爆誕、ラポルナセブン
シャルロッテがラポルナの領主館を訪ねてきたのは、昼過ぎのことだった。
「やあ、坊や。元気にしていたかい?」
「まあ、それなりにな」
俺は椅子に座ったまま答えた。
最近は野菜の収穫に商人の対応、さらにはジジイとの発展阻止作戦まで加わり、落ち着いて過ごせる時間がめっきり減っていた。
もっとも、ジジイとの作戦については、思い出すだけで頭が痛くなる。
あいつと組んだのが間違いだったのか。
いや、俺も賛成したのだから、文句を言う資格はないのだろう。
「ところで、今日は手土産を持ってきたんだよ」
「手土産?」
俺は少しだけ期待した。
商人のシャルロッテのことだ。何か珍しい食べ物でも持ってきたのかもしれない。
ところが、彼女が取り出したのは小さな薬瓶だった。
「はい、胃薬だよ。これ、好きだろ? 坊や」
「……またこれかよ!」
思わず声が出た。
胃薬。
俺は別に好きで飲んでるんじゃねえ…。切っても切れない腐れ縁。
そもそもはこいつらが…俺は平穏に暮らしたいだけなのに…
この村で胃薬を買えば、怪しい店主に値段を吊り上げられる。銀貨一枚だったものが三枚になり、五枚になり、果ては十枚などと言い出す始末だ。
しかも、効いているのかどうかも怪しい。
「おやおや。そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないか」
「胃薬を見て喜べる人間がいたら、ぜひ紹介してくれ」
「そうかい? カストリア王国で最近評判の薬師がいてね。数は少ないが、よく効くらしいよ」
「……何?」
俺は薬瓶を見た。
「本当に効くのか?」
「さあね。評判を聞いただけだから、保証はできないよ。ただ、腕のいい薬師らしいね」
「それを先に言え!」
俺はシャルロッテから薬瓶を受け取った。
嫌いなのは胃薬ではない。
効かない胃薬に大金を払わされることだ。
もし効くのなら話は別である。
「ありがとう、シャルロッテ。助かった」
「おや?」
シャルロッテが目を細めた。
「胃薬ひと瓶で、ずいぶん素直になるんだねえ」
「ひと瓶じゃない。効く胃薬だぞ」
「はいはい。可愛い坊やだこと」
シャルロッテは楽しそうに笑った。
俺は薬瓶を大事にしまい込む。
これで少しは胃の痛みから解放されるかもしれない。そう思った俺は、久しぶりに明るい気分になった。
だが、シャルロッテはそんな俺の様子を見て、ふと悪戯っぽく笑った。
「でもねえ、坊や。胃薬がそんなに嫌なら、私が癒してあげてもいいんだよ?」
「……は?」
意味を理解するより早く、シャルロッテが身を寄せてきた。
柔らかな胸が、俺の腕に押し当てられる。
さらに彼女は、唇を近づけてきた。
「ほら。薬よりも、ずっと効くかもしれないよ?」
「な、ななな……!」
顔が一気に熱くなった。
近い。
近すぎる。
吐息がかかる距離で、シャルロッテは楽しそうに俺を見つめている。
「どうしたんだい、坊や? 顔が真っ赤だよ」
「い、いや、これは、その……!」
胃の痛みどころではない。
心臓が、別の意味で激しく脈打っていた。
「ほら、恥ずかしがってないで力を抜いてごらん。私が優しく――」
「できるかー!」
俺は椅子を蹴るように立ち上がった。
そのまま、シャルロッテから逃げるように部屋の外へ飛び出す。
「おやおや。逃げるのかい?」
「逃げるに決まってるだろ!」
背後から、シャルロッテの楽しそうな笑い声が追いかけてくる。
俺は真っ赤になった顔を両手で覆いながら、村の中を走った。
胃薬は嫌いだ。
だが、シャルロッテの治療はもっと危険だった。
――その頃、村の広場では、別の騒動が始まっていた。
◇
「ソイヤッ! ソイヤッ! ヤーレン!」
太鼓が鳴り、笛の音が響く。
相変わらず、笛はピーヒャララと腰の力が抜けるような妙な音を立て、太鼓も微妙にずれていた。
それでも、村の女性たちは楽しそうに踊っている。収穫祭で始まった踊りは、いつの間にか村の日課になっていた。
畑仕事が終われば広場に集まり、みんなで踊る。
健康にもいいし、村人同士の交流にもなる。
まあ、本人たちが楽しんでいるのだから、俺としても文句はない。
問題があるとすれば、掛け声が大きすぎることくらいだ。
「ねえねえ!」
そんな広場で、ニナが声を上げた。
「踊るときに、歌もつけたらもっと楽しくならない?」
「歌かい?」
レイラが首を傾げる。
「うん! ウチが歌う!」
ニナは胸を張った。
そして、伴奏に合わせて歌い始めた。
「みんな、ノリよくいこー! ソイヤッ、ソイヤッ!」
明るく弾む歌声が、広場いっぱいに響き渡る。
その瞬間。
広場の空気が変わった。
伸びやかで、澄んだ歌声。
音程は正確で、声には不思議な力強さがある。
楽器の演奏は相変わらずだった。
笛は音を外し、太鼓は少し早く、鈴は遅れて鳴る。
なのに、ニナが歌うと、すべてが一つにまとまって聞こえた。
「ね、めっちゃいいっしょ? もっと声出してこー!」
ニナは歌いながら、楽しそうに手を振った。
それだけではない。
歌声が広がるたび、広場に漂っていた魔力の流れが、わずかに揺らいでいた。
風もないのに、足元の草が波打つ。
太鼓の音に合わせるように、空気が震える。
誰も気づかないほどの変化だったが、確かに何かが起きていた。
「……あら?」
踊っていた女性の一人が、思わず動きを止めた。
「ニナちゃん、歌が上手だねえ」
「マジ? やったー! ありがと!」
ニナは満面の笑みを浮かべた。
「まだまだいけるっしょ? もう一曲、いっちゃうよー!」
「もう一曲、歌っておくれよ!」
「もちろん! ウチ、歌うの大好きだし!」
ニナは嬉しそうに頷いた。
そのまま、もう一曲。
さらにもう一曲。
歌声が響くたび、広場の空気は不思議なほど穏やかになっていった。
疲れていたはずの女性たちの動きが軽くなる。
苛立っていた者の表情が和らぐ。
まるで、歌声が心と体をそっと整えているようだった。
「ほらほら、笑って笑って! せっかくなら、楽しく踊ろー!」
ニナの明るい声に、女性たちも歌に合わせて踊り方を工夫し始めた。
派手な振り付けはない。
無理な動きもしない。
年齢も体格も違うのだから、できる範囲で楽しく踊ればいい。
若い娘と呼べるのは、七歳のマールくらいしかいない村だ。
それでも、誰も気にしなかった。
「せっかくだから、名前をつけようじゃないか」
誰かが言った。
「名前?」
「そうさ。旅芸人だって一座の名前があるだろう?」
「じゃあ、ラポルナの名前をつけようよ!」
「七人いるんだから、ラポルナセブンでいいんじゃないかねえ」
「おお、分かりやすい!」
「ラポルナセブン? めっちゃよくない? ウチら、今日からそれね!」
ニナが両手を上げて喜ぶ。
こうして、あっさりと名前が決まった。
ラポルナセブン。
村の女性七人による、歌と踊りの集まりである。と言っても、ニナ以外の若い娘は7歳のマールだけ。
衣装は普段着を少し整えたもの。
練習場所は村の広場。
活動内容は、歌って踊って、みんなで楽しむこと。
ただし、歌い手だけは別格だった。
◇
「……なんじゃ、今のは」
広場から少し離れた場所で、ジジイが呟いた。
ニナが歌い始めた瞬間、彼は確かに感じ取っていた。
歌声に重なる魔力の流れが、微弱だが、間違いなく存在している。
いや、単に魔力が強いという話ではない。
声そのものが、周囲の魔力に干渉しているのだ。
しかも、先ほどの歌声には、以前とは違う性質があった。
魔力を揺さぶるだけではない。
周囲の人間の生命力や感情にまで、静かに作用している。
疲労を和らげ、心を落ち着かせ、場にいる者たちの力を引き出している。
「まさか……」
今の歌声を聞けば分かる。
ニナの歌は、ただ人を楽しませるだけのものではない。
魔力を動かし、生命を癒やし、眠っている力を呼び起こす。
その力が、どこまで成長するのかは分からない。
「この娘……自分の力を理解しておらぬのか?」
ニナは、そんなことなど知る由もなく、楽しそうに歌っている。
「ソイヤッ! ソイヤッ! みんな、もっと声出してこー! ヤーレン!」
女性たちが踊る。
マールが一生懸命に手を振る。
太鼓がずれる。
笛が音を外す。
それでも、ニナの歌声だけは澄み渡っていた。
その歌声に呼応するように、広場の中央に埋められた古い石が、ほんの一瞬だけ淡く光った。
誰も気づかなかった。
ただ、ジジイだけが見逃さなかった。
「……あの石まで反応したじゃと?」
ジジイは頭を抱えた。
「よりによって、こんなところに……」
ラポルナを栄えさせたくない。
余計な注目を集めたくない。
帝国に目をつけられるのも御免だ。
なのに、この村には、野菜だけでなく、とんでもない魔力を秘めた歌い手までいる。
しかも、その力はまだ目覚めたばかりなのかもしれない。
「……ラインに知らせるべきか」
しばらく考え、ジジイは首を振った。
「いや、待て。あやつに知らせたところで、面倒が増えるだけじゃ……」
そのとき、広場から歓声が上がった。
「ニナちゃん、すごい!」
「もう一曲やっておくれ!」
「今度のお祭りでも歌ってもらおうよ!」
「いいじゃん! ウチ、どこでも歌いに行くし!」
ジジイは顔を覆った。
「もう広まる気満々ではないかぁぁぁ!」
◇
それからしばらくして。
ラポルナセブンは、近隣の村のお祭りにも呼ばれるようになった。
もちろん、最初から大勢の観客が集まったわけではない。
村の広場の片隅で踊り、通りかかった人が足を止める。
ニナが歌い始めると、もう少し人が集まる。
そのうち、近隣の村でも噂になった。
ラポルナには、すごい歌い手がいる。
その歌声を聞けば、誰もが足を止める。
疲れた旅人が歌を聞けば、足取りが軽くなる。
傷ついた者が歌声を聞けば、痛みが和らぐ。
もちろん、誰もそれをニナの能力だとは知らなかった。
ただ、彼女の歌には不思議な力がある。
そう囁かれるようになった。
いつしかニナは、ラポルナの姫巫女と呼ばれるようになっていた。
「え、姫巫女? ウチが? マジで? めっちゃウケるんだけど!」
本人は、褒められて嬉しいだけだった。
村の女性たちは、踊りに誘ってもらえるのが嬉しいだけ。
ただ一人、ジジイだけが事態の深刻さを理解していた。
そして、当の俺はというと――。
「……この胃薬、本当に効くな」
薬瓶を手に、久しぶりに穏やかな午後を過ごしていた。
腹の具合が落ち着くと、気分まで軽くなる。
やはり、薬はこうでなくてはならない。
遠くから、聞き覚えのある掛け声が響いた。
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「……また何か始まったのか?」
窓の外を見る。
広場では、村の女性たちが楽しそうに踊っていた。
その中心で、ニナが歌っている。
周囲からは歓声まで上がっていた。
「ニナちゃん、素敵!」
「ラポルナの姫巫女様!」
「次は隣村のお祭りにも来ておくれよ!」
「いいよー! ウチら、どこでも盛り上げちゃうから!」
「…………」
俺は窓を閉めた。
今は胃薬が効いている。
余計なことを考えるのはやめよう。
俺は椅子に座り直し、静かに目を閉じた。
そのとき、遠くから届いたニナの歌声が、閉じた窓をすり抜けるように部屋へ入り込んできた。
不思議なことに、さっきまで残っていた胃の重苦しさが、さらに薄れていく。
「……気のせいか?」
俺は腹をさすった。
胃薬が効いたのだろう。
きっとそうに違いない。
だが、窓の外では、ニナの歌声に合わせるように、広場の古い石がまた淡く光っていた。
――俺の知らないところで、ラポルナの名声がまた一つ増えていた。
そして、ニナの力もまた、誰にも知られぬまま、少しずつ目を覚まし始めていた。
もちろん、俺はまだ何も知らない。
知りたくもなかった。




