第五十ニ話:奇策、追い詰められた皇帝
地響きのような咆哮とともに、黒い獣の群れが平原を駆け抜ける。
帝国が誇る魔狼部隊。垂直の壁すら駆け上がる跳躍力と、圧倒的な足力を備えた騎兵たちが、突撃の勢いを乗せて俺たちの陣営へとなだれ込んできた。
「打ち払えッ! 陣を崩すな!」
前線の隊長たちが叫ぶ。
普通の陣形であれば、魔狼の跳躍力によって一瞬で前衛が跳び越えられ、本陣を踏み荒らされていたはずだった。
しかし――ドガァンッ! と凄まじい金属音が平原に響き渡る。
「ぐ、なんだこれは……網だと!?」
先頭を切っていた魔狼たちが、次々と宙で体勢を崩し、地面へ転倒した。
俺たちが前もって張り巡らせていたのは、対騎兵用の多重連鎖網。魔狼の跳躍高度と歩幅を計算し、着地点に設置された鋼の網が、彼らの自慢の機動力を刈り取ったのだ。
「勢いが死んだぞ! 長槍隊、突き出せ!」
体勢を崩した魔狼部隊に対し、密集した重装盾兵の隙間から、一斉に長い刃が突き出される。狭い陣地に引きずり込まれた魔狼たちは、自慢の足を封じられ、一転して包囲される側へと陥っていた。
「……ライン。前衛の連鎖網、第一層から第三層まで完全に機能してる。魔狼の足止め、思ってた以上にハマったね」
隣に立つアルテが、素早く羊皮紙に戦況を書き込みながら言った。視線は戦場から一切逸らさず、無駄のない動きで伝令兵へ指示の紙を押し付けている。
「……うぐっ、そりゃそうだ……。この陣形を考えるために、どれだけ胃を痛めたと思ってんだ……」
俺は右腹を押さえ、脂汗を拭いながら戦況を睨みつけた。
陸に上がったとはいえ、船酔いの残滓と胃の強烈な痛みが消えたわけではない。だが、いま目の前で繰り広げられているのは、俺が描いた通りの盤面だった。
「アルバン、前線の混乱をどう見る!?」
帝国軍の本陣。攻勢が途絶えた光景を目にし、参謀アルバンが苦々しく叫ぶ。
「流石はライン! 我らの魔狼の特性を把握し、その機動力を殺す陣形を組んでいます!やはり奴は戦の天才…悔しいが 一旦引き、陣を再編すべきです!」
「退く、だと?」
漆黒の鎧を纏う皇帝ルーファス・バルドアは、冷徹な眼光の奥に凄まじい闘志を宿らせていた。
「我が魔狼部隊の機動戦術を、これほど鮮やかに殺してみせるとはな。……フッ、やはりお前は期待を裏切らないな、ライン」
ルーファスは腰の宝剣を抜き放ち、馬首を巡らせた。
「アルバン、正面の力押しは捨てろ。親衛隊全軍、我に続け! 敵の右翼、あの緩やかな丘の裾野を強行突破する!」
「危険です陛下! 敵の思惑がそこにある可能性も――」
「構わん! 網を張ろうと、壁を作ろうと、指揮官の首を取れば終わる話だ!」
ルーファス自らが率いる直属の親衛隊が、雷鳴のような足音を立てて迂回運動を開始した。
正面の足止めを囮にし、自らの圧倒的な武力をもってラインの本陣へ直接突入する――帝国の皇帝自らによる、冷酷かつ苛烈な決死の電撃突撃であった。
◇
「ライン! 帝国の本隊が動いたよ! ルーファス自ら親衛隊を引き連れて、右翼の泥濘地帯へ向かって突進してくる!」
アルテの声が飛ぶ。彼女は乱れた前髪をサッと払うと、即座に予備隊の旗を掲げ直した。
「右翼……丘の裾野か。やっぱりそこを選んだか」
俺は口元に歪んだ笑みを浮かべた。
胃の痛みが、一瞬だけ吹き飛ぶような感覚。
ルーファスの性格なら、正面が封じられれば、無理にでも俺の首を直接取りに来る。そして、一見すると防衛が手薄に見える右翼の裾野こそ、彼が最も選びそうな突破ルートだった。
「アルテ、水門を開けろ」
「了解」
アルテが短く応じ、合図の角笛を吹き鳴らした。
ズズズズ……ッ!
山合いから響く重苦しい音とともに、バドック将軍が残してくれた地形データと、マルマラ湖から引き込まれている農業用の水路の土砂が一斉に決壊した。
右翼の裾野に押し寄せたのは、膝まで浸かるほどの大量の泥水。
「なに……っ!?」
先頭を走っていたルーファスの愛馬が、不意に足元を奪われ、激しくつんのめった。
続く親衛隊の騎馬も、次々と深みにハマり、自慢の機動力を完全に失って泥の中に足をとられていく。
「クッ!水攻め……いや、人工の泥濘か!」
アルバンが青ざめた声を上げる。
ここまでの流れの全て。連鎖網による正面の足止めも、右翼の防衛の甘さも、全てはルーファスという男の攻撃性を逆手に取り、この泥の罠へと誘い出すための誘導だったのだ。
「囲めぇッ!!」
泥の中で身動きが取れなくなった帝国親衛隊の周囲を、俺たちの主力である長槍隊と弓兵隊が、何重もの円陣を組んで完全に包み込んでいく。
逃げ場はない。
跳躍もできない。
機動戦術を極めたはずの帝国軍が、足を絡め取られ、無力な状態で袋のねずみとなっていた。
重装兵の開いた隙間から、馬を進めた俺は、泥に塗れながらも剣を握りしめるルーファスの姿を見下ろした。
「……見事だ、ライン」
膝まで泥に浸かった馬の上で、ルーファスが掠れた声で呟く。
その表情には、自らの完璧な敗北に対する悔しさと、かつての友が見せた恐るべき采配に対する戦慄が入り混じっていた。
「正面の防衛で俺の視界を奪い、迂回路へ誘い込み、最後は足元ごと俺の軍勢を潰す……。まんまとはめられたわけだ。」
風が止み、静寂が平原を包み込む。
周囲を取り囲む八万の兵が突き出す長槍の先は、ことごとくルーファス一人へと集中していた。
右腹の激痛を必死に耐えながら、俺は冷徹な眼光で皇帝を見つめ返した。
「ルーファス。お前の誇る電撃戦術は……ここで詰みだ」
戦術の勝利。
追い詰められた皇帝と、刃を突きつける参謀。
ルニアの平原において、ライン・オルティジアは、帝国の絶対的な覇道を完全に叩き潰してみせたのだった。




