第九話:戦火の残滓と、敗走の男爵
地獄の業火が平原を焼き尽くし、硝煙が天を覆う中――オルティジア平原は、奇妙なまでの静寂に包まれていた。
帝国軍ギュンター中将が率いた重装甲兵三万。その威容はもはやどこにもない。大亀裂の底には、へし折れた鉄甲兵の鎧と、魔導多連装砲によって磨り潰された残骸だけが延々と転がっていた。
勝負は一瞬だった。数で勝るはずの帝国軍は、退路を断たれ、左右から面制圧され、正面から王国軍に突き刺され、ただの一兵もその実力を発揮することなく蹂躙されたのだ。
戦死者約二万、捕虜約七千
帝国史上類を見ない第敗北であった。
「……勝った。我が軍の、圧倒的大勝利だァァァーーーッ!!!」
沈黙を破り、王国軍兵士の一人が叫ぶと、それが引き金となったように地を震わせるほどの勝鬨が平原に響き渡り、兵たちが武器を掲げ、涙を流して互いの無事を喜び合っている。
だが。
その大歓声のはるか高台の上。
白馬の背に跨る俺――ラインは、ピクリとも動かず、冷え切った目で眼下の地獄絵図を見つめ続けていた。
(……うわあああああああ、本当に全員磨り潰しちゃったよ!! グロい! 生々しい! 怖い!! もう帰りたい!! 誰か俺を今すぐ馬から降ろしてくれぇぇぇ!!)
実際のところ、俺の内心はヘタレそのものだった。
連日の寝不足と胃痛、そして「ここでやらねば全員死ぬ」という極限のプレッシャーがもたらしたアドレナリンが、戦闘の終結とともに完全に切れたのだ。その結果、あまりの恐怖と極度の疲労により、全身の筋肉がガチガチに硬直。声も出ず、指一本動かせず、ただ馬の上で堂々と佇んでいるように『見えている』だけだった。
そんな俺の元へ、返り血を浴びたレオン、セシリア、レイラが歩み寄ってくる。彼らは、微動だにせず戦場を見下ろす俺の姿を見て、一斉にその場に膝を突いた。
「陛下……! 完璧なる盤面、見事な采配にございました。このレオン、陛下の深謀遠慮、生涯忘れることはございません!」
「ライン、恐ろしい男だね、君は」
「難しい事はわからんが、大勝利だなっ!」
レオンたちの賞賛の言葉が耳に突き刺さる。レオンは俺の手綱を握る手が小刻みに震えているのを見て、「勝利の後も一切油断せぬ、これぞ真の王の武者震……!」と勝手に目を潤ませていた。
違う、ただの貧血だ。
「……レオン。周辺の、状況は」
喉がカラカラに渇き、声を出すのがやっとだった。結果として、それは酷く低く、冷徹な響きを帯びて周囲に伝わる。
「ハッ。ギュンターの主力は壊滅させましたが……帝国軍がこれまでに蹂躙し、占領していた周辺領地の治安維持や民の救済、インフラの再平定には、少々時間を要する見込みです。何より、帝国が荒らした土地の復興には、じっくりと腰を据えねばなりません」
「……そうか。時間が、かかるか……」
「……それと、陛下。もう一つ、報告がございます」
レオンの顔が、怒りで僅かに歪んだ。
「城壁の上で帝国の壊滅を目撃した裏切り者、アルベルト男爵ですが……こちらの勝利が確定した瞬間、腰を抜かしながらも自分の領地を捨てて逃亡いたしました。手勢と敗残兵を率いて、かつて湖賊たちが根城にしていた天然の要害――『湖上の要塞島』へと立て籠もった模様です」
(ええ、男爵逃げたの!? めんどくさ!!!)
もう一回戦争のやり直しかよ、と俺は内心で頭を抱えた。だが、硬直した俺の顔は、冷たい無表情のまま動かない。俺はただ、男爵への怒りではなく、「あいつのせいでまた寝不足が続くのか」という絶望から、深い、深い溜息を一つ吐き出した。
「……放っておけ。今は、蹂躙された領地の平定が先だ」
男爵なんかどうでもいいから、まずは疲れた兵たちを休ませて、領民のケアをしろという意味だった。だが、レオンたちの目にはそれが、
『ネズミ一匹の逃亡など我が軍略の敵ではない。まずは大局を見て民を救うのが王の道だ』
という、底知れない器の大きさと冷徹な優先順位の付け方に映った。
「おお……! 裏切り者への私怨よりも、まずは民の安寧を優先されるとは! どこまで深い慈悲をお持ちなのか……! 直ちに再平定の段取りに取り掛かります!」
レオンが感激の面持ちで立ち上がり、兵たちへ指示を飛ばしに行く。
その時、俺の懐の魔導書簡が、ピピッという音と共に明滅した。王都の技官からの魔導通信だ。
『ライン陛下! 勝利の報、届いております! 素晴らしい、流石は私の主! 500基直列接続の過負荷により、王都の魔導炉が一部融解して大損害を出しましたが、陛下の覇道のためなら安いものです!』
(融解した!? 修理費いくらかかると思ってんだよ!!!)
俺は隣にいるアルテを睨む。
アルテは俺の視線に気付き、頬を染めながら、
「全て私の計算通りねフフッ褒めてくれてもいいんだよ?」
と、俺に擦り寄ってくる。俺はアルテの頭をげんこつでぐりぐりしながら言った。
「なら、今度は、サジタリアス=レイの修理代がお前の給料何ヶ月分か計算してもらおうか」
リアルに胃がキリキリと痛み出す。しかし、書簡の文字はまだ続いていた。
『なお、実験に付き合わされた技官ですが、陛下の手足となって歴史的偉業を成し遂げられたことに大号泣し、すっかり陛下の忠実な犬となっております。いつでも次の一撃の準備はできておりますので、何なりとご命令を!』
(あの技官、完全にアルテに洗脳されてるじゃねえか!!)
王都の身内が勝手に狂信を深めていく事実に、俺は馬の上でいよいよ目眩を覚えた。
◇
同じ頃。オルティジア島の北方に位置する無人島。その中心にそびえ立つ、切り立った岩壁に囲まれた「湖上の要塞島」の玉座の間で、アルベルト男爵はガタガタと歯を鳴らしていた。
「ひぃ、ひぃぃ……! 嘘だ、嘘だろ!? 帝国の三万が、たった一瞬で消滅しただと……!? 百万イルも離れた王都から光を降らせるなど、そんなもの人間業ではない……! ライン、あの化け物め……!」
男爵は爪を噛み、血がにじむほどの恐怖に狂っていた。もやしっ子という情報はすべて、敵を油断させて一網打尽にするためにラインが流した罠だったのだと、彼は完全に思い込んでいた。
「だが、ここなら安全だ! この要塞島は、かつて湖賊が立て籠もった天然の要害! 陸からの砲撃も届かんし、船で攻めようものなら返り討ちにしてくれるわ! ここに籠城していれば、いずれ帝国が本気を出してラインを――」
男爵は必死に自分に言い聞かせるように叫ぶ。
しかし、彼がどれほど強固な壁に引き籠もろうとも、大陸全土に広がる「恐怖」を止めることはできなかった。
この「オルティジア平原の戦い」の一報は、瞬く間に海を渡り、帝国本国、そして近隣諸国へと伝播していくことになる。
常識外の長距離戦略兵器の運用。数倍の敵を無傷で磨り潰す冷徹極まる包囲殲滅戦術。
聖王ライン。
その名はもはや、無力な神輿などではない。
『大陸で最も敵に回してはならない、冷徹なる怪物』として、世界そのものを震撼させ始めていた。
当の本人が、高台の上で「早くお粥食べて寝たい……」と本気で泣きそうになっていることなど、誰も知る由はなかった。




