1話 氷川参道の声
大宮駅は、夕方でも人が多い。
改札の前を通るたび、みゆうはいつも少しだけ息苦しくなる。
人ごみが苦手というほどじゃない。
でも、知らない誰かの笑い声や足音が近すぎると、自分まで急がなきゃいけない気がして落ち着かなかった。
「ねえ、やっぱさっきの店もう1回見ない?」
紗奈が駅ビルのほうを振り返りながら言った。
「え、まだ見るの?」
「見るだけ、あのポーチ、やっぱかわいかったなって」
「買えばよかったじゃん」
「今日は我慢する日なの」
「そんな日あったんだ」
「あるし」
みゆうがそう返すと、紗奈は笑った。
「ひど、みゆうだってノート買ってたじゃん」
「あれは使うから」
「絶対そんな使わないでしょ」
「使うよ」
「ほんとかなあ」
こういうどうでもいい会話をしているときは、楽だった。
紗奈といると、無理に何かを言わなくても時間が進む。
沈黙ができても、変に気を遣わなくていい。
少なくとも、少し前まではそうだった。
駅の外へ出ると、夕方の空気は昼間より少し軽くなっていた。
ビルのあいだから見える空がうすいオレンジ色で、風も少しだけ涼しい。
「今日けっこう歩いたね」
紗奈が自分の足元を見ながら言う。
「そりゃ歩くでしょ、大宮だし」
「でも楽しかった」
「うん」
「カフェも当たりだったし」
「パンケーキは重かったけど」
「それ、みゆうが頼んだやつじゃん」
「ちょっと後悔してる」
「してた顔してた」
また笑われる。
紗奈のそういう笑い方を、みゆうは知っている。
ちょっと呆れていて、でもちゃんとやさしい。
それが当たり前みたいに思っていた。
信号が変わって、人の流れがいっせいに動き出す。
二人もそれに合わせて歩いた。
「そういえばさ」
横断歩道を渡りながら、紗奈が言った。
「うち、来週また説明会あるんだよね」
「高校の?」
「うん、お母さんが、ちゃんと見ときなって」
「へえ」
「正直ちょっとめんどいけど」
そう言いながら、そこまで嫌そうじゃない。
「でもまあ、高校入ったら今よりちょっと楽しいかもって思うし」
みゆうは返事をしなかった。
紗奈は気づかないまま続ける。
「制服かわいいとこ多いしさ、新しい友達とかもできるだろうし」
「そうだね」
口から出たのは、それだけだった。
引っかかったのは、言葉そのものじゃない。
紗奈が自然に、これから先の話をしていることだった。
高校に行きたくないわけじゃない。
卒業が嫌だと、はっきり思っているわけでもない。
でも紗奈が、当たり前みたいに先のことを話すたび、みゆうの胸の奥にはうまく言えない感じだけが残る。
置いていかれる、とまでは思わない。
紗奈は別に、みゆうを置いていこうとしているわけじゃないから。
ただ少しだけ、自分より先を歩いているように見えた。
「みゆうは?」
「なにが」
「どこ受けるか、もうちょい絞った?」
「いや、まだ」
「そっか、でもみゆうって、ちゃんと考えてそうなのに」
「考えてないよ」
「いや、考えてるでしょ、そういうタイプじゃん」
それはたぶん、紗奈から見たみゆうだ。
でも本当はそんなことない。
考えれば考えるほど、何を選んでも今まで通りじゃなくなる気がして、余計にわからなくなるだけだった。
「まだいいかなって感じ」
そう言うと、紗奈は「そっか」とだけ返した。
責めるわけでもなく、笑うわけでもない。
本当にそれだけ。
なのにみゆうは、その短い一言に少しだけ距離を感じた。
変なの、と思う。
紗奈は何も悪くない。
悪くないからこそ、みゆうも何も……言えない。
少し歩いて、駅へ戻る道の手前で紗奈が足を止めた。
「じゃ、そろそろ帰る?」
「うん」
「家の近くまで一緒でいいよね」
その一言に、みゆうはすぐ返せなかった。
いつもなら、そのまま「うん」と言えたはずだった。
でも今日は、なぜかそれができなかった。
このまま駅に入って、電車に乗って、いつも通りに帰る。
ただそれだけのことなのに、その“いつも通り”が少しだけ苦しかった。
もう少し一緒にいたかったのかもしれない。
逆に、少し一人になりたかったのかもしれない。
でも、どっちもちゃんと言葉にできない。
「みゆう?」
「あ、ううん、大丈夫」
たぶん、ちゃんと笑えたと思う。
「ママが迎えに来るから」
言った瞬間、自分でも少しだけ変だと思った。
紗奈は「あ、そっか」と頷いた。
「じゃ平気か、着いたら連絡してね」
「うん」
「またね」
「また」
紗奈は手を振って、人の流れの中へ入っていった。
みゆうも手を上げたまま、紗奈の背中が見えなくなるまで立っていた。
それからスマホを出す。
画面は静かなままだった。
ママからの連絡はない。
当然だった。
迎えに来るなんて、嘘だったから。
みゆうはスマホをしまった。
胸のあたりが少しだけざわついている。
嘘をついた後ろめたさより、本当のことを言えなかったあとの、いつもの感じに近かった。
寂しい、というのとも少し違う。
ただ、今日がこのまま終わるのが嫌だった。
たぶん、それだけだ。
みゆうは駅のほうへ向かう人の流れから、そっと外れた。
理由なんてなかった。
少しだけ歩こうと思っただけだった。
にぎやかな通りを離れると、車の音が少しずつ遠くなる。
空はもう夕焼けというほど濃くなくて、やわらかい色だけが残っていた。
歩いているうちに、見覚えのある道へ出る。
高い木がまっすぐ並んでいて、足元に長い影を落としている。
頭の上で葉がかすかに揺れて、枝の間から細い空が見えた。
氷川参道だった。
何度か来たことはある。
初詣の帰りにも歩いたし、家族で氷川神社へ行ったこともある。
知っている場所のはずなのに、その日の参道は少しだけ違って見えた。
人はいる。
犬を連れた人、自転車を押して歩く人、ジョギング帰りみたいな男の人。
いつもの夕方のはずなのに、何かだけが少しずれている気がした。
みゆうはゆっくり歩いた。
風が吹く。
春の終わりの、少し湿った風だった。
その風の中に、まじった気がした。
足音じゃない。
葉の擦れる音でもない。
もっと小さくて、もっと近い。
みゆうは立ち止まった。
今、何か聞こえた。
振り返る。
でも後ろには誰もいない。
少し離れたところを、買い物袋を下げた人が通っていくだけだった。
気のせいだと思いかけた、そのときだった。
「……まだ、ここにいたの」
女の子の声だった。
すぐ近くで囁かれたみたいに、はっきりしていた。
なのに、どこから聞こえたのかわからない。
みゆうの肩が小さく震える。
誰、と聞こうとしたけれど、喉の奥で声が止まった。
参道の先で、空気が揺れた。
その瞬間、景色がほんの一瞬だけ変わる。
舗装された道の向こうに、今はないはずの灯りが見えた。
低い位置を揺れる提灯みたいなもの。
見たことのない屋根の線。
土の匂いまでした気がした。
誰かが歩いている。
着物の裾だけが見える。
まばたきをした次の瞬間には、全部消えていた。
いつもの参道だった。
木が並んでいて、人がいて、夕方で、それだけだった。
「……なに、今の」
自分の声が思ったより小さくて、みゆうは少しだけぞっとした。
疲れてるだけだと、思おうとした。
今日は朝から学校で、そのあと大宮まで来て、人も多くて、いっぱい歩いた。
たぶんそのせいだと。
でも足は動かなかった。
風がもう一度吹く。
そのとき、参道の端で何かが小さく光った。
木の根元の近く。
しゃがみこんで拾い上げる。
それは、古いかんざしの欠片だった。
細い飾りの先に、小さな薄桃色の玉がひとつだけついている。
元はもっと長かったのか、途中で折れたみたいに不自然な断面が見えた。
古いもののはずなのに、泥もついていなくて、ついさっきそこへ落ちたみたいだった。
みゆうがそれを手のひらに乗せた瞬間、また声がした。
今度は耳じゃなくて、胸の奥で聞こえた気がした。
――約束したのに。
みゆうは思わず、かんざしの欠片を強く握りしめた。
風が止む。
葉の音も、遠くの車の音も、急に薄くなったように感じた。
参道のまんなかに、自分だけが立っているみたいだった。
背後で自転車のベルが鳴って、みゆうははっとする。
振り返ると、高校生くらいの男子が何事もない顔で通り過ぎていった。
景色はまた、いつもの夕方に戻っている。
みゆうは自分の手を見る。
かんざしの欠片だけが、たしかに残っていた。
スマホが震えた。
紗奈からだった。
「もう迎え来た?」
短いメッセージを見つめて、みゆうはしばらく動けなかった。
返事を打とうとして、やめる。
別の言葉を考えて、また消す。
……結局、何も送れないまま画面を閉じた。
そのとき、風もないのに、耳の奥で誰かの声がした。
さっきより、ずっと小さい。
でも、今度ははっきり名前だった。
――宗助。
みゆうは顔を上げた。
参道の先、木々のあいだに、白い影が立っている気がした。
同じくらいの年頃の少女だった。
着物の袖が、風もないのにかすかに揺れている。
横顔だけが夕暮れの中に浮かんで見えた。
その姿は、みゆうが瞬きをする前に消えた。
あとにはただ、長い参道と、暮れかけの空だけが残っていた。




