第六十話:散り散りの道、残された灯火
ルニアの首都クラリアでの講和調印から数日。
オルティジア王国の首都レムに立ち込めていたのは、敗戦のショックというよりも、不気味なほどの静けさだった。
王宮の中庭。
かつてマルマラ湖最強と謳われた『オルティジア騎士団』の全員が集められていた。だが、そこに立ち並ぶ騎士たちの顔に威風堂々とした気概はない。全員が無言のまま、泥のついた鞘から愛剣を抜き取り、中央の広場にうずたかく積まれていく鉄の山へと静かに放り投げていた。
武具接収。そして、組織の完全解体。
ある者は屈辱に唇を噛み締め、血を流していた。ある者は失意のまま力なく膝をついていた。
帝国側から提示された処理案は徹底していた。不穏な動きを見せそうな若手や優秀な中堅騎士は、帝国各地の地方部隊や辺境警備隊へとバラバラに配属され、仲間同士の絆を強制的に断ち切られる。そして大半の一般兵は、武装解除と同時に雇い止めとなり、郷里へ帰されることとなった。
だが、待っているのは悲惨な現実だ。
敗戦国となったオルティジアには過酷な重税が課される。軍納品の利権をすべて失い、苦境に立たされるエスカンテ商会のような地元経済の疲弊に伴い、無職となった元騎士たちにまともな仕事など残されているはずもなかった。
さらには「ライン様を見捨てて帝国に下るなど納得いかん」と血気走る一部の若い騎士たちが山林へと潜伏し、早くも反帝国の過惑派として地下へ潜りつつある。
そんな崩壊の光景を、館の影から見下ろす老将がいた。
オルティジアの老臣、ギルバートである。
「……見なくてよろしいのですか、ライン様」
ギルバートが振り向かずに呟く。その数歩後ろ、影の中に立っていたのは、私服に着替えたライン・オルティジアだった。
「俺が出張れば、彼らの未練が増すだけさ。……彼らにとって俺は、国と騎士団を切り捨てて一人だけ生き残った裏切り者でいい」
「己を悪者に仕立て上げるのがお上手ですな」
ギルバートは深いため息をつき、執務室へとラインを促した。
かつて幾度となく作戦会議が行われた執務室には、すでに書類の一枚すら残されていなかった。二人は埃っぽい部屋の片隅で、安酒の瓶を挟んで向かい合った。
「ギルバート。お前も俺と一緒に来ればいい。帝国側には『老齢による引退』とでも言っておけば、咎めはしないはずだ」
「ホッホッホ、滅相もない。この老骨が付き従ったところで、ライン様のスローライフとやらが暑苦しくなるだけでございましょう」
ギルバートは自嘲気味に笑うと、手元の杯を一気に干した。
「わしは、このオルティジアに残ります。帝国から派遣されてくる『初代総督』の下で、旧王国の残務処理を引き受けるつもりです」
「……険しい道だぞ。民からは『帝国の狗』と蔑まれ、帝国からは常に不信の目を向けられる」
「だからこそ、誰かがやらねばならんのです」
ギルバートの双眸に、揺るぎない覚悟の光が宿る。
「解体された騎士たちの受け皿を作り、重税に喘ぐ民の防波堤となる。泥をかぶり、屈辱に耐えてこの地に踏みとどまること……それが、生き残った老兵の最後の務めというもの。ライン様、どうかお気になさるな。お若い貴方がすべてを背負う必要など、最初からなかったのですから」
「……ギルバート」
「さあ、刻が参りました。お行きなされ」
老臣は静かに立ち上がり、ラインに向かって深礼を捧げた。それが、王国を支え続けた老将との、最後の別れだった。
◇
城門の前には、一台の質素な馬車と、それを囲む帝国兵の一隊が待機していた。
帝国の決定したラインの処遇――それは、帝国本国・東部辺境領への移住および監視付きの隠居。
旧領であるオルティジアから完全に切り離し、反乱の象徴とされるのを防ぐための隔離措置。与えられたのは、人里離れた荒野の片隅にある古びた館と、生かさず殺さずの雀の涙ほどの捨て扶持だけだった。
「ライン」
馬車のかたわらで待っていたのは、帝国の礼装に身を包んだセシリアだった。
彼女の表情には、複雑な色が浮かんでいる。
「私は……本国へと戻ります。父の命で、ルーファスの側近として、事後処理に当たることになったの」
「そうか。……色々世話になったな、セシリア」
「謝らないで。私は……君を助けられなかった」
セシリアは唇を噛み締め、ラインの着物の袖を強く握りしめた。
「だけど、覚えておいて。ルーファスがラインに刺客を放つような真似は、私が命に代えても止めます。ラインが平穏に暮らせるよう、帝都から見守ってるから……」
「ああ。お前も、無理はするなよ」
セシリアは小さく頷くと、未練を断ち切るように背を向け、自らの護衛部隊とともに帝都への道を駆け去っていった。彼女はこれからも、帝国の中枢でラインを守るための静かな戦いを続けていくつもりなのだ。
セシリアを見送ったラインが馬車に乗ろうとした、その時。
「待ってよお兄ちゃん!」
「ちょっとライン、置いていかないでよ!」
重い荷物を抱えた二人の少女が、息を切らせて駆け寄ってきた。
アルテと、ニナだった。
「……お前たち、何をしている?」
ラインが呆れたように眉をひそめると、アルテは当然と言わんばかりに胸を張った。
「何、じゃないでしょ。補佐官として、ラインのお供をするのは当然です。あんな僻地のボロ屋敷敷でラインを一人にしたら、三日と持たないでしょ?」
「ふふふ。ウチを置いてこうなんていい度胸してんじゃん!世界の果てまでもついていくからね!」
ニナは胸元の書類を叩いて見せた。
「……二人とも、言っておくがな」
ラインは二人を真顔で見つめた。
「俺が行くのは、帝国の監視兵が四六時中見張っている場所だぞ。王国の参謀としての権限もなければ、潤沢な資金もない。ただの惨めな敗軍の将の隠居生活だ。危険だし、何の恩恵もない」
「そんなこと、最初から分かってる」
アルテが静かに、しかし力強い瞳でラインを見つめ返した。
「国がなくなろうと、騎士団が解体されようと……私の主君は、最初からラインだけ。」
「ウチもだよ。お兄ちゃんがどれだけスローライフって逃げようとしたって、ウチらが追いかけて邪魔してあげる!」
ニナがニッと悪戯っぽく笑う。
さらには、姿こそ見せないものの、シャルロッテもまた自らの商会網を解体・地下潜伏させる準備を進めているはずだった。
「……ハア…勝手にしろ」
ラインは呆れたように息を吐きながらも、どこか救われたような心地で馬車の扉を開けた。
◇
ガタゴトと、馬車が重い音を立てて動き出す。
車窓から外を眺めると、生まれ育ち、そして己の手で敗北へと導いたオルティジアの城郭が、少しずつ小さくなっていくのが見えた。
重圧からの解放。
命を狙われる作戦立案の日々の終わり。
帝国の監視つきとはいえ、ついに手に入れた「何も背負わないスローライフ」。
ずっと憧れ続け、口にし続けていた夢が、いま確かに実現しようとしている。
(……だが、どうしてこんなにも、風が冷たいんだ)
膝の上に置いた自分の手が、かすかに震えていた。
ギルバートは泥をかぶるために旧領に残った。
騎士たちは散り散りになり、露頭に迷っている。
民は帝国の重圧に喘ぐ事になり、仲間たちは居場所を奪われた。
みんなの未来と、国の誇りを売り払って買い取った、自分だけの「平穏」。
喉の奥にへばりつくような、苦く冷たい後味が、いつまでも消えてくれない。
「ライン、顔色が悪いよ。……また車酔い?」
向かいに座ったアルテが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……いや、大丈夫だ」
ラインは目を閉じ、馬車の揺れに身を任せた。
帝国の監視兵が前後に連なる不吉な列の中、馬車は静かに、レムの軍港を目指す。
望んでいたはずのスローライフへ向かうその道は、どこまでも暗く、不条理な静寂に満ちていた。




