第五十三話:覇者の玉座、去りゆく参謀
陥落したルニア王国の首都クラリア。
かつて魔王を打ち払いし勇者ルニアが興し、千年の栄華を誇った王宮の廊下には、あちこちに焦げ跡が残り、帝国兵の靴音が無機質に響き渡っていた。
重厚な扉が開かれ、俺は、ルニア王宮の玉座の間へと足を踏み入れた。
正面の玉座に腰掛けていたのは、皇帝ルーファス・バルドゥア。
泥に塗れた甲冑から一転、漆黒の礼装を纏った彼は、肘を突き、冷徹な双眸で歩み寄る俺を見下ろしていた。その脇には、急襲を成功させた将軍フェリックスと、参謀アルバンが控えている。
「……遅かったな、ライン」
「八万の軍を収容し、降伏の手続きを整えていたんだ。これでも急いだつもりだがね」
俺は玉座の数歩手前で足を止め、静かにルーファスを見つめ返した。
ここにはもはや、泥の中で互いの首を狙い合った戦場の熱気はない。あるのは、勝者と敗者という残酷な境界線だけだ。
「アルテ。条約文書を」
「……はい、ライン様」
後ろに控えていたアルテが、苦痛に満ちた表情で羊皮紙の束をルーファスの前へと提示する。ルーファスはそれに目もくれず、俺だけに視線を固定していた。
「条件を確認する」
アルバンが淡々と、提示された講和条約の骨子を読み上げ始めた。
「第一。ルニア王国は全権を解体、その領土および主権はすべてバルドゥア帝国へと移譲、直轄領化する」
盟主であったルニア王国の消滅。ルニア国王の身柄は帝国へと送られ、かつて王国と呼ばれた地は帝国の属州ルニアへ塗り替えられる。
「第二。オルティジア王国は帝国に即時下り、これを受け入れる。オルティジアの軍事力たるオルティジア騎士団はこれを解体。兵員は武装解除の上、接収または解散とする」
アルバンがそこまで読み上げたところで、一度言葉を区切った。
アルテが拳を強く握りしめ、爪が皮膚に食い込むほどに震えている。オルティジア騎士団の解体――それは、アルテ、ニナたちの居場所であり、歴史そのものを根こそぎ奪うことを意味していた。
「……そして、第三」
アルバンが静かに俺を見つめる。
「オルティジア王国国王、ライン・オルティジアの退位およびすべての公職からの追放。政権、軍権の剥奪。」
静寂が、広い玉座の間を支配した。
「……命までは取らん、と言ったら驚くか? ライン」
ルーファスが、低く重い声でつぶやいた。
「お前はあの平原で、俺の戦術を完全に叩きのめした。本来ならば、帝国にとって最大の脅威である貴様の首をここで跳ねるのが、皇帝としての正しい選択だ」
「だが、俺を殺せばオルティジアの民も兵も永久に帝国に従わない。解体される騎士団の遺恨は残り、帝国直轄領となったオルティジアは反乱の火種になり続ける……そうだろ?」
俺が淡々と応じると、ルーファスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「……相変わらず、自分の価値と政治の盤面がよく見えている男だ。お前が退位し、すべての権力を捨てて隠居すること。それだけが、オルティジアの民や騎士たちを帝国軍の血の粛清から救う唯一の条件だ」
「断る理由がないよ。元より……俺がずっと望んでいたことだ」
俺は静かに言い放った。
「ずっと引きこもってスローライフを送りたいと言っていたんだ。同盟の最高顧問の肩書も、王国の重荷も、全部下ろせるなら願ったり叶ったりさ」
「……ふん」
ルーファスは冷ややかな目を向けた。
「お前がそうやって平然を装うほど、腹が立つ。戦場では俺を完敗させ、政治の場では己の命と引換に臣下と国を救う聖者気取りか? ……どこまでも俺に惨めな勝利を舐めさせる男だ、貴様は」
ルーファスは羊皮紙に素早く皇帝のサインを走らせると、羊皮紙を俺の足元へと放り投げた。
「持っていけ。これが貴様が国と引き換えに買った平和だ」
「……感謝するよ、陛下」
俺は屈み込み、泥のついた革手袋で羊皮紙を拾い上げた。
「これより、オルティジア王国は帝国へ編入される。騎士団は解体だ。……国王ライン・オルティジアとしての俺の役目は、これで終わりだ」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが静かに途切れる音がした。
自由になった。
責任から解放された。
誰かの為に作戦を立てる必要もなく
誰かの命を背負う必要もない
ずっと憧れていた
何も背負わないスローライフ
それが今この手の中に届いたのだ。
……なのに。
(……なんだ、この胸クソの悪さは)
喉の奥に、冷たくドロリとした汚物を押し込まれたような、耐え難い後味が口の中に広がる。
自分の引き換えにしたものが、どれほど残酷なものか分かっているからだ。
オルティジアへ戻れば、待っているのは騎士団の解体。ニナの実家であるエスカンテ商会をはじめ、現地で生きてきた商人たちは軍納品の利権を失い、帝国の重税に喘ぐことになる。シャルロッテ商会も表の歴史から姿を消さざるを得ない。
仲間たちの居場所を奪い、民に屈辱の歴史を背負わせ、自分だけが「隠居」という名の逃げ場を得た。
胃の痛みすらない。
ただ、感覚が麻痺していくような重苦しい静寂だけが、俺の全身を包み込んでいた。
「……戻るぞ、アルテ。オルティジアへ」
「……はい、ライン様」
背を向け、玉座の間を後にする俺の背中に、ルーファスの鋭い声が投げかけられた。
「二度と俺の前に現れるな、ライン。次に出会う時……貴様がただの引きこもりでなかったなら、その時は躊躇なく首を刎ねる」
俺は振り向くことなく、ただ黙って落ちたルニア王宮の階段を下りていった。
望んでいたはずの平穏。
その扉が開いた音は、あまりにも暗く、苦い響きを立てていた。




