第68回(家=国家=小宇宙の神話以前・その20)
風ちゃん。そこでどーしてマスクをするのかな。使い捨てといえど電気の助力で花粉・ウイルス・メル変っ子、ずぱっと99%カット。
「考えたくもないけど、微生物様のメル変とかいうのが無数に漂ってるんだそうだ。そしてそれらは壁にくっついてる連中のエサでもある」
「空気中に…?」
風ちゃんの冷静な解説を聞いて、姐御さんの表情が不安に曇っていきます。服の胸元をきゅっと握る右手は、どうやら無意識のようで。
「一度の呼吸で吸う空気は個人差あるけど、そうだな…」
人間の成人男女ならまず数百から数千はいくでしょうねぇ。でもって他の生きものの肺に取り込まれたそれらちっちゃなメル変っ子のうじゃうじゃは、あるいは留まり、あるいは更に移動して、どちらにせよここと定めた宿主組織を耕し始める、やがてそのフロンティア精神は入れ子になったミクロコスモスを、宿主の体内に複雑精妙な生体自治区を現出させるに至りまして、まぁなんだその、要するにそこであれやこれやと彼らの生活を謳歌する訳ですよ。
「そうかい。そりゃ大変だ」
早くも風ちゃんとおそろいのマスク姿になって、姐御さんは素っ気なく応じます。んもー、大変だってなんか誤解してるよ、ちっちゃなメル変っ子たちは宿主に悪さするウイルスとかとは違うの、ただちょっと他の生体内に居候させてもらって人生楽ありゃ苦もあるさ、有り触れてはいる、けれど人それぞれちょっとずつ特別でもある、そんな日常にあなたと一緒に棹さして、運ばれ行く終点までただ静かに流れて行きたいだけなの。
「まったく。居候、これメル変の本質ってやつだな」
そうだね、当家での関係がそのまま生体内でも維持されている、連続的な入れ子構造になってるっていうのは確かに不思議・ロマンだよね。苦み走った表情でボクらの本質についての良い指摘。ああん、風ちゃん。
「そうだ、不思議といえば」
風ちゃんとボクらの縁の不思議さを語らせたら、きっと長いよ?
「その挑戦はいずれ受けて立とう。今は目の前の不思議に答えてくれ」
一瞬、目と目を見交わすボクらと姐御さん。そうやって格闘家矜持の誓いを済ませたあと、姐御さんは風ちゃんに向き直ります。
「なんだよぉ。男を差し置いて、男がぐっと来る空気作っちまってよぉ」
「あのな…それより風太。お前、引っ越しするんだよな?」
「へ? なんだよ、今更」
「じゃあさ、あの子たちとか、この子たちとか…」
姐御さんは繊細微妙な流線に被覆された指で先ず壁のコロニーを指し、次いでくるり、虚空に小さな輪を描きます。
「新しい家に、どうやって連れてくんだ?」
うおおっ! 宇宙の果てまでが輝く白に飲まれていきます、あらゆる表面、あらゆる内部、夫との閨でのメモリーすらも、全空間・全時間を貫き遍く照らす、そは。そはっ…
「まさに真理の光、といったところですね…」
「なんだな…」
…リンちゃん。小動物。いきなり口述対象にならないでくださるかしら。
「お前、もしかして何も考えて…」
「みなさん」
風ちゃんはもう完全な上の空です。みなさんと言いつつ、目は明らかに誰も捉えてはいません。
「今から緊急家族会議を行います!」
風ちゃんはとにかく急を告げたのです、そしてそれがまだ谺となって残っている内にはもう、お部屋からは動ける者の殆どが、人の姿も四つ足も、その他なんだか良く分からない姿の連中も含め、ぴうっと風を巻いて消えていたのです。あれちょっと待て、なんで家族ではない姐御さんの姿まで。そんな懸念に心を煩わせていると、ようやく風ちゃんの残した谺が空の彼方へ上っていくようです。後には
「うっ。ふっ。はうあっ」
女神様の仙境に遊ぶ孤声が、ただただ響き続けます。




