第15話 新たな旅へ
歓迎祭の翌朝、賑やかさが嘘のように、カイルの部屋には再び静かな光が差し込んでいた。
僕はベッドの上で、昨日の楽しかったお祭りの余韻をちいさな頭のなかで反芻しながら、ガイエン長老が新しく届けてくれたピカピカの虹色リンゴをモグモグと食べていた。
カイルは僕の隣で、器用にリンゴを剥きながら「アレン、昨日は楽しかった?」と聞いてくる。
そのとき、部屋の扉がカチャリと開いて、ボサボサの髪の毛をした不機嫌そうな男がのそりと入ってきた。薬師のネフェル先生だ。
「おい、ちびっ子。お祭り騒ぎで浮ついているところを悪いが、診察の時間だ。」
ネフェル先生は椅子にドカッと腰掛けると、手元にある古い医学書を机に放り出した。カイルが「よおネフェル、朝からどうしたんだよ」と聞くと、先生は僕をじろりと睨みつける。
僕はすかさず毛布を顎まで引き上げて、冷たい目で睨み返した。また変なお薬を飲まされるかもしれないから警戒は解かないぞ。
しかし、ネフェル先生は僕に触ろうとはせず、ただじっと、僕の瞳の奥を見つめてきた。言葉を一切使わない、いつもの静かな目と目の探り合い。
(……なにあいつ。今日も目つきが悪いぞ)
そう思いながら僕がノートに文字を書こうとした瞬間、ネフェル先生はフンと鼻を鳴らして、机の上の医学書の一ページを指差した。
「カイル。このちびっ子の『失聴・失声の枷』だがな。やはり里に引きこもって僕の特効薬を飲んでいるだけでは、これ以上は治らん。」
「えっ、どういうことだよネフェル!?」
カイルがへらへら顔を消して、身を乗り出す。
「魂に深く刻まれた恐怖の呪縛を完全に解きほぐすには、精神を安定させるだけでは足りない。魂の傷そのものを直接洗い流す、伝説の霊薬――『神天の雫』が必要だ。」
「それって、どこにあるんだよ!?」
ネフェル先生は僕の目をまっすぐに見つめたまま、静かに口を動かした。
「外の世界……水竜の王国『アクア・ルミナ』の最深部、女王セレニティが管理する聖なる泉の底だ。」
(水竜の王国……。シラヌイおばあちゃんが言っていた、綺麗な海の国……)
ネフェル先生の言葉に、僕の心臓がドクンと小さく跳ね上がった。暗くて冷たい地下室からやっと逃げ出せたばかりなのに、もうこの安全な秘境を出て「外の世界」へ行かなければならないなんて。
僕は大パニックになって、いそいでノートに文字をガリガリと書き殴った。
『ネフェル。お前の言っていることはきわめて非合理的だ。お外の世界には、ぼくを狙う悪い人間たちの組織がいるってカイルが言っていた。そんな危険な場所に行くなんて、生存確率の計算として完全に間違っている。ぼくは絶対に行かない!』
念話で『 カイルのばか! ぼくをお外の怖い場所に連れて行かないで! 絶交するぞ! 』と、涙目で大音量の悲鳴をカイルに響かせる。
カイルは僕のノートを見ると、きゅっと胸を痛めるように目を細め、僕の小さな体を壊れないようにぎゅーーーっと優しく抱きしめてくれた。
カイルは頭のなかで、世界で一番優しくて力強い声を響かせてくれる。
『 アレン。大丈夫だよ、怖がらせてごめんね。でもね、俺が言っただろ? 俺はアレンの絶対に壊れない『盾』なんだ。お外の世界にどんなに悪いやつらがいたって、アレンの指先一本、髪の毛一筋だって触れさせない。……それにね、俺、アレンに自分の声で『カイル』って呼んでほしいんだ。アレンの可愛い声を、この耳でちゃんと聞いてみたいんだよ 』
カイルのあたまの中に響く声は、少しだけ涙声になっていて、ものすごく温かかった。
僕の耳と声を治したいのは、僕のためだけじゃない。カイルが、僕のことを心の底から想ってくれているからなんだ。
ネフェル先生も、僕がノートを握りしめて震えているのを見て、フッと意地悪そうに口元を歪めた。
「ふん、相変わらずひねくれた臆病面だな。だが安心しろ、お前がどれだけカイルの後ろに隠れて泣こうが、僕も一緒に行ってやる。僕の医学的知見の最高峰を完成させるためだ。お前を途中で死なせたら、僕の睡眠時間が完全に無駄になるからな。」
ネフェル先生なりの、不器用でひねくれた「一緒に行って守ってやる」という言葉。
(……このお医者さん、やっぱり態度が生意気だけど。……でも、ぼくを置いていかないのは、少しだけ評価してあげてもいい)
僕はカイルの胸の中に深く顔をうずめた。
『 ……ふん。カイルもネフェルもお節介で非合理的だ。……でも、カイルが絶対にぼくを守るって約束して、ネフェルが美味しいお薬をいっぱいつくってくれるなら、お外の海の国に、お掃除の遠征に行ってあげてもいいぞ、ばか 』
「よしっ! じゃあ、初めての『お外の世界への大冒険』の準備をはじめようか、アレン!」
カイルはそう叫ぶと僕を優しく抱き上げるのだった。
こうして、耳の聞こえない声の出せない6歳の幼子と、一族最強の過保護な黒竜、そして偏屈な天才薬師による、世界を揺るがす「初めての旅」の計画が、静かに、でも確かに動き出すのだった。




