館の先住者と、塩の試練
ラポルナでの新生活、その第一夜。
カビ臭い領主館に夜の静寂が満ちていく中、ラインは硬いベッドの上で仰向けになり、天井の木目をじっと見つめていた。
環境が変わったせいか、どうにも熟睡できそうにない。
(まあ、明日から急ぎの仕事があるわけでもない。焦って眠る必要もないか)
そう思い直して目を閉じかけた、まさにその時だった。
――ひひひ……。
廊下の暗がりから、何とも言えない締まりのない、ねっとりとした笑い声が聞こえてきた。
「……ん?」
ラインが半身を起こした瞬間――。
――バターン!!
「ちょっとお兄ちゃん!! 幽霊! 幽霊出たんだけどーーーっっ!!」
「無理……! お化けは本当に無理……っ!!」
激しい音とともにドアが蹴破られ、シルクのパジャマ姿のニナと、ネグリジェ姿のアルテが二人がかりでラインのベッドへ雪崩れ込んできた。
「ちょっと待て、二人とも落ち着け!」
「落ち着けるわけないじゃん! なんかフワフワ浮いてる怪しいジジイが出たのよ!?」
「もうやだ!私帰る!」
普段はクールなアルテが目尻に涙を浮かべ、なりふり構わずラインの腰にガチガチと抱きついている。
「ひひひ……騒がしいお姉ちゃん方じゃのう」
廊下の暗闇から、すーっと壁を通り抜けて姿を現したのは、全身が半透明に青白く光る一人の老人だった。
白い髭をたくわえ、古びた魔導士のローブを纏っているが、その目元は鼻の下をデレリと伸ばし、完全になまりきっている。
「いやぁ、まさかワシの屋敷に、こんなピチピチのお姉ちゃんが二人も引っ越してくるとは思わなかったのじゃ! 長生き……いや、死んでみるものじゃのう! ひひひ!」
「喋った……! オバケが喋ったよライン、早く浄化して……!」
アルテがラインの背中に顔をうずめてガタガタと震える。
「……おいジジイ。お前は何だ? ここは帝国の管理下にある領主館のはずだが」
ラインが呆れたように問いただすと、スケベ爺さんは半透明の首を捻った。
「ジジイとは失礼な! ワシはこれでも……これでも……うーむ? なんせ肉体が滅びてから長い年月が経ちすぎていて、自分の名前も、いつ死んだのかもサッパリ覚えておらんのじゃ! ひひひ!」
「覚えてないのに威張らないでよ!」
ニナがラインの肩越しに指をさして叫ぶ。
「……肉体が滅びてこの場所に固執してるってことは地縛霊なんだね……」
アルテがラインの陰から恐る恐るチラ見しながら、震える声で分析した。
「身に纏ってるローブの意匠はルニア王国黎明期の高階位魔導士のものだし、この館の魔力に魂が引き寄せられて残ってるんだわ。知識は凄そうだけど……でも透けて浮いてるのが生理的に無理すぎる。近寄らないで!」
「お、おいおい、そんなに嫌がらなくてもいいのじゃ……ワシはただ、可愛いお姉ちゃんたちを温かい目で見守りたいだけの心優しき地縛霊なのじゃ!」
「絶対スケベな目で見ようとしてる顔じゃん!」
ニナの鋭いツッコミが夜の館に響き渡った。
◇
翌朝。
朝の光がカビ臭い館に差し込む中、事件は起きた。
「――ちょっと待って。着替えようとしたら、なんか視線感じるんだけど……」
二階の寝室で、ニナがパジャマのボタンを外しかけた手を止め、天井の隅を睨みつけた。
そこには、天井の板からじわっと顔だけを突き出し、鼻の下を伸ばしたスケベジジイが浮かんでいた。
「ひひひ……バレてしまっては仕方ないのじゃ。ギャルのお着替えシーンというやつを、拝ませてもらうのじゃ……!」
「出たなエロジジイーーーッッ!!」
ニナの悲鳴が轟くのと同時に、隣の部屋のドアがバーン! と開いた。
「ニナ、大丈夫!? ……って、ひいっ!? また出たぁぁっ!!」
助けに来たはずのアルテが、天井から生えている幽霊顔を見るやいなや悲鳴を上げてその場にへたり込む。
「待つのじゃお娘さんたち! 物理攻撃はワシには効かんぞ! 透き通ってしまうからのう! ひひひ、諦めて見せるのじゃ――」
「誰が物理で殴るかーーーっっ!!」
ニナがポケットから飛び出させたのは、オルティジア産の岩塩の小袋だった。
ニナは袋を破るやいなや、勢いよく白い塩の塊をジジイの顔面にぶち撒けた。
「喰らえーーー!!」
「ふはは! 塩ごときで高位アンデットであるワシの霊体が――ぐああああああっっ!!??」
バサァッ! と塩を浴びた瞬間、地縛霊の顔面からジュウウウッ! と激しい紫色の煙が立ち上った。
「熱い! 熱い! 沁みるのじゃあぁぁぁっっ!?? 清められてしまう! ワシのスケベ心ごと浄化されてしまうのじゃあぁぁぁっ!!」
「そのまま消えて失せなさいよ!」
「ああっ! 気持ちええええ!光が!光が見える! 天国のお花畑が見えてきたのじゃあぁっ! 昇天! ワシ、昇天してしまうのじゃあぁぁぁっっ――!!」
半透明の体が凄まじい勢いでピカッと発光し、そのままパァン! と弾けるように霧散した。
「……はあ、はあ……やった。撃退した……」
「すごいよニナ……! 悪霊退散だね……!」
腰が抜けたまま壁にしがみついていたアルテが、ホッと胸を撫で下ろす。
そこへ、騒ぎを聞きつけたラインが階段を駆け上がってきた。
「二人とも、何の騒ぎだ!?」
「あのアホジジイが着替え覗こうとしたから、塩ぶっかけて成仏させてやったし!」
「……ヒュゥゥ……」
その時、天井の隅からゆらりと頼りない薄煙が立ち上り、手のひらサイズまで縮んだスケベジジイが、か細い声で顔を出した。
「……ひ、ひひ……危なかったのじゃ……。もう少しで本当に天国へ連れていかれるところだったのじゃ……」
「いやーっ!まだいたーーーっっ!!」
アルテが再び叫んでラインの後ろへ飛び隠れた。
「しぶといジジイだな……。おいアルテ、小さくなったら少しはマシじゃないか?」
「小さくなっても無理なものは無理! 早く塩水に漬けるか除霊して!」
「ひぃぃっ! こっちのねえちゃん、顔に似合わず鬼畜なのじゃあぁっ!」
震え上がるスケベジジイを見て、ラインはくすりと笑った。
「まあ待て。ジジイ、お前はこの街の昔のことや、この館の構造に詳しいんだろ?」
「ひひ……当然なのじゃ。ワシはこの館から離れられん地縛霊じゃが、ラポルナの歴史も、この館の構造も、すべてワシの庭のようなものなのじゃ!」
「……アルテ。このジジイは知識を持ってる。オバケとしては無理でも、この館専用の動くガイドブックだと思えばどうだ?」
ラインに言われ、アルテはラインの後ろから恐る恐る手のひらサイズの地縛霊を見つめた。
「……古の知識……うぅ……オバケは嫌だけど……ただし! 私に一歩でも近づいたら即座に塩漬けにするから!」
「ひ、ひえぇぇ……厳しいのじゃ……」
ニナも溜め息をつきながら肩をすくめた。
「まあ、お兄ちゃんがそう言うなら仕方ないけどさ。覗いたら即アウトだからね!」
こうして、カビ臭い領主館にスケベな地縛霊じじいという賑やかな居候が加わり、オバケ嫌いのアルテの悲鳴とともに、ラインたちの辺境隠居生活はにぎやかに幕を開けたのだった。




