第五十一話:老将の誇り、決戦の地ルニア
深い霧と、重く湿った泥の匂いが漂うルニア王国、首都近くの丘陵地帯。
時に帝国歴540年、陽炎の月18日。
電撃的な勢いで砂漠を越え、サラウの物資を奪って押し寄せてきた新皇帝ルーファス・バルドア率いる帝国軍。その破竹の進撃は、この地でついにピタリと足を止められていた。
「……また伏兵か。全軍、陣を崩すな!」
帝国軍参謀アルバンが、珍しく苦々しい声を張り上げる。
立ち塞がったのは、ルニア王国の老将――バドック将軍であった。
白髪混じりの髭を蓄え、数々の修羅場を潜り抜けてきた古株の騎士。彼が率いるのは、わずか三千にも満たない寄せ集めの防衛部隊に過ぎなかった。
しかし、バドックは圧倒的な兵力差を真正面から受け止めはしなかった。
「敵は長旅と急ごしらえの行軍で疲弊しておる! この丘陵地帯に誘い込み、降り始めた雨による泥濘を見方につけよ!神出鬼没にせめたて、敵の足元をすくうのだ!」
バドックはこの丘陵地帯の地形を熟知していた。
突如発生した濃霧に乗じ、切り立った崖からの落石と、泥に足を取られる狭隘な小道へ帝国軍を誘導。驚異的な機動力を誇るはずの魔狼部隊は、跳躍の踏み切りの足場を泥に奪われ、丘陵地の狭い通路でその速度を完全に殺されていた。
「ぬかせ老兵が! 押し潰せ!」
焦りを見せた帝国前衛部隊が強引に押し込もうとしたその瞬間、崖の上から大量の丸太と岩石が叩きつけられた。奇襲、遅延、そして敵の焦りを誘う見事な陣形展開。
数に頼る帝国軍は、狭い道幅に押し込められ、自ら同士打ちを起こす始末であった。
「……ほう」
黒い軍馬の上から、冷徹な眼光で戦況を見つめていたルーファスが、わずかに眉を動かした。
「兵力差は十倍以上。にもかかわらず、地形と天候、さらには我が軍の慢心まで完璧に計算に入れて足を止めてくるとはな」
「申し訳ございません、陛下。ただちに後方へ迂回し――」
「言っている場合か、アルバン。奴はただ時間を稼いでいるのではない。最初から……俺の首だけを狙っている」
ルーファスの予言は、的中した。
「今だ! 敵の本陣へ向かって突撃せよ!! 狙うは皇帝ルーファス・バルドアただ一人!」
濃霧を切り裂き、泥を跳ね上げて躍り出たのは、バドック自らが率いる三百の死生を共にした決死隊であった。
補給線を断たれ、追い詰められた老将は、守るのではなく全戦力を一点に集中させた「死中求活」の突撃を敢行したのだ。
敵の警戒が手薄になった側面の崖を一気に駆け下り、本陣を護衛する帝国親衛隊を力ずくで叩き伏せる。
「うおおおっ! 皇帝!覚悟! 首を取れぇッ!」
老将バドックの振り下ろす大剣が、ルーファスの旗本を次々と薙ぎ払う。
その刃は、ついにルーファスの目と鼻の先――本陣の天幕にまで肉薄した。
吹き荒れる風と血煙の中、血反吐を吐きながら大剣を構える老将の姿に、ルーファスは思わず不敵な笑みを漏らした。
「……老人め、やるな!」
自ら剣を抜き、殺気を放つルーファス。
だが、老将の執念も、そこが限界であった。
「――そこまでだ、ルニアの老兵」
アルバンの指示により、左右の森から迂回していた帝国の本隊が、バドックの決死隊を完全に包囲したのだ。
逃げ場はどこにもない。死地へと飛び込んだ三百の兵は、瞬く間に数を減らし、最後には全身に矢と槍を受けたバドック一人を残すのみとなった。
膝を折り、自身の剣を杖代わりにしながら、それでもバドックはルーファスを鋭く睨みつけた。
ルーファスは馬を降り、血に濡れた老将の前へ歩み寄った。
「見事な戦いぶりであった、バドック将軍。その知略と勇猛、惜しい。剣を捨てよ。臣下として我が軍に迎入れ、ルニアの治世を任せよう」
皇帝自らの異例の降伏勧告。
だが、満身創痍の老将は、血混じりの唾を地面に吐き捨て、不敵に笑い飛ばした。
「……ハッ! 誰が貴様のような侵略者に膝を折るか! わしはルニアの騎士だ……我が王と、我が故郷に命を捧げて散るのが誇りというものよ!」
「……そうか」
ルーファスは静かに目を閉じ、短く息を吐いた。
「総員、構えよ」
一斉に突き出される帝国の長槍。
「ライン殿……あとは頼んだぞ……!」
最後の力を振り絞り、バドック将軍は大剣を掲げて果敢に跳びかかり――無数の刃の中に、その壮絶な生涯を閉じたのだった。
◇
バドック将軍が、その命と引き換えに稼ぎ出した半日という時間。
それが、歴史の歯車を決定的に噛み合わせることとなった。
「……陸だ! ついに陸だぁぁぁッ!!」
ルニア王国の沿岸。
俺は船から転がり出るようにして陸へ上がり、地面にひれ伏して歓喜の声を上げた。
「ちょっとライン、だらしないよ?兵が見てるんだからシャキッとしなさい」
呆れたように俺の背中を叩いたのは、アルテだ。冷たく言い放ってはいるが、その手には水筒が握られており、俺にそっと差し出してくれる。
「うぐ……サンキュ、アルテ……。でもマジで死ぬかと思った……胃痛と船酔いのダブルパンチは人間が耐えられる域を超えてる……」
口をすすぎ、どうにか立ち上がった俺の視界に、兵船から次々と降り立っていく八万の軍勢が映る。
敗残兵の集まりだった彼らの顔には、すでに俺への絶対的な信頼と、戦う意志が宿っていた。
「ライン様。ルニア王国よりの魔導書簡です。」
レオンが告げたルニアからの一報。つい先ほど届いたばかりの、胸を抉るような極秘報が記されていた。
「……ルニアのバドック将軍が、討ち死にしたようです。わずか三千の兵で帝国軍を半月近く足止めし……最期まで降伏を拒んで散ったのだと。」
「バドック将軍が……」
俺は拳を強く握りしめた。
面識のない老将だ。だが、彼が帝国軍を相手に命を張って時間を稼いでくれたからこそ、俺たちの八万の全軍がこうして無傷でルニアの地に先回りできたのだ。
「……無駄にはしない」
俺は腹の底から湧き上がる激痛を押し殺し、鋭い眼光で全軍を見渡した。
「アルテ! ただちに予定通りの陣形を組ませろ! 前衛には重装盾兵を隙間なく配置し、対騎兵用の多重長槍陣を構築! さらに本陣の周囲には、魔狼の跳躍を完全に遮る連鎖網を三層に張るんだ!」
「了解。バドック将軍が作ったスキ、完璧に活かさせてもらう」
アルテが迅速に各隊へ指示を飛ばしていく。
老将の死を悼む暇すらない。だが、バドックが命をかけて繋いでくれたこの好機を、俺は絶対にドブに捨てる気はなかった。
重装兵の盾が組み合わされ、金属の硬質な音が響き渡る。
わずか数時間後には、ルニアの平原に「対・魔狼陣形」が完成していた。
◇
そして、夕闇が訪れる頃。
バドックの部隊を破り、破竹の勢いで平原へと進出してきたルーファス率いる帝国軍の前に、突如として立ちはだかったのは――巨大な鉄壁の陣陣であった。
「……なに?」
先頭を行くアルバンが、目を見開いて絶句した。
そこには、逃げ惑うはずのルニア軍ではなく、完璧な統制のもとに隙間なく組み上げられた八万の大陣営が存在していたのだ。しかもその陣形は、帝国誇る『魔狼部隊』の機動力と跳躍力を完全に殺すための構造をしていた。
陣の中心、掲げられた旗印は――オルティジア王国の獅子の軍旗。
馬上でその陣影を仰ぎ見たルーファスは、一瞬の沈黙の後、くつくつと低く笑い始めた。
「……クハッ、ハハハハハ! そうか、そう来たか……ライン!」
遠く離れた陣中、俺もまた、旗本越しにルーファスの漆黒の軍勢を見つめ返していた。
(……バドック将軍の繋いでくれた時間、そしてみんなの想い……全部背負って戦ってやる。ルーファス、お前の電撃戦は、ここで終わりだ!)
かつて固い絆で結ばれていた親友同士。
大陸の覇権と互いの信念を賭けた「ルニアの決戦」の火蓋が、ついに切って落とされたのである。




