第五十話:湖を渡る聖王、闇に蠢く三つ巴
電撃戦、という言葉すらぬるかった。
「……ルニアの国境要塞ゼルダが突破された。陥落まで、わずか三時間だ」
マルマラ湖のオルティジア陣営。
俺が提示した速報に、幕僚たちから息を呑む音が漏れた。
中央都市サラウを電撃制圧した帝国軍の新皇帝ルーファス・バルドアは、一切の足を止めなかった。サラウの倉庫に眠っていた膨大な物資と兵糧を力づくで収奪すると、その足でそのまま隣国ルニア王国へと侵攻を開始したのだ。
垂直の城壁すら駆け上がる魔狼部隊の圧倒的な機動戦の前に、ルニアの誇る国境防衛線は紙くず同然に破り捨てられたという。
「信じられない進軍スピードだね。サラウを落とした直後なのに、休む気ゼロじゃん」
デスクの横で腕を組み、冷ややかな眼光で地図を見下ろしているのはアルテだ。その表情には強い警戒心が宿っている。
「ルーファスはサラウの地下ゲリラに付き合う気がないんだ」
俺は地図の上の駒を動かした。
サラウの地下深くに潜伏したシャハールは、諜報機関サンド=アイを使って帝国軍の補給線や末端の部隊へ泥沼のテロ攻撃を仕掛けている。普通なら足止めを喰らう場面だ。だが、ルーファスはその補給線をあえて囮にし、被害を織り込み済みでルニアへとなだれ込んでいる。
「ルニアが落ちれば、このマルマラ湖の西側は完全に帝国の手におちる。そうなれば、湖上に留まっている俺たちの八万の軍勢は、陸からの補給を絶たれて干上がることになるんだ」
「要するに、高みの見物決め込んでた私たちの喉元に、直接ナイフを突きつけにきたってことね」
アルテが眉をひそめる。
「ルニアの使者から救援要請が届いてるよ。どうするのライン? このままここで防衛線を張る? それとも……」
「……いや。待っていたらジリ貧で殺される」
俺は深々と息を吐き出し、腹を括った。
恐怖がないと言えば嘘になる。だが、西側諸国の連合軍この八万の命を預かる指揮官として、俺はルーファスの先を行かなければならないのだ。
「湖を渡るぞ」
俺の宣言に、アルテが目を見開いた。
「敗残兵を糾合したこの八万の全軍率いて、マルマラ湖を渡る。ルニアの東部国境に先回りして、ルーファスの電撃戦を正面から受け止める!」
「……本気? 負け戦で怯えてた連中をまとめて、いきなり帝国軍とぶつける気?」
「だからこそだよ。ただ逃げ回るだけじゃ兵の士気は下がる一方だ。俺たちが先手を取ってルニアの陣地を確保すれば、勝機はある。……アルテ、全軍に通達を。出陣だ!」
アルテは一瞬だけ呆れたように息を吐いたが、すぐに口元を少しだけ緩めて頷いた。
「了解。腹括ったんなら付き合うよ。さっさと準備させるね」
◇
マルマラ湖の湖上。
かつて西側連合軍の敗残兵となり、希望を失いかけていた八万の兵士たち。
彼らを乗せた無数の軍船が、静かに、しかし力強く水面を滑り出していた。
「ライン最高顧問が、自ら陣頭に立ってルニアへ向かわれるぞ!」
「帝国軍の好きにはさせん! 我らの意地を見せてやれ!」
一度は叩きのめされた兵たちの瞳に、再び戦意の炎が宿り始めていた。
ライン・オルティジアという男が描く戦術方針が、彼らに「勝てるかもしれない」という希望を与えていたのだ。
巨大な軍船の甲板に立ち、風に髪をなびかせながら、俺は船酔いも忘れ、遠く霞むルニアの地平線を見つめていた。
(ルーファス……お前がどれだけ化け物じみたスピードで攻め込もうと、俺はもう逃げない。お前が狙う盤面の先に、俺が先に辿り着いてみせる)
◇
一方その頃。
廃墟と化したサラウの地下深くに張り巡らされた、暗く湿った隠し通路。
「……クックック、ハハハハ!」
松明の炎が怪しく揺れる暗闇の中で、不気味な高笑いが響き渡っていた。
豪華な衣装を汚し、サンド=アイの精鋭たちに囲まれながら、サラウの僭主シャハールが冷酷な瞳を輝かせていた。
「報告が入りました、シャハール様。オルティジアのラインが、マルマラ湖上に待機させていた八万の軍勢を動かしました。行き先は……ルニア王国です」
報告を受けたシャハールは、舌なめずりをするように口元を歪めた。
「そうか……動きおったか、ライン! 逃げ惑うだけの鼠かと思えば、ルーファスの首を狙って自ら罠へと飛び込むとはな!」
シャハールは手にしていた毒針を、壁の地図のルニア国境へ深く突き刺した。
「良いぞ、実に良い! ルーファスの凄絶な電撃戦と、ライン率いる八万の大軍勢……ルニアの地で、両者を泥沼の共食いにさせてやるのだ。互いに骨まで削り合い、疲弊しきったところを……我がサンド=アイの毒針で刺し貫いてくれる!」
帝国の絶対的な覇道。
オルティジアの完璧な戦術。
そして、地下から蠢く黒幕の猛毒。
三つの意志と意地が複雑に交錯しながら、物語の舞台は血煙舞うルニアの決戦場へと移っていくのであった。




