の話をしながら慌ただしく箸を動かしていた。
ともきは相変わらず適当で、こはるはその言い方にいちいち突っかかって、はるかはそれを横で見ながら笑っている。
いつもの家だった。
人が多くて、声もあって、別に静かな家じゃない。
なのにみゆうは、その中で一人だけ別の場所にいるみたいな気分になっていた。
「みゆう、聞いてる?」
こはるに言われて、はっとする。
「え」
「え、じゃないし……明日、ゴミ出し手伝ってって言ったんだけど」
「あ、ごめん、聞いてなかった」
「なに、今日ほんとどうしたの」
「なんでもない」
言ってから、自分でもまたその言葉かと思った。
はるかが向かい側からじっと見てくる。
でも何も言わなかった。
代わりに、ごはんのあと台所で皿を洗っているみゆうの横に来て、冷蔵庫から麦茶を出した。
「明日さ」
はるかが言う。
「学校終わったらヒマ?」
「なんで」
「いや、駅前まで行くから、ついでにアイスでも買ってこようかなって」
「……別に」
「来るなら来れば」
その言い方が、誘っているのかそうじゃないのか微妙で、みゆうは少しだけ困る。
「行けたら行く」
「はいはい」
はるかはそれ以上聞かなかった。
その感じが少しだけ楽だった。
聞かれたくないことを、無理に開けようとしない。
でもたぶん、全部気づいてる。
そういうところがある。
その夜、みゆうは何度も目を覚ました。
夢を見た気がする。
でも、起きるたびに細かいところは消えていった。
残るのは、土の匂いと、風に揺れる草の先と、誰かが急いで走っていく背中だけだった。
朝、制服に着替えるとき、机の引き出しにしまったはずのかんざしの欠片が気になって、みゆうはまた取り出してしまった。
薄桃色の玉は、朝の光の中ではやけに淡く見えた。
ポケットに入れるか迷って、結局入れた。
置いていく方が怖かった。
学校では昨日よりは少しだけ普通にしていられた、授業もちゃんと受けたし、紗奈ともいつも通り話した。
でも、ふとしたときに気配が混ざる。
廊下を歩いているとき。
窓の外を見たとき。
ノートに視線を落とした瞬間。
ほんの一瞬だけ、今じゃない景色が差しこんでくる。
古い屋根。
低い空。
見たこともないはずの道。
みゆうは何度もまばたきをした。
昼休み、紗奈がパンをかじりながら言った。
「今日さ、帰りちょっと付き合って」
「どこ」
「図書室」
「なんで」
「調べるやつある」
「図書室で?」
「そう、進路のやつ」
みゆうは一瞬だけ黙った。
まただ、と思う。
紗奈は本当に悪くない。
ただ普通に前へ進んでいるだけだ。
それなのに、その言葉のひとつひとつが、今のみゆうには少しずつ重い。
「みゆう?」
「……あ、ごめん」
「無理ならいいけど」
「いや、行く」
「ほんと?助かる」
紗奈はそう言って笑った。
その笑い方は昨日と同じで、やっぱりやさしい。
なのにみゆうは、自分の中だけがずれていく感じを止められなかった。
放課後、図書室は思ったより空いていた。
紗奈は進路コーナーの棚の前で、学校案内の冊子を何冊か抜き出して机に広げる。
「えら」
みゆうが言うと、紗奈は顔を上げた。
「なにそれ」
「ちゃんとしてるなって」
「そんなことないし」
「してるじゃん」
「いや、うちも全然わかんないよ」
紗奈は冊子をめくりながら言う。
「でも、何も見ないままの方が嫌っていうか」
それがたぶん紗奈なんだろうと思った。
怖くても、先に見ようとする。
進めるうちに進んでおこうとする。
みゆうには、それが少しまぶしかった。
「みゆうはさ」
紗奈が急に言う。
「まだ決めたくない感じ?」
みゆうは答えに詰まった。
「……わかんない」
「そっか」
「決めたくないっていうか、決めたらもう戻れない感じするし」
口に出してから、あ、と思った。
自分からこういうことを言うのは珍しい。
紗奈も少しだけ意外そうな顔をした。
「まあ、それはあるかもね」
「でしょ」
「うん」
そこで終わればよかったのに、紗奈は少し笑って続けた。
「でも、どうせ戻れないなら、早めに決めた方が楽じゃない?」
その言い方は軽かった。
たぶん深い意味もない。
でもみゆうの中では、その一言だけが変に引っかかった。
どうせ戻れない。
その通りだ。
卒業も、進学も、変わっていくことも、たぶん全部そうだ。
だから苦しいのに。
「……紗奈ってさ」
みゆうは自分でも驚くくらい小さい声で言った。
「けっこうそういうの、平気だよね」
「え?」
「変わるのとか」
紗奈は目を丸くした。
「平気っていうか、別に平気じゃないけど」
「でも楽しそうじゃん」
「そんなことないよ」
少しだけ、空気が止まる。
大げさな沈黙じゃない。
でも、ちゃんと止まった。
みゆうは急に、自分が変な言い方をした気がして落ち着かなくなった。
「……ごめん、別に責めてるとかじゃなくて」
「うん、わかってる」
紗奈はそう言った。
それから少しだけ困ったみたいに笑う。
「でも、うちも普通に不安だよ」
「え」
「そりゃそうじゃん。
高校とか全然わかんないし」
みゆうは何も言えなかった。
紗奈は冊子を閉じる。
「たださ、考えないともっとやなんだよね」
その言い方は、さっきまでより少し本音っぽかった。
みゆうは初めて、紗奈にも紗奈の怖さがあるんだと気づく。
気づくのが遅い。
いつも、自分の引っかかりばかり先に見てしまう。
「みゆう?」
「……ん」
「なんか今日、いつもより変だよ」
「それ昨日も言われた」
「誰に」
「こはる」
紗奈は少し吹き出した。
「なんか想像つく」
「うるさい」
「でもほんとに大丈夫?」
その聞き方がやさしすぎて、みゆうは逆に困った。
本当のことなんて言えない。
古い声が聞こえるとか、知らない女の子の気配がするとか、そんな話をしても仕方ない。
でも、何も言わないままでもいたくなかった。
「……昨日さ」
口が、勝手に少しだけ開いた。
「変なもの拾った」
「変なもの?」
「うん」
「なにそれ、怖」
「怖いっていうか……」
言いかけた瞬間だった。
ポケットの中で、かんざしの欠片が熱を持った気がした。
みゆうは息を止める。
次の瞬間、耳の奥で声がした。
今までよりも、ずっとはっきり。
――見つけて。
みゆうは立ち上がっていた。
「みゆう?」
紗奈の声が遠い。
視界の端で、図書室の窓の外の景色が一瞬だけ歪む。
畑の向こう。
用水路。
細い道。
そして白い着物の裾。
「ごめん」
みゆうは鞄をつかんだ。
「え、なに」
「今日、先帰る」
「え、ちょ、みゆう」
「ごめん、ほんとごめん」
それだけ言って、みゆうは図書室を飛び出した。
廊下を走る。
階段を下りる。
何をしてるんだろうと思うのに、足は止まらない。
見沼で待ってる。
その言葉だけが頭の中で何度も繰り返される。
校門を出て、住宅地の道を抜けて、見沼たんぼの方へ向かう。
制服のスカートが足にまとわりつく。
息が上がる。
でも、行かなきゃいけない気がした。
畑の広がるあたりまで来ると、空気が変わった。
住宅の近くなのに、急に音が薄くなる。
土の匂い。
草の匂い。
少し離れた場所の水の気配。
夕方の光は昨日よりも少し白くて、畑の畝の影が長く伸びていた。
みゆうは足を止める。
ポケットの中のかんざしの欠片が、今度ははっきり熱かった。
「……どこ」
思わず口に出す。
返事はない。
でも風が吹いた。
畑の向こう、細い道の先で、誰かの袖が揺れた気がした。
みゆうはそちらへ歩く。
用水路に沿った道は細く、土が少し乾いていて歩きにくかった。
風で草が擦れる。
遠くで鳥が鳴く。
それだけなのに、胸の奥が変に騒ぐ。
道の先に、小さな祠みたいなものがあった。
古くて、今はほとんど使われていないような、小さな石の祠。
その前で、みゆうは立ち止まった。
風が止む。
畑の上の空気が、急に重くなる。
次の瞬間、景色が変わった。
完全に、ではない。
今の景色の上に、別の時間が薄く重なる。
畑はもっと荒れていて、道は今より狭い。
遠くに見える家の形も違う。
空の色まで、少しだけ古い。
祠の前に、女の子が立っていた。
白ではなく、くすんだ色の着物。
髪は長いままじゃなく、何かの飾りで少し雑にまとめている。
顔までは、まだはっきり見えない。
でもその姿を見た瞬間、みゆうはわかった。
この子だ。
氷川参道で見た影。
声の主。
その少女が、ゆっくり振り返る。
ようやく顔が見えた。
同い年くらい。
思ったよりも強い目をしている。
泣きそうというより、何かを飲み込んだまま睨んでいるみたいな顔。
みゆうは息を呑む。
少女の唇が動いた。
「……遅い」
今度は、はっきり聞こえた。
みゆうの足がすくむ。
「だ……れ」
喉が乾いて、声がうまく出ない。
少女は少しだけ眉をひそめた。
「そんなことも、わからないの」
言い方がきつい。
でも、不思議と怖いだけじゃなかった。
むしろその強さに、どこか現実味があった。
「わ、わかるわけないじゃん」
みゆうも思わず言い返していた。
「急に声だけ聞こえて、変なもの拾って、勝手に呼ばれて」
少女の目が少しだけ揺れる。
「……かんざし」
「え」
「それ、返して」
みゆうはポケットの上から手を当てた。
「これ、あんたのなの」
「そう」
「じゃあ、なんで」
「なんで今さら、あんたが持ってるのかって聞いてるの?」
みゆうは口を閉じた。
その言い方に、少しだけ紗奈でもこはるでもない、別の温度を感じる。
まっすぐで、隠さない。
でもたぶん、この子も本当は全部言えてるわけじゃない。
そんな気がした。
「……返してほしいなら、ちゃんと教えてよ」
気づけば、みゆうはそう言っていた。
「何なの、これ」
「……」
「宗助って誰」
その名前を口にした瞬間、少女の表情が変わった、初めて目の奥にひびが入るみたいな揺れが見えた。
でもそれもすぐ消える。
「言わない」
「は?」
「まだ」
「何それ」
「まだ、あんたには言わない」
腹が立つような、でも腹を立ててる場合じゃないような、変な気持ちになった。
「じゃあ何で呼んだの」
みゆうがそう言うと、少女は少し黙った。
風が吹く。
草の先がざわざわ鳴る。
その音の中で、少女は小さく言った。
「……ひとりじゃ、もう届かないから」
その言葉だけは、さっきまでの強い言い方と違っていた。
みゆうは息を止める。
「届かないって」
「宗助に」
その名前を言うときだけ、少女の声が揺れた。
ほんのわずかだったけど、はっきりわかった。
「だから、あんたが聞いて」
みゆうは何も言えなかった。
自分が今、何を見ているのかも、何を頼まれているのかも、まだ全然わからない。
でもそのとき、少女の髪をまとめていた飾りの先がきらりと光った。
かんざし。
その一部が折れて欠けている。
みゆうのポケットの中の欠片と、同じ形だった。
少女が一歩だけ近づく。
みゆうは反射的に身構えた。
「名前」
少女が言う。
「え」
「あんたの」
「……みゆう」
「みゆう」
少女は確かめるみたいに繰り返した。
それから少しだけ顎を上げる。
「私は、やえ」
風が強く吹いた。
思わず目を細めた、その一瞬のあと。
景色は元に戻っていた。
夕方の畑。
細い道。
古い祠。
そして、誰もいない空気。
「……やえ」
みゆうは立ち尽くしたまま、その名前だけを口の中で転がした。
ポケットの中のかんざしの欠片は、もう熱くなかった。
ただ、確かにそこにあった。




