第5話:薬師ネフェル
「……アレン様、もう大丈夫。お部屋に行こうね。」
カイルは凍りついたままの大人たちに背を向けると、僕をすっぽりと抱え込んだまま、大きな足取りで歩きだした。
レイラやエルザが何か言いたそうに手を伸ばしかけたけれど、カイルはそれすら無視して、里の奥にある静かな一角へと進んでいく。
長い廊下を通りぬけて、カイルがどっしりとした木製の扉を背中で閉めると、カチャリと静かな鍵の音が響いた。
そこは、驚くほど広くて、どこか懐かしい木の匂いがする部屋だった。
ふかふかの大きなベッドと、暖炉の中でパチパチと爆ぜる小さな火。人間たちの薄暗い地下室とは真逆の、あたたかくて安全な場所。
カイルは僕をベッドにそっと下ろすと、ようやく自分の首からマフラーを外した。
そこには、ドクドクと脈打つ黒い「守護竜の紋章」がはっきりと刻まれている。
(……やっと、ふたりきりだ)
張り詰めていたあたまの糸が、ストンと切れたみたいに軽くなる。
僕はベッドの端っこに座って、小さくふぅ、と息を吐き出した。
『 アレン様、本当にごめんね。怖かったよね。俺、疑われたとき、心臓が止まるかと思った…… 』
カイルがベッドの横に座り込んで、あたまの中に情けない声を響かせる。さっき大人たちを黙らせた一族最強の男はどこへ行ったのか、今のカイルは完全に捨てられた犬みたいな顔をしていた。
僕はそんなカイルの顔をじっと見つめて、また手元のノートをひらいた。
そして、ガリガリと静かにペンを走らせる。
『 カイル。ぼくはパニックになってた。お前がぼくを裏切るわけがない。ぼくの『盾』なんだから。だから、お前もそんなに泣きそうな顔をするな。みっともない 』
脳内でそう語りかけながら、ノートにもまったく同じ文字を一生懸命に書き殴っていた。
カイルは僕のノートを盗み見ると、一瞬きょとんとした後、やっぱり嬉しそうに顔をふにゃりと緩めた。
2人きりの空間。公の場の「アレン様」ではなく、カイルは愛おしそうに僕の名前を呼ぶ。
「あはは、アレンってば、頭の中で直接話してくれてるのに、やっぱりノートにも書いちゃうんだね。……でも、ありがとう。俺を信じてくれて。」
カイルがそっと手を伸ばし、僕の小さな頭を優しく撫でる。
僕はハッとして、またやってしまったというように耳を少し赤くし、ペチィィィン!!と勢いよくノートを閉じた。そして、プイッと暖炉のほうを向いて、小さな体を毛布の中に潜り込ませる。
『 ……癖だと言っている。あと、長旅でつかれた。ぼくはもう眠る。静かにしろ、カイル! 』
脳内の声は少し拗ねたように尖っている。
カイルは「おやすみ、アレン。いい夢見てね」と頭の中で優しく囁くと、僕が完全に眠るまで、その大きな手で背中をトントンと優しく叩き続けてくれるのだった。
◇◇◇
アレンがすやすやと小さな寝息を立て始めると、カイルはそっと毛布をかけ直し、静かに立ち上がった。
部屋の隅にある小さな呼び出し用の魔導鈴を一度だけ鳴らす。
数分後、部屋の鍵が音もなく開き、一人の男が滑り込んできた。
ボサボサの髪に、ひどく不機嫌そうな目つき。秘境の薬師であり、魂の傷を癒やす影のスペシャリスト――ネフェルだった。
「おいカイル。主を救い出して早々、夜中に呼び出すとはいい度胸だな。僕の睡眠時間を奪った罪は重いぞ。」
「ごめんって、ネフェル。でも、お前にしか相談できないんだ……アレン様のことなんだけどさ。」
カイルは声を極限まで潜め、ベッドで眠る小さなアレンを見つめた。
ネフェルは呆れたようにため息をつきながらも、ベッドに近づき、アレンの顔をじっと観察する。その偏屈な瞳が、アレンの肉体と魂に刻まれた見えない傷を鋭く見抜いていく。
「ふん……。肉体的な異常は一切ないな。耳も声帯も完璧に機能している。完全に心因性の呪縛――トラウマってやつだ。」
「やっぱりか……。さっき里の入り口でシラヌイおばあちゃんたちに耳と声のことを指摘されたとき、アレン様、ものすごいパニックになっちゃってさ。」
カイルは胸を締め付けられるような顔で、首のマフラーを握りしめた。
「アレン様、頭の中で俺に言ったんだ。『ぼくは神様じゃない。ただの耳も聞こえなくて声も出ない、出来損ないのトカゲ族だ。奴隷商人がいつもそう言っていた』って。ノートにもそう書き殴ってた。あの子、あのクソ奴隷商人どもに植え付けられた嘘を、本気で信じ込まされてるんだよ……!」
カイルの拳が、怒りでみしみしと音を立てる。
ネフェルはフンと鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「なるほどな。卵の時からのストレス、そして孵化してからの虐待か。他人の言葉をそのまま本質として受け入れるしかない幼少期に、そんな呪いをかけられりゃあ、防衛本能で認知が歪むのも当然だ。自分を『出来損ないのトカゲ』だと思い込むことで、それ以上の期待や絶望から心を護ろうとしたんだろうよ。」
「治せるか、ネフェル? 俺、アレン様に自分がどれだけ綺麗で特別な存在なのか、ちゃんと教えてあげたいんだ。」
必死にすがるようなカイルの目を、ネフェルは冷ややかに一蹴する。
「勘違いするなよ、カイル。これは薬を飲ませて『はい、治りました』で済むような生易しい傷じゃない。他人の言葉を一切信用していないあのちびっ子が、自分の意志でその歪みを正し、世界を受け入れようとしない限り、枷は外れん。」
ネフェルはベッドの横の机に置かれた、アレンの小さなノートをチラリと見た。
そこには、掠れた文字で『みんな敵だ』『カイルの裏切り者』と書かれ、その後に『お前は過保護で行き過ぎだ。でも、バカにされなかったのは、わるくない』と不器用に書き直された跡があった。
「だが……言葉も使わず、ただ瞳だけで他人を値踏みするあのひねくれた生存本能は、嫌いじゃない。あのちびっ子は、お前という『盾』のことは、魂のレベルで信じているようだ。」
「……うん。俺には、頭の中でめちゃくちゃ悪口言ってくれるんだ。ノートに同じこと書きながら」
「ハッ、お前にだけはそんなに雄弁なのか。傑作だな?」
ネフェルは意地悪くニヤリと笑うと、懐から小さな薬瓶を取り出して机に置いた。
「とりあえず、魂の摩耗を抑える薬だ。明日から僕も定期的にあのちびっ子を診る。お前がそのクソ重い過保護さで、あのちびっ子の安全圏を維持してやれ。心が完全に安全だと理解できれば、成人の儀を迎える20歳までには、自分の意志でその枷をぶち壊すさ。」
「ありがとな、ネフェル」とカイルが微笑むと、ネフェルは「恩に着るなら二度と夜中に呼ぶな」と吐き捨て、また音もなく部屋から去っていった。
カイルはもう一度ベッドサイドに戻り、アレンの小さな手をそっと握る。
(出来損ないなんかじゃない。アレン、お前は俺の、世界でたった一人の神様なんだからね)
カイルのそんな静かな誓いが、暖炉の光に包まれた部屋を優しく満たしていくのだった。




