歴史の奔流、覇王の礎
東部辺境領へと続く一本道を、馬車は急ぐことなく悠然と進んでいた。
秋の乾いた風が、車窓から差し込む陽光に黄金色の塵を舞わせている。
膝の上に広げた大陸史の羊皮紙をめくりながら、ラインは小さく吐息を漏らした。
隣ではニナが車窓に肘をついて外の景色を眺め、向かいに座るアルテは、ラインが差し出した温かい紅茶の湯気越しに、真剣な眼差しをこちらへ向けている。
「……ねえライン。先さっきの話を聞いていて、ふと思ったんだけど」
アルテが静かな声を紡ぐ。
「勇者ルニアが国を興してからの千年……世界はなぜ、これほどまでに『西のルニア』と『東のヴァルドア』という巨大な二つの極に分かれ、泥沼の対立を続けることになったんだろう」
「……歴史とは、一人の英雄の意志だけで動くものではないからだ」
ラインは古い地図が描かれたページを二人に示してみせた。
「魔王が討伐され、ルニア王国が建国された当初、大陸は一度だけ統一の夢を見た。……だが、人間の作った国家が永遠であるはずがない。建国からわずか五十年、ルニアの治世が半世紀を迎える頃には、膨張した領土と権力闘争によって王国は分裂を始めた」
「絵本だと、勇者様が作った国はずっと一つの大きな国として平和が続いたみたいに書いてあるのにね」
ニナが苦笑いを浮かべる。
「事実はもっと血生臭い。……そして、ルニア王国建国から二百五十年が過ぎた頃、大陸の東側に一つの異質な国家が誕生した。――『民衆共和政国家ミリセラ』だ」
「ミリセラ……現在のヴァルドア帝国の、前身となった国ですね」
「そうだ」
ラインは頁を指で叩いた。
「ここで面白いのは、東のミリセラが掲げた『生まれによって人間の価値が決まることはない』という民衆共和政の思想……その源流を辿っていくと、かつて勇者ルニアとともに戦ったモンク、ラウル・サントスの教えに行き着くという点だ」
「えっ……!? ラウル様って、あの孤児院や道場を作ったっていう……?」
ニナが目を見開く。
「そうだ。ラウル本人は政治など毛頭興味がなく、ただ弱者を救うために武術と善行を説いた。だが二面半の時を経て、その純粋な平等思想は東の地で『貴族や王の支配を拒絶し、民衆が自ら治める国家』という政治体系へと結実した。……つまり、西のルニア王国も、東のミリセラも、根を辿れば同じ『七英雄』という一本の樹から分かれた枝に過ぎん」
「同じ英雄の仲間から生まれた思想が、年月をかけてまったく別の国を作った……」
アルテが感慨深そうに呟く。
「ああ。西側は、剣聖ガルドの受け継いだ『騎士制度』と、重騎士ドゥランが遺した『騎士道精神』を誇りとし、『我々は勇者ルニアの正統なる後継である』という伝統と格式を信条とした。伝統の西、平等の東。両者は互いを相容れぬ異端と見なし、大陸の覇権を賭けて何十年間も競い合うことになったのだ」
「でも、ならどうして急に陸での戦いが下火になったの?」
ニナの疑問に、ラインは地図の中央――膨大な砂漠と山脈が広がる地域を指さした。
「建国四百年頃、東西を隔てる広大な砂漠地帯を支配していた獣人族の集合体――『サラウ交易領』が、永世中立を宣言したからだ。彼らは東西の過酷な陸路を物理的に封鎖し、巨額の通行税と交易権益を握ることで、両軍の直接衝突を遮断した。……陸路が塞がれたことで、戦争は一気に冷却化された」
「平和になったなら、良いことなんじゃない?」
「表向きはな」
ラインは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「だが、外敵という共通の脅威を失ったことで、両者は内部から腐敗していった。西側諸国は小競り合いと血みどろの利権争いを繰り返し、分裂を深めた。……そして東側のミリセラもまた、理想であったはずの『民衆の自治』が形骸化し、一部の富裕層と政治家が肥え太る『内部腐敗と劇的な貧富の差』を生み出す結果となった」
ラインの指先が、歴史書の大きな転換点――ひとつの肖像画が描かれたページの上で止まった。
「――そしてルニア建国四百五十年前後。腐敗しきった東のミリセラを、北方の荒々しい異民族が急襲した」
「……あ」
ニナが息を呑む。その肖像画に描かれていたのは、鋭い眼光を持つ厳めしい男の姿――現在、大陸の半分を支配する皇帝ルーファスの祖先。
「ミリセラ陸軍中将――『ヴァルドア』。平民の出でありながら、圧倒的な軍事の才能によって北方の異民族を叩き潰し、一夜にして国民的英雄となった男だ」
「ヴァルドア……帝国の初代皇帝……!」
「そうだ。戦功により陸軍元帥へと登り詰めたヴァルドアは、腐敗しきった共和政府を見限り、ついに軍を率いて帝都へ進軍――クーデターを起こした。民衆は絶大な信頼を寄せる彼を歓喜で迎え、ヴァルドアは『終身宰相』の地位に就いた。そしてそのわずか三年後、国民投票を経て、彼は『皇帝』の座へと即位した」
アルテが小さく首を傾げた。
「……平民の英雄が、民衆の支持を得て皇帝に……。だけどライン、ミリセラの民は自ら手に入れたはずの『共和政』を、なぜ自ら捨てて帝政を選んだの?」
「それが歴史の皮肉というものだ、アルテ」
ラインは静かに目を細めた。
「ヴァルドア自身、最初は共和政そのものを悪と考えて倒したわけではない。腐敗した政治家から民を守り、国を立て直すために立ち上がった。……だが、いざ巨大な国家の頂点に立った時、彼は悟ったのだ。『多種多様な欲望が渦巻く巨大な国を維持し、外敵に打ち勝つには、一人の強力な指導者による絶対的な権力――帝国主義しかない』とな」
「……強い国には、強い指導者が必要だった」
「ああ。国民投票という形式も、表面上は『民衆が自ら皇帝を選んだ』という美徳として記録されている。……だが実態は、ヴァルドアの圧倒的な軍事的威圧と人気の前に、共和政を維持するという選択肢そのものが消え去っていただけだ。西側の歴史書では『軍事独裁への陰惨な転換』と記され、帝国の歴史書では『民衆の熱望によって誕生した偉大なる慈父』と記される。どちらが正しいかなど、立場によって変わるに過ぎん」
ラインは次のページを開いた。そこに描かれていたのは、内海の中に浮かぶ巨大な要塞島の絵だった。
「皇帝となったヴァルドアは、自らの名を冠した『ヴァルドア帝国』を建国。軍備を急激に増強し、内海マルマラ湖に浮かぶオルティジア島を巨大要塞へと改築した。……西側諸国が帝国に攻め込もうとすれば、必ずこのオルティジア島という絶対不可侵の要塞が立ちはだかる。こうしてヴァルドア帝国は、大陸随一の巨大軍事国家として完成したのだ」
「それが……今のヴァルドア帝国、そして私たちのオルティジアの始まりなんだね」
ニナは深く感心したように息を漏らした。
「現在に至るまで、西と東の冷戦状態は五百年近く続いていた。ルーファスが均衡を破るまではな。」
ラインはまとめ上げるように語った。
「千年間ずっと激しい戦争をしているわけではない。大戦争があり、数十年の冷たい停戦があり、国境での小競り合いがあり、講和が結ばれ、また衝突する……。生きている人間にとって『東と西が争っていること』そのものが、すでに息をするのと同じ日常であり、歴史的常識と化した世界だ」
「……なんだか、どちらかが完全に悪で、どちらかが善というわけではないんだね」
アルテが切なさの混じった声で呟いた。
「伝統と血統を重んじるあまり、分裂と利権争いに明け暮れる古い『ルニア王国』。
平民の平等を掲げた理想から生まれながら、腐敗を経て強力な軍事独裁国家へと変貌した新しい『ヴァルドア帝国』。
……互いに滅ぼし合えない理由も、互いに譲れない大義もある」
「そうだ」
ラインは窓の外、遥か彼方に広がる空を見つめた。
「結局のところ、王国の正義も、帝国の大義も、英雄の伝説すらも……すべては後世の『人間が都合よく語った物語』に過ぎん。賢者エドガーが体系化した魔法理論も、現代ではただの『古典』として扱われるように、どんなに偉大な思想も時代とともに形を変え、利用されていく」
「……ライン自身も、その膨大な歴史の大きな盤面の上で、戦ったんだね」
アルテが優しく微笑みながら、ラインの手元を指さした。
「ラインが降伏を選び、多くの命を救ったこともまた……百年後、五百年後の歴史書には、どのように記されるのか…」
「……俺のことなど、歴史の注釈にすら残らんさ」
ラインは照れ隠しのように素気なく鼻を鳴らし、本をパタンと閉じた。
「『戦に敗れて辺境へ消えた』――それで十分だ。俺は歴史の主役になる気など毛頭ない。これから行く東部辺境で、静かに美味い酒が飲めればそれでいい」
「ふふ、またそうやって自分を低く言うんだから」
ニナがクスクスと笑い、アルテもまた嬉しそうに目を細めた。
悠久の歴史を乗せて、馬車は静かに、けれど力強く、東の地へ向かって進み続ける。
過去の英雄たちが遺した世界の上で、今、ラインたちの新しい「ささやかな日常」が始まろうとしていた。




