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約束の声  作者: ナオ
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2/11

2話 見沼の気配

 家に着いたときには、空はほとんど夜の色になっていた。


 見沼区のほうまで戻ってくると、大宮駅まわりのざわつきが嘘みたいに遠くなる。


 住宅のあいだを抜ける風の音と、たまに走る車の気配だけが静かに続いていた。


 みゆうは玄関の前で一度だけ立ち止まった。


 制服のスカートのポケットに入れていた、かんざしの欠片が気になったからだ。


 帰り道の途中でも何度か確かめた。

 なくなっていないか。

 本当に持っているのか。


 ただの変な思い込みじゃなくて、ちゃんと手の中にあったものなのか。


 指先で触れると、薄桃色の小さな玉がまだそこにあった。


 ……冷たい。


 でも、さっきみたいな嫌な感じはもうない。


 みゆうは玄関を開けた。


「ただいま」


 返事はすぐに返ってこなかった。


 でも、家の奥からテレビの音がしていたから、誰かしらはいるんだろうと思った。


 靴を脱いで上がると、リビングのほうから人の声がした。


「お、帰った」


 ともきだった。


 ソファにだらっと座って、スマホでゲームをしている。


 テーブルの上には、空いたペットボトルとスナック菓子の袋が広がっていた。


「……ともき、またそれ晩ごはん前に食べてる」


「別にいいだろ、腹減ってたし」


「ママに言うよ」


「やめろって」


 ともきは言いながら、そこまで困っていなさそうに笑った。


 高校二年の双子の兄のくせに、こういうとこはたまに子どもっぽい。


 でも、みゆうに向ける言い方は少しだけ上からだ。


 悪意があるほどじゃない。


 ただ、なんとなく“おまえはまだ子ども”みたいな感じが混ざる。


「遊んでたんだっけ」


「うん」


「遅かったね」


「大宮いたから」


「へえ」


 興味があるのかないのか、わからない返事だった。


 ともきはまたスマホに目を戻す。


「こはるは?」


「風呂」


「はるか姉は?」


「部屋じゃね」


「ママは」


「まだ帰ってない」


 みゆうは「そっか」とだけ言って、自分の荷物を置きに部屋へ向かった。


 廊下を歩きながら、ポケットの中のかんざしの欠片をもう一度握る。


 変だ。


 家に帰ってきたら、少しは現実に戻ると思っていた。


 紗奈との会話も、氷川参道の風も、知らない声も、家の明るさの中に入ったら少しは薄まると思っていたのに。


 薄くならない。


 むしろ、ポケットの中でじっと熱を持っているみたいだった。


 自分の部屋に入って、鞄を床に置く。


 制服のままベッドに腰かけてから、そっとかんざしの欠片を取り出した。


 部屋の明かりの下で見ると、やっぱり古い。


 細い飾りの先についた小さな玉は、淡い桃色というより、少し白っぽくくすんで見えた。


 でも汚れてはいない。


 折れた断面だけが、やけに鋭くて新しい。


「……ほんとに何」


 独り言みたいに言って、みゆうは欠片を机の上に置いた。


 その瞬間、ドアが2回ノックされた。


「入るよー」


 返事をする前に開いた。


 こはるだった。


 髪をタオルで拭きながら、当然みたいな顔で入ってくる。


「おかえり」


「ん」


「今日どうだった?」


「普通」


「いや、それ絶対普通じゃない日の言い方じゃん」


 こはるはそう言って、みゆうの机に近づいた。


 反射的に、みゆうは机の上のかんざしの欠片を手で隠した。


 こはるが一瞬だけ眉を上げる。


「なにそれ」


「別に」


「別に、で隠すと余計怪しいんだけど」


「なんでもないし」


「ふーん」


 こはるはベッドの端に腰を下ろした。


「紗奈とは普通だった?」


「普通」


「今日その返しばっかだね」


「じゃあ普通じゃない」


「なにそれ」


 こはるはちょっと笑った。


 仲は悪くない。


 むしろ、話す量だけでいえばともきよりこはるのほうが多い。


 でもたまに、こうやって軽く踏み込んでくる感じが面倒なときがある。


「なんかあった?」


 こはるが聞く。


「別に」


「絶対あるじゃん」


「ないって」


「みゆうさ、ほんとそういうとこあるよね」


 少しだけ言い方が刺さった。


「なに」


「いや、なんか、ほんとはあるくせにないって言うやつ」


「……こはるに言われたくない」


「え、なんで」


「自分だってそうじゃん」


「うちはちゃんと言うし」


「言ってないときあるし」


「あるけど、みゆうほどじゃない」


 なんとなくむっとして、みゆうは目をそらした。


 こはるは少しだけ黙る。


 それから、あっさり口調を変えた。


「まあいいけど」


「……なにそれ」


「なんか今日、みゆう機嫌悪いし」


「悪くない」


「悪いって」


「悪くないってば」


 こはるは小さくため息をついた。


「はいはい、もういいです」


「なんでそうなるの」


「だって今、何言ってもやでしょ」


 言い返しかけて、みゆうはやめた。


 たぶんその通りだったからだ。


 こはるは立ち上がる。


「晩ごはんできたら呼ぶ」


「ん」


 ドアのところまで行ってから、こはるは少しだけ振り返った。


「紗奈となんかあったなら、変にこじらせる前にちゃんとしなよ」


「なんもないって」


「はいはい」


 そう言って、今度こそ部屋を出ていった。


 ドアが閉まる。


 みゆうはしばらく動かなかった。


 こはるの言い方は、たまに腹が立つ。


 わかったふうな感じも嫌だ。


 でも、変にこじらせる前に、なんて言葉が残った。


 紗奈と何かあったわけじゃない。


 ケンカしたわけでもないし、嫌なことを言われたわけでもない。


 なのに、なんでこんなに引っかかっているんだろう。


 机の上のスマホが光る。


 紗奈からだった。


 さっきの続きではなく、新しく一通。


「無事帰れた?」


 みゆうはその画面を見つめた。


 優しい。

 普通だ。

 紗奈はいつも通りで、何も変じゃない。


 変なのは自分だけだ。


 みゆうは短く打った。


「帰れた、ありがと」


 送ってから、少しだけ息を吐く。


 そのときだった。


 机の上で、かすかな音がした。


 ちり、と。


 みゆうは顔を上げる。


 かんざしの欠片は、さっき置いたままの場所にある。


 でも、薄桃色の玉のところだけが、光を吸ったみたいに少し暗く見えた。


 気のせいだと思いたかった。

 それなのに、次の瞬間、耳の奥で女の子の息遣いみたいなものがした。

 浅くて、急いでいるような。


「……待って」


 みゆうの背中に冷たいものが走る。


 今のは、確かに声だった。

 しかも、さっきの氷川参道で聞いた声と同じだ。


 みゆうは立ち上がった。


 机に手をついた拍子に、かんざしの欠片が小さく転がる。


 その瞬間、視界の端で何かが揺れた。


 部屋の隅。


 カーテンのそば。


 白っぽいものが立っていた気がした。


 振り向く。

 でも、そこには何もない。


 カーテンが少しだけ揺れているだけだった。


 窓は閉まっているのに。


「みゆう?」


 廊下からはるかの声がした。


 みゆうは飛び上がりそうになる。


「な、なに」


 ドアが開いて、はるかが顔を出した。


 部屋着のスウェットで、髪は適当に後ろでまとめている。

 コンビニの袋を片手に持ったまま、少しだけ眠そうな顔でこっちを見た。


「いや、今なんか音したから」


「……なんでもない」


「ほんと?」


「うん」


 はるかは少しだけみゆうの顔を見た。


 ともきやこはると違って、はるかは変に問い詰めない。


 でも、その代わり見方が妙に鋭いときがある。


「今日さ」


 はるかがドアにもたれて言う。


「なんかあった?」


「なんで」


「顔」


「顔?」


「なんか、変」


「それ失礼じゃない」


「そういう意味じゃなくて」


 はるかは少しだけ笑った。


「また言いたいこと飲み込んできた顔してる」


 みゆうは何も言えなかった。


 その言い方が、妙に正しかったからだ。


「……別に」


「その“別に”のとき、だいたい別にじゃないんだよね」


「なにそれ」


「昔から」


 はるかはそう言って、コンビニ袋を軽く持ち上げた。


「アイスいる?」


「……食べる」


「じゃああとでおいで」


 それだけ言って、はるかは廊下の向こうへ戻っていった。


 ドアが半分だけ開いたままになる。


 みゆうはしばらくそこを見ていた。


 また言いたいこと飲み込んできた顔。


 そんなの、自分ではわからない。


 でも、今日の自分はたぶんずっとそうだった。


 紗奈に対しても。

 こはるに対しても。

 今、はるかに対しても。


 机の上のかんざしの欠片を見る。


 さっきの声は、幻だったんだろうか。


 そう思おうとした、そのとき。


 今度は、もっとはっきり聞こえた。


 耳のすぐ近くで、でも誰の姿も見えないまま。


 女の子の声。


「……待って、宗助」


 みゆうは息を呑んだ。


 宗助。


 ……氷川参道で聞いた名前と同じだった。


 立て続けに聞こえたってことは、もう気のせいじゃない。


 みゆうは恐る恐る、かんざしの欠片に手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、頭の奥がふっと揺れる。


 暗い、というより古い色の景色が一瞬だけ入りこんできた。


 土の道。

 低い軒先。

 夕方の空気。

 誰かが走っている。


 その先に、後ろ姿の少年がいる。


 みゆうは思わず目を閉じた。


 次の瞬間には、いつもの自分の部屋だった。


 机も、カーテンも、壁に貼ったカレンダーも、全部そのまま。


 でも息だけが上がっている。


「……なに、これ」


 答える声はない。


 その代わり、ポケットの中のスマホがまた震えた。


 紗奈からだった。


「明日、数学のワーク持ってきて」

「あと今日買ったノート見せて」


 その文を見て、みゆうは少しだけ力が抜けた。


 紗奈は本当にいつも通りだ。


 みゆうの中だけが変になっているみたいだった。


「了解」


 短く返して、スマホを伏せる。


 それからもう一度、かんざしの欠片を見る。


 細い飾りの先の薄桃色の玉が、静かに光を返していた。


 翌朝は、昨日のことが少しだけ遠く感じられた。


 学校へ向かう道を歩いていると、夜の出来事なんてたいてい現実味を失う。


 通学路の車の音。

 近所の家の庭先。

 信号待ちの人。


 そういういつもの景色があると、変なことは全部夢だったみたいに思えてくる。


 でも、制服のポケットに入れたかんざしの欠片だけが、それを許さなかった。


 学校へ着いて教室に入ると、もう何人か来ていた。

 紗奈は自分の席で、友達と話しながら笑っている。

 その横顔を見て、みゆうは少しだけ迷った。


 いつもなら普通に近づく。


 でも今日は、一瞬だけどう話しかければいいのかわからなかった。


 紗奈が先に気づいた。


「あ、おはよ」


「……おはよ」


「ワーク持ってきた?」


「持ってきた」


「さすが」


「それくらい持ってくるし」


「ノートは?」


「それもある」


「あとで見せて」


 いつもの調子だった。


 昨日のことなんて何も残っていないみたいに。


 みゆうは「うん」と返した。


 それだけで終わればよかったのに、紗奈は続けた。


「昨日さ、帰りちょっと変じゃなかった?」


 心臓が少しだけ跳ねる。


「変って?」


「なんか急に」


「別に」


「いや、別にいいけど」


 紗奈は言いながら、そこまで深く気にしている感じでもなかった。


「ほんとにママ迎え来たの?」


 みゆうは一瞬だけ止まった。

 嘘をついたことを責められているわけじゃない。

 ただ確認しただけだ。


 わかってるのに、妙に詰まる。


「……来たよ」


 口が勝手にそう言った。


 言った瞬間、またやったと思った。

 自分でも嫌になるくらい自然に、嘘が出た。


 紗奈は「そっか」と頷いただけだった。


「ならよかった」


 それだけだった。


 でも、みゆうは自分でついた2回目の嘘の重さだけを感じてしまう。


 なんでまたこんなことを言ったんだろう。

 本当は迎えなんて来ていない。

 一人で歩いて、氷川参道へ行って、知らない声を聞いた。


 そのくらい、言おうと思えば言えたはずだ。


 ……でも言えない。


 言ったところで変に思われるだけだし、紗奈を困らせるだけだと思った。


 それに、昨日の夕方のことを口にした瞬間、全部が本当になってしまいそうで怖かった。


 ホームルームが始まって、授業が始まっても、みゆうは何度もポケットを気にした。


 もちろん教室で取り出したりはしない。


 でもそこにあるとわかるだけで、意識が引っ張られる。


 国語の時間、先生の声が遠かった。


 数学の時間はノートを取っているふりをしながら、頭の中ではずっと宗助という名前が残っていた。


 昼休みになっても、落ち着かなかった。


「みゆう」


 紗奈が机に手をつく。


「購買行く?」


「……あ、ごめん、いい」


「珍し」


「なんか今日、あんまお腹すいてなくて」


「大丈夫?」


「平気」


「そっか」


 紗奈は少しだけ首をかしげたけど、それ以上は何も言わなかった。


 その背中を見送りながら、みゆうは机の中に手を入れた。


 その瞬間、また……ちりっと音がした。


 今度は教室の中だった。


 思わず顔を上げる。


 でも誰も反応していない。


 クラスメイトは普通に笑っていて、椅子を引く音も、話し声も、全部そのままだった。


 自分だけが聞いたのだとわかる。


 みゆうはそっと席を立った。


 廊下へ出る。


 昼の光が差しこんでいて、教室の中より少し明るい。


 それなのに、耳の奥ではまたあの声がした。


「……見つけて」


 立ち止まる。


 今度ははっきりしていた。


 女の子の声。

 昨日より近い。


 みゆうはごくりと唾を飲みこんだ。


 見つけて、って何を?


 そう思った瞬間、頭の奥にまた景色が差しこむ。


 広い空。

 畑の土の匂い。

 草の先を風が渡っていく音。

 水路みたいな細い光。


 一瞬だけだった。


 でもそれが、見慣れた見沼の景色に少し似ている気がして、みゆうは息を止めた。


 見沼たんぼ。


 理由もなく、そう思った。


 昼休みの終わるチャイムが鳴る。


 その音で景色は途切れた。


 みゆうはゆっくりと教室へ戻る。


 ポケットの中のかんざしの欠片は、もう冷たくなかった。


 放課後。


 みゆうはいつもより少しだけ遠回りして帰った。


 家の近くの見沼たんぼのほうへ向かう。


 実際は田んぼというより畑のほうが目立つ。


 土の畝と、少しひらけた空。


 住宅地の近くなのに、歩いていると急に音が薄くなる場所がある。


 用水路のそばまで来ると、夕方の光が斜めに差していた。


 草の匂い。

 乾いた土の匂い。

 遠くの車の音。


 そして、ほんの少しの水の気配。


 みゆうは立ち止まる。


 ポケットの中のかんざしの欠片に、また指先で触れた。


 その瞬間だった。


 ……風が抜ける。


 畑の向こうで、誰かの着物の裾が揺れた気がした。


 みゆうは息を呑んで振り向く。


 そこには誰もいない。

 でも、はっきり聞こえた。

 今までで一番近く。


「……見沼で待ってる」


 女の子の声だった。


 やえ、という名前もまだ知らないまま。


 みゆうは、暮れかけた畑の向こうをじっと見つめていた。


 次はあそこへ行かなきゃいけない……なぜか、そう思った。

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