第7話:里散策ー1
毛布からはい出した僕は、お腹の「ぐぅ」という小さな音に気がついた。そういえば、昨日の夜から何も食べていない。
カイルは「あはは、アレン、お腹空いちゃったね。食堂に行こうか!」と僕をひょいと抱き上げ、部屋を出た。
里の大きな食堂に入ると、美味しそうなスープの匂いが鼻をくすぐる。
だけど、広々とした食堂の真ん中の席に、ひどく不機嫌そうな顔で座っている男がいた。
ボサボサの髪に、目の下にひどいクマを作ったその男――薬師のネフェルは、僕たちが部屋に入ってきた瞬間、じろりと鋭い目を向けてきた。
(……なにあいつ。すごく目つきが悪くて、嫌な気配。敵かもしれない)
僕はすかさずカイルの首元にしがみつき、カイルの影からネフェルをジロジロと睨み返した。カイル以外は誰も信用していないから、絶対に近づきたくない。
カイルは苦笑いしながら「よお、ネフェル。朝早くからどうしたんだよ」と声をかける。
ネフェルはフンと鼻を鳴らし、手元の冷めたお茶をすすった。
「お前が夜中に僕の睡眠を邪魔したからに決まっているだろう、バカカイル。……おい、そこの生意気なちびっ子。こっちへ来い。診察だ。」
診察、という言葉に僕はピクッと体をこわばらせた。
奴隷商人の地下室で、無理やりお薬を飲まされたり、体を調べられたりした嫌な記憶が頭をよぎる。
僕は全力で首を横に振り、カイルの背中に完全に引きこもった。
そして、いつもの癖でガリガリとノートに文字を書く。
『カイル。あいつは目つきが怪しいやつだ。ぼくの体をバラバラにする気かもしれない。絶対に近づかない。お前があいつを追い出せ』
脳内でも『 カイルのバカ! ぼくをあんな怖い人に渡さないで! 絶交するぞ! 』と、大パニックで叫んでいた。
カイルは僕のノートを見て、「あはは! 大丈夫だよアレン様、ネフェルは口は悪いけど、すっごく腕のいいお医者さんなんだから!」となだめるけれど、僕は絶対にカイルの手を離さない。
すると、ネフェルはため息をついて立ち上がり、僕たちの前にゆっくりと歩み寄ってきた。
そして、僕と同じ目線になるようにその場にしゃがみ込む。
ネフェルは僕に触ろうとはせず、ただじっと、僕の瞳の奥を見つめてきた。
言葉は一言も発しない。だけど、その鋭い瞳は、僕が耳が聞こえなくて声が出せない原因が「肉体の傷」ではなく、「心の奥の深い傷」のせいだと、すべてを見抜いているようだった。
声を使わない、目と目だけの静かな探り合い。
(……この人、ぼくをトカゲ族だって笑わない。かわいそうだとも思ってない。ただ、ぼくの『中身』を見てる……?)
ネフェルはしばらく僕を睨みつけた後、フッと意地悪そうに口元を歪めた。
「ふん……。なるほどな。言葉を一言も信用していない、ひねくれた面だ。だが、お前がそのノートにどれだけ悪口を書き殴ろうが、僕には関係ない。僕は僕の仕事をするだけだ。」
ネフェルは懐から、ちいさな丸薬が入った瓶をポンと机に置いた。
「魂の疲れを吸い取る薬だ。スープに混ぜて飲め。……おいカイル、このちびっ子は思った以上に頑固で生意気だ。僕のお気に入りリストの最下位に登録してやる。」
「あはは、ネフェルなりの合格点が出たみたいだね!」とカイルが笑う。
ネフェルは「フン」とそっぽを向いて自分の席に戻っていった。
言葉は使わなかったけれど、あのお医者さんは、僕の「枷」を無理やりこじ開けようとはしなかった。
僕はカイルの服をツンツンと引っ張った。
『 ……あいつは態度が大きくて変なやつだ。でも、ぼくを無理やり触らなかったのは、少しだけ許してあげる 』
脳内で少しだけホッとした声を響かせながら、僕はカイルが差し出してくれた温かいスープを、こっそりと一口すするのだった。
◇◇◇
温かいスープをお腹いっぱい飲んで一息ついていると、食堂の入り口から「アレン様、お食事は口に合いましたか?」と、シラヌイおばあちゃんが優しく歩み寄ってきた。
僕はすぐにスプーンを置いて、カイルの背中へするりと避難する。カイル以外はまだ信じていないから、一歩引いてじっと観察するのだ。
シラヌイおばあちゃんは僕が逃げても怒るどころか、
「まあ、よく懐いて。カイル、アレン様を落とさないようにしっかりおんぶしなさい」とふんわり微笑んだ。
「お腹が満たされたら、里を少し案内しましょうね。これから暮らす場所ですもの。」
カイルが「はーい!」と僕を器用におんぶし直す。
僕はカイルの肩に顎を乗せて、ノートとペンを握りしめながら、カイルの背中という絶対に安全な特等席から里の様子を観察することにした。
食堂を出ると、眩しい朝の光が里全体を照らしていた。
ぐるりと見渡す限りの漆黒の険しい山脈。その内側に広がる里は、思っていたよりもずっと広くて、緑や綺麗な水がたくさんあった。
(……人間たちのいた町とは、全然ちがう。冷たい檻も、トゲトゲした鞭を持った奴隷商人もいない)
歩いていると、里のあちこちで農作業をしたり、武器を磨いたりしている竜族の人たちとすれ違う。みんな、カイルにおんぶされている僕を見つけると、作業を止めて、胸に手を当てて深くお辞儀をしてくれた。
その目は、奴隷商人たちみたいな「汚い欲」や「いたぶるような悪意」じゃなくて、なんだかとても温かくて、僕の帰りを心から喜んでいるみたいに見えた。
『 カイル。みんながぼくにお辞儀をする。ぼくはただのトカゲ族なのに、みんな頭がおかしくなって、非合理的だ 』
脳内でカイルに話しかけながら、僕の手元はやっぱりガリガリと動いている。
ノートに『みんながぼくに頭を下げる。ぼくはただのトカゲ族。カイル、みんなにやめさせて』と、戸惑いを隠せないまま一生懸命に書き殴っていた。
カイルは歩きながら、頭の中でそっと優しく笑った。
『 アレン様。みんなね、アレン様が帰ってきてくれて本当に嬉しいんだよ。それに、アレンはトカゲ族なんかじゃない。世界で一番気高くて、みんながずーっと待っていた、俺たちの未来なんだから 』
カイルのいつになく真面目で温かい声が、頭の中に響く。隣を歩くシラヌイおばあちゃんも、僕がノートに書いた文字を優しく覗き込むと、僕の小さな頭をそっと撫でてくれた。
「アレン様。誰がなんと言おうと、ここはあなたの家です。もう誰も、あなたを傷つけたり、出来損ないなどと呼んだりさせはしません。ここでゆっくり、大きくなりなさい。」
(ぼくの……家……)
おばあちゃんの言葉に、僕はまた気恥ずかしくなって、顔を真っ赤にしながらペチィィィン!!と勢いよくノートを閉じた。そして、カイルの首元にギュウウッと顔をうずめて隠れてしまう。
『 ……ふん。カイルもおばあちゃんも、大げさだぞ。ぼくはただ、生存確率の高い安全な場所にいたいだけだ。ばか 』
脳内では思いきりツンツンと言い返してみせたけれど、カイルの背中のあたたかさと、里を吹き抜ける優しい風が、僕の強張っていた心を少しずつ、本当に少しずつ、ほぐしていくのだった。




