寂れた街、新しい我が家へ
長い、大陸史よりも本当に長い馬車の旅路の果てに、俺たちが辿り着いたのは――どこまでも続く荒涼とした丘陵地帯の隅っこだった。
「……ねぇ、お兄ちゃん?」
馬車の小窓から身を乗り出していたニナが、引きつった声で振り返る。
「本当に……ここなの? 帝国の東部辺境領ラポルナって……」
「ん?そうだぞ?」
俺は満足そうに深く頷き、馬車を降りて大きく息を吸い込んだ。
「……いい風だ。潮の匂いと、土の匂い、そして微かな家畜の肥やしの匂いが混ざり合っている」
「いや、言い方は綺麗だけど要するに田舎独特の泥臭さでしょ!?」
ニナがツッコミを入れながら外へ降り立ち、あたりを見回して茫然と立ち尽くした。
目の前に広がっていたのは、せいぜい数十軒の古びた木造家屋が肩を寄せ合うように建っているだけの、ちっぽけな集落だった。
石畳の道路などは存在せず、地面は踏み固められただけの泥道。道の端には痩せたネギのような草が生い茂り、遠くで鶏の鳴き声が虚しく響いている。
「人口は……おそらく数百人といったところだね」
後ろから降りてきたアルテが、手帳と目の前の風景を見比べながら、どこか遠い目をして呟いた。
「事前の調査通り。この街……いえ、村にある商業施設は、日用品を雑多に扱う小さなよろず商店が一つ。そして、旅人が滅多に来ないため半分廃業しかかっている『宿兼酒場』が一軒のみ……」
「商店がひとつ……酒場がひとつ……」
ニナは頭を抱えた。
「ちょっとお兄ちゃん! 一応は元オルティジア王国の王様でしょ?帝国にとっても要人扱いの追放処分でしょ!? なんでこんな限界集落みたいな場所に送られてるのよ! 帝国の嫌がらせ!?」
「いや、嫌がらせじゃない。俺が、できる限り人の少ない、僻地の最果てが良いって希望を出したんだ」
ラインは自慢げに胸を張った。
「見ろ、ニナ。ここには政治の駆け引きも、貴族の陰謀も、大軍の行軍音もない。あるのは圧倒的な無だ。静寂という名の最高の贅沢がここにある」
「アホだ…贅沢のベクトルが狂ってるよお兄ちゃん…」
◇
三人は村の中央、小高い丘の上に建つ「領主館」へと向かった。
これから俺が暮らすことになる拠点だ。
……が、その建物を見上げた瞬間、ニナとアルテの言葉が完全に途絶えた。
「……これが、領主館?」
そこに立っていたのは、かつては立派だったのかもしれないが、今はすっかり外壁の漆喰が剥げ落ち、屋根の瓦が数枚吹き飛んでいる木造の二階建て屋敷だった。
敷地を囲む柵は斜めに傾き、庭には手入れされていない雑草が膝の高さまで伸び放題になっている。
ラインが錆びついたドアノブを回すと、ギィィィ……と嫌な金属音を立てて扉が開いた。
――ヒュゥゥ……。
隙間風とともに、立ち上る濃密な空気。
「うぐっ……! か、カビ臭い……!?」
ニナが思わず鼻を押さえて飛び退く。
「長年、誰も住んでなかったみたいだね……。埃と湿気、それに木材が傷んだ匂いが充満してる……」
アルテも眉をひそめ、咳き込みながら袖で口元を覆った。
部屋の隅には蜘蛛の巣が張り巡らされ、床板は足を踏み出すたびに「ギシッ……ギシッ……」と不穏な悲鳴を上げる。家具という家具には分厚い埃が積もり、窓ガラスは汚れで光をほとんど通していない。
まさに「廃墟」という形容がぴったりの惨状。
だが――。
「……ふっ」
俺は、漏れ出る深い吐息と、心からの笑みを我慢できなかった。
「え、ライン?なんで笑ってるの?」
アルテが恐る恐る尋ねてくる。
「いや……実にいいな」
俺はゆっくりと部屋の中へ進み、埃まみれの机を指先で愛おしげになぞった。
「戦場の天幕のようなピリついた緊張感もない。王宮の執務室のような、いつ背後から刺されるかわからない重苦しさもない。このカビ臭さ……この頽廃的な空気……。なんだか、妙に心が落ち着く……」
「正気!? 廃墟だよ?カビの匂いで落ち着く人いる!?」
ニナの絶叫が館内に響き渡る。
「王宮や本営にいた頃は、常に完璧な書類と、寸分の狂いもない配置を求められていたからな。これくらい雑で、壊れていて、打ち捨てられている方が……『何もしなくていい』と言われているようで、実に居心地が良い」
俺はカビ臭い空気を深く胸いっぱいに吸い込み、満足そうに目を細めた。
「よし。今日からここが、俺たちの隠居所だ」
「……言っとくけど、いくらお兄ちゃんが良くても、ウチはこんなカビだらけの屋敷で寝るのは絶対嫌だからね! 今すぐ大掃除するよ!」
ニナが腕まくりをして叫ぶと、アルテも気合いを入れるように小さく頷いた。
「まずは換気と、床の雑巾がけ、そして害虫の駆除から始めようか!」
「いや、アルテお前掃除なんかできないだろ」
「うるさい!放置したら私たちが病気になるわよ!」
ワーワーと騒ぎ立てながら、雑巾やバケツを探しに走り出すニナとアルテ。
その賑やかな背中を眺めながら、俺はギシギシ鳴る床に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
(……静かだ)
二人の騒ぎ声の向こう側に、確かに存在する田舎町ののどかな静寂。
権力争いも、戦争の盤面も、もうここには存在しない。
俺はついに静寂を手にしたのだ。




