第2話:生存確率0%からの逆転
世界を隔てる雲の海を、真っ黒な羽が切り裂いていく。あの怖い人間たちがいた地下室は、もう見えなくなるくらい遠くだ。
夜の冷たい風が、僕の小さな体を何度も強く叩く。耳が聞こえない僕にとって、このお空の上はただ強い風がぶつかってくるだけの、静かで何も無い場所だった。
ーーカイル・エクリプス。
僕を落とさないように抱っこして、すごい速さで飛んでいるこのお兄さんは、ときどき僕の顔を見て、大袈裟に口を動かしてくる。
「アレン様、風寒くない? 痛いところない? 大丈夫? 俺の飛行、ちょっとスピード出しすぎ?」
心配性なお兄さんだ。
さっきまで人間たちをへらへら笑いながらボコボコにしていた「黒い竜」とは、全然違う。
僕は冷めた目でその唇を見てから、抱っこされたまま、片手で上着のポケットからノートとペンを取り出した。文字を書いて、カイルの目の前に突き出す。
『うるさい。それより、後ろから変な光が3つ追いかけてくる。大きな乗り物。もうすぐ追いつかれる。』
「げっ、バレてた!?」
カイルは目を見開いてびっくりしていた。
音が聞こえなくても、お空を流れる空気がチクチクと肌を刺すような嫌な感じがすれば、後ろに何かがいることくらい僕にはすぐにわかる。
「いやー、アレン様ってば感覚が鋭すぎ! 俺、守護竜として形無しなんだけどな〜。――ま、いいや。よっと」
カイルは後ろを振り返りもしない。
ただ、空いている左手の指先を、右の後ろに向けてパチンと鳴らした。
軽い指折りの仕草。それだけだった。
なのに、次の瞬間、遥か後ろの雲が「真っ黒な炎」によって一瞬で吹き飛んだ。カイルが飛ばした見えない弾丸が、雲の向こうに隠れていた人間たちの乗り物を、正確に撃ち落としたのだ。
体でわかる。カイルの出す力は、さっきの地下室で見たものより、もっと濃くて、強い。
やっぱり、このお兄さんは世界一強い。
だけど――。
(……おかしい。空気の震え方が、妙に変だ)
後ろのやつらをやっつけた。そんなことで安心するほど、僕は甘くない。
お肌を刺す、変なピリピリ。僕の感覚が、前の方に「嫌な静けさ」を感じ取っていた。
『カイル、止まって。前が――』
僕がノートに文字を書き殴ろうとした、その瞬間だった。
グにゃり、と。
夜空に浮かぶ丸くて綺麗な月が、変な形に捻じ曲がった。
瞬間、僕たちを包んでいた夜空の景色が、まるでガラスの破片みたいにバリバリと割れて、全く別の、四角い箱の中みたいな空間に変わってしまった。
「おっとぉ……?」
カイルが空中でおっとっと、と急に止まった。
周りを見渡すと、上下も右も左も、紫色の半透明な壁に囲まれている。雲も、お月様も、全部消えてしまった。
すると、紫色の壁がパカッと開いて、変な模様の光の輪がいくつも浮かび上がった。
そこから現れたのは、綺麗な服を着た、三十人以上の人間たちだった。
彼らは中央に浮かぶ僕たちを囲んで、嫌な笑みを浮かべて口を動かす。
「かかったな、黒竜の化け物め!」
「この結界の内側では、あらゆる竜族の魔力は強制的に霧散し、肉体強度は人間と同等まで引き下げられる! ここではただの案山子だ!」
難しい言葉はわからないけれど、口の動きを見れば、彼らが僕たちを「ここで殺す」と言っていることくらいははっきりと分かった。
(カイルの力が、どんどん小さくなっていく……)
ぴったりくっついているから、よくわかる。僕をあたたかく包んでいたカイルの魔力が、この紫色の箱のせいで、外側から無理やり削り取られている。
それなのに、まわりの人間たちの光の輪には、僕たちを一瞬で灰にしてしまいそうな、ものすごく怖いエネルギーが溜まっていく。
「あーあ。これだから人間って嫌いなんだよね。姑息というか、クドいというかさぁ。」
カイルはため息をつきながら、いつもの調子でヘラヘラと笑ってみせる。
だけど、カイルのおでこには、うっすらと汗が滲んでいた。体が思うように動いていないのは、見ていればわかる。
人間たちが手を掲げる。発動まで、あと数秒。
カイルが僕をさらに強くギューッと抱きしめて、自分の背中で全ての攻撃を受け止める形になった。
(……バカか、この男は)
カイルが壊れたら、そのあと僕も死ぬ。生き残るためには、ここで二人とも無傷で切り抜けるのが一番いい。
僕はカイルの左の手のひらに、自分の小さな指先を押し当てた。
難しい術の知識なんて、僕にはない。
だけど、ずっと音のない世界でじっと周りを見て生きてきたからこそ、僕の目には「形」として視えていた。
あの半透明の紫色の壁。そこを流れる光の川の中に、一箇所だけ、流れがぐちゃぐちゃに渦巻いて『ペラペラに薄くなっている隙間』がある。
トントン。
僕はカイルの手のひらを、指先で叩いた。
『僕の指の方向に、お前の力を全部集めて。右の下の方、あの光の川が渦巻いているところ』
「――え?」
カイルの身体が一瞬、ガチッと硬直した。
僕が、何をしているのか分からなくてびっくりしたんだろう。
だけど、カイルは、僕を一瞬も疑わずに信じた。
『カイル、あそこの壁が一番薄い。力任せに殴るんじゃなくて、針でチクッと刺すみたいに、お前の残った力を全部あそこだけに突き通して』
まわりの人間たちの手から、まばゆい閃光が放たれた。すべてを吹き飛ばす光の束が、僕たちを目がけて殺到する。
その直前、カイルは不敵に、最高に楽しそうに口の端を上げた。
「――了解、我が主様!」
カイルが残された僅かな力を、僕の指し示した「右下の隙間」の一点へと集中させた。
力任せにばら撒くのではない。一級品の器用さを持つカイルだからこそできる、的確な一撃。
ドガアアアアアアアアアン!!!!
カイルの力がその隙間に触れた瞬間、紫色の箱全体がバリバリと音を立てて狂い始めた。
人間たちが放った光の束が、壊れた箱のシステムに巻き込まれ、発動した本人たちの方へと完全に「逆流」したのだ。
「な……結界が、壊れ――ぎゃあああああああ!?」
大爆発。
三十人以上の人間たちが、自分たちの放った光に焼き尽くされ、次々と夜空の塵へと変わっていく。
強固だった紫色の箱が、粉々に砕け散った。
再び、僕たちの視界に満月の光と、本物の夜空が戻ってくる。
凄まじい爆風が周囲を吹き荒れる。
だけど、不思議と、僕の身体には風の冷たさ以外の衝撃は何も届かなかった。
『っ……、あっぶねー……。あはは、死ぬかと思ったわ。』
カイルの声が、僕の脳裏に響く。
僕は見ていた。
カイルが、爆発の衝撃から僕を完全に庇うため、自分の大きな黒い翼と背中で、すべての爆風を受け止めていたことを。
彼の衣服は破れ、黒い鱗からは少し血が出ている。
それでも、男は僕を抱きかかえたまま、何事もなかったかのようにヘラヘラと笑い、再び前を向いて翼を羽ばたかせた。
(……カイルは)
僕はノートに、静かに文字を書き込んだ。
『カイル。お前はただ暴れるだけのバカではないな。僕の言った通りに力を動かすのが、すごく上手い』
カイルは僕のノートを盗み見ると、「へへ、褒められちゃった」と嬉しそうに口を動かす。
僕は心の中で、彼への評価を書き換えていた。
カイル・エクリプス。
彼はただの強力な「武器」じゃない。
主である僕を命がけで守る、絶対の「盾」であり――僕の『目(観察眼)』と噛み合うことで、生存確率をどこまでも引き上げる最高の「相棒」だ。
(悪くない。カイルとなら――)
夜空の向こう、人間たちの領域の果てに、漆黒の険しい山脈が見えてきた。
竜族の隠れ里、「黒竜の秘境」。
僕たちの旅の、本当の拠点が、すぐそこに迫っていた。




