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潜む牙、交錯する影

 オルティジア王国の首都レムから先発し、一足早く帝都ヴァルバイトへと帰還していたセシリア・フォン・アルテンブルク。


 彼女は帝国宰相である父・アルテンブルク侯爵の屋敷の一室で、次々と運ばれてくる密書に目を通していた。


「……やはり、タカ派の貴族たちが騒ぎ始めていますか」


 セシリアは冷ややかな溜め息をついた。


 皇帝ルーファス率いる本隊が帝都へ到着する前だというのに、元老院やタカ派の貴族たちは


「ライン・オルティジアを生かして辺境へ追放するなどぬるい」

「今すぐ刺客を放って首を跳ねるべきだ」


と息巻いている。


 彼らにとって、ラインは帝国軍を一度ならず窮地に追い込んだ危険極まりない存在であり、生かしておくこと自体がリスクでしかないのだ。


「父上は静観を決め込むおつもりのようだけど……私が黙っているわけにはいかないわね」


 セシリアは手元の書類に素早くペンを走らせる。


 彼女は宰相家の令嬢という立場と、自らの情報網をフルに活用し、帝都の貴族たちがラインの隠居地へ刺客や過剰な圧力をかけられないよう、牽制と防壁を張り巡らせていた。


(ライン……せめてあんたが東部辺境で安寧を得られるよう、帝都の泥は私がすべて引き受けるわ)


 セシリアの瞳には、静かながらも強い覚悟が宿っていた。


◇


 一方その頃。


 サラウ交易領の中央都市サラウ

 その地下に広がる暗い潜伏拠点。


 松明の火が揺らめく不気味な地下空洞で、男が荒々しく机を叩きつけた。


「……信じられん。あのルニアが……こうもあっけなく落ちただと!?」


低く、地響きのような声を上げたのは、サラウ交易領の僭主シャハール。


彼にとって、ルニアのあっけない敗北は完全な想定外だった。


 ライン・オルティジアが八万の軍を率いてルニア平原でルーファスの足止めに成功した以上、戦況は長期泥沼化すると踏んでいたのだ。


 両軍が疲弊したところで地下から一気に打って出ることこそが、シャハールの描いた「一発逆転」のシナリオだった。


 だが、別動隊フェリックスによるルニア首都への急襲と、王の捕縛。


 大局の盤面が一瞬でひっくり返り、ラインは戦わずに降伏を受け入れた。


「ライン・オルティジアめ……! 戦術で勝利しておきながら、ルーファスの軍門に下るとは何事だ! あの男の知謀があれば、まだ戦えたはずだろうがッ!」


怒りを露わにする部下たちを制しながら、男は血走った目で地図を見つめていた。


「焦るな。ルニアとオルティジアが消えようと……俺たちの牙まで折れたわけではない。帝国が占領地を拡大すればするほど、後方の補給線と治安維持の歪みは大きくなる。逆転のチャンスは必ず訪れる……」


シャハールの胸に宿る野心は、敗北の静寂の中でも衰えるどころか、より苛烈に燃え上がっていた。


「相変わらず、物騒な算術ばかり弾いていますのねぇ……お兄様」


地下の暗がりから、凛とした、どこか聞き覚えのある声が響いた。


「だれだッ!?」


構成員たちが一斉に剣を抜き放つ。


影の中からゆっくりと姿を現したのは、黒い旅装束に身を包んだ美女――シャルロッテだった。


「……シャルロッテか!?」


シャハールの目が驚愕に見開かれる。


「なぜ、お前がここに……!? シャルロッテ商会は帝国に接収され、お前はラインとともに追放されたはずでは――」


「表のシャルロッテ商会は、綺麗さっぱり畳みましたわ」


シャルロッテは薄く微笑みながら、優雅に裾を払ってみせた。


「ですが、裏の流通網と情報網まで帝国に渡した覚えはありません。……久しぶりですわねぇ、お兄様」


 兄妹の、緊迫した再会。


 かつて家督や立場を巡って複雑な葛藤を抱えていた二人だったが、いまや「帝国によって故郷と居場所を奪われた者同士」として、暗がりの中で対峙していた。


「お前……ラインを見捨てて、俺たちと合流しに来たのか?」


「まさか」


 シャルロッテは即座にそれを否定し、冷ややかな瞳で兄を見つめ返した。


「わたくしの主君は、昔も今もライン様ただ一人さね。……お兄様たちが無謀な一発逆転を狙って暴発し、ライン様のスローライフ……いえ、安全を脅かさないよう、釘を刺しに来たのですわ」


「なんだと……!? ラインはすべてを捨てて帝国に降伏した敗将だぞ! あんな奴にまだ固執する気か!」


「敗将、ですって?」


シャルロッテの口元に、嘲笑が浮かぶ。


「ライン様は負けたんじゃないよ。これ以上の流血を止め、民と騎士たちの命を繋ぐために、ご自身の全てを差し出して盤面を降りただけさね。……あのお方は、お兄様のような、目先の勝利に囚われて全滅を待つだけの野心家とは違うのさ。」


「くっ……!」


 シャハールは歯を食いしばり、シャルロッテを睨みつけた。

 だが、シャルロッテの背後にある「地下情報網」の価値を誰よりも理解しているからこそ、手出しはできなかった。


「……まあ、いいでしょう」


シャルロッテはポン、と手持ちの革袋を机の上に置いた。


「お兄様たちの一発逆転の野心……わたくしが利用してさしあげますわ。帝国軍の補給ルートや、地方総督府の内部情勢……必要な情報があれば、わたくしの裏ルートから提供してあげようかねぇ。」


「……何が望みだ、シャルロッテ」


「条件は二つ」


シャルロッテは二本の指を立てた。


「一つ、ライン様の隠居地……東部辺境領には絶対に手を出さないこと。二つ、わたくしたちがその時だと判断するまで、決して無謀な挙兵を起こさないこと。……受け入れられますわね?」


シャハールはしばし沈黙した後、苦々しく吐き捨てた。


「……フン。ライン・オルティジアが表舞台から消えても、その影でお前が動くというわけか。……いいだろう、乗ってやる。だが覚えておけ、シャルロッテ。俺たちは決して帝国の軍門に降るつもりはない」


「ええ、重々承知しておりますわ」


シャルロッテは静かに深々と一礼すると、闇の中へとその姿を消していった。


正史では、オルティジア王国は消滅し、ラインは権力を失って隠居したと記録されるだろう。


だが、その裏側では、宰相令嬢セシリアによる帝頭からの政治的保護、そしてシャルロッテとシャハールによる地下レジスタンス網の構築という、新たな「盤面」が着々と組み上げられつつあった。


ライン・オルティジアが求めた平穏の裏で、世界は次の激動へと向かって、静かに蠢き始めていたのだった。

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