幕間 怠惰な竜と殻の中の泣き虫
黒竜の秘境の最奥。その運命の出逢いは一般の竜族の立ち入りが厳重に禁じられた「神天の聖祠」の裏手にある、日の当たる岩場でした。
当時93歳のカイルは、竜族としては成体になったばかりの若者でありながら、里の鼻つまみ者で、「一族最強の戦士」と謳われた先代黒竜ゲイルの遠縁でありながら、訓練はサボる、狩りは最低限しかしない、暇さえあれば日向ぼっこをして寝て過ごす、怠惰な生活を送っていた。
彼にとって、人生のモットーは「絶対に頑張らない、ニートとして天寿を全うする」それだけでした。
「あーあ。早く誰か親戚の強力なやつが次の守護竜になって、一族の安全を保障してくんねえかなぁ。ヴォルクリスの兄貴あたりが名乗りを上げてるし、俺は一生その日暮らしの居候でいいや……」
カイルは岩場に寝そべり、退屈な欠伸を噛み殺していました。
その時です。
「――おや、カイル。またそんなところで油を売っているのか?」
低く厳格な、しかしどこか不器用な優しさを孕んだ声。カイルが最も煙たがっている男――先代最高神の唯一の番であり、一族の英雄であるゲイルが、そこに立っていました。
「あ、ゲイルさん。ちがいますよ、これは油を売ってるんじゃなくて、光合成です。竜族の新しいエネルギー効率の研究ですよ?」
「相変わらず減らず口だけは一丁前だな。」
ゲイルは呆れたように息を吐きましたが、その巨躯の腕には、布に包まれた「一つの大きな卵」が大切に抱えられていました。
白磁のように美しい殻の表面に、かすかに透明な光の紋様が脈打っている――最高神「白竜」と守護竜「黒竜」の間に産まれたばかりの、次代の後継者。
「……へえ。それが噂の、最高神と黒竜とのハイブリッドですか。」
カイルは首を傾げ、半ば他人事のようにそれを見つめました。
本来なら、ひれ伏して拝むべき至高の存在。ですが、カイルにとってゲイルがあまりにも眩しく立派すぎる英雄だったため、その子供に対しても「どうせ俺とは住む世界が違う偉いお方になるんだろう」と、ヘラヘラ笑って距離を置こうとしたのです。
ゲイルは、カイルの瞳の奥にある「世界のすべてに対する諦念」を苦々しく思いながらも、不器用に卵を差し出しました。
「お前は魔力だけなら、里の誰よりも卓越している。……一度、触れてみるといい。次代の主の息吹を感じれば、お前のその冷めた魂も、少しは奮起するかもしれん。」
「いやいや、滅相もない。俺の怠け癖が移ったら神界の偉い人たちに怒られちゃいますから――」
カイルが苦笑しながら、断りの手を差し出した、その時でした。
ほんの偶然、避けるために出したカイルの指先が、白い卵の殻に「ちり、」と掠めるように触れたのです。
――その瞬間、世界からすべての音が消え去りました。
カイルの脳内に、暴力的なまでの純粋な魔力と、凄まじい密度の「感情」が直接流れ込んできたのです。
『(――みつけて)』
「……っ!?」
カイルは息を呑みました。声ではありません。脳の芯を直接揺らす、あまりにも鮮烈な【念話】。
それは、まだ言葉も知らないはずの、殻の向こう側の幼き魂からの、悲痛な叫びでした。
『(暗い。寒い。だれも、いない。みんな僕を「神の器」としか見ていない。僕のなまえを、中身を、誰も見てくれない――)』
まだ孵化すらしていない、世界の最高位に君臨するはずの神の卵。その内側で、幼い魂は、あまりの孤独と恐怖にボロボロになりながら、冷たく泣きじゃくっていたのです。
そして、卵の透明な魔力が、カイルの指先に吸い付くように絡みつきました。
『(おいていかないで。おねがい。僕を、みつけて――!)』
脳裏に響くその泣き声を聞いた瞬間、カイルの胸の奥で、ずっと澱のように溜まっていた「絶対的な孤独」と「世界への諦念」が、最悪の形でシンクロしました。
(ああ、なんだ――お前も、俺と同じか)
ある都会の片隅で、誰にも名前を呼ばれず、誰にも看取られずに擦り切れて死んでいった、あの冷たいワンルームの暗闇。
世界でたった一人、誰にも必要とされなかったカイルの絶望が、いま、この白い殻の中で凍えている幼子と完全に重なったのです。
カイルの中で、何かが完全に壊れ、そして「反転」しました。
(世界なんてどうでもいい。一族の未来も、神界の都合も、知ったことか)
(最高神? 違う。そんな大層な名前で、この子を縛るな)
「――この子は、俺だけのものだ!」
それまでヘラヘラと浮かべていた締まりのない笑みが、カイルの顔から完全に消え失せていました。
その瞳に宿ったのは、ぎらぎらとした、飢餓的で、狂気じみた「執愛」。
カイルから溢れ出た漆黒の魔力が、神聖な祠の空気をピキピキと凍らせていきます。そのあまりの変貌ぶりに、百戦錬磨のゲイルすらも驚愕して一歩身を引いたほどでした。
カイルは、己の腕にまとわりつく透明な魔力の波長を愛おしそうに見つめながら、静かに、しかし絶対のトーンで呟きました。
「ゲイルさん。……その卵を守る役目、俺がもらうわ。」
ゲイルは、一瞬だけ目を見張りました。カイルの瞳の奥にあるのが、忠誠心などという綺麗なものではなく、世界を滅ぼしかねないほどの「歪な独占欲」であることを見抜いたからです。
しかし、同時にゲイルは気づいていました。最高神を愛し、すべてを捨てて「異種の婚姻」を成し遂げた自分自身の血にも、全く同じ「狂気」が流れていることに。
ゲイルは怒るどころか、どこか安堵したように、ふっと優しく目を細めました。
「……やはり、お前だったか、カイル。」
これが、のちに神界を揺るがす「守護竜」となる男と、世界に祈ることをやめた「白竜」となるアレンの、あまりにも歪で、あまりにも美しい始まりの1ページでした。
新章突入に向けてプロット作成中のため更新停止してます。本作はカクヨム様にて連載移行中です。移行後はカクヨム様にて連載再開予定です。




