第四十九話:胃薬と、遠方からの便り
限界だった。
「……う、ぐ……」
俺は、執務デスクに突っ伏し、右腹を抱えて絶叫を噛み殺していた。
帝国軍の軍事革命、砂漠を越えてのサラウ陥落、地下に潜んだシャハールの暗躍、そして西側諸国のパニック……。連日連夜、次々と舞い込んでくる超弩級の報告と政略の処理に追われ、俺の胃はすでに蜂の巣状態であった。
「……ねえライン。胃に穴空いてない?」
呆れ返ったような声が、頭上から降り注ぐ。
デスクの端に肘をつき、気怠げな視線を向けてくるのは主席補佐官のアルテだ。相変わらずのクールな佇まいだが、その瞳には隠しきれない呆れと、ほんの少しの心配が混ざっていた。
「う……アルテ……。大丈夫だ、まだ胃薬を飲めば……」
「大丈夫なヤツの顔色じゃないし。土気色を通り越して青ざめてんだけど。……ほら、どいて」
アルテは俺の手に握られていたペンを強引に奪い取ると、デスクの上にうずたかく積まれた書類の山をバサリと自分の手元へ引き寄せた。
「今日の分の書類、私が適当に判押しといてあげるから。ラインは大人しく部屋行って寝てなよ」
「え、いや……でも、ルニア王国からの打診も処理しないと……」
「ハシゴ外してきた連中の世話なんて後回しでいいの。……それともなに? 私の命令が聞けないわけ?」
ジロリと見下ろしてくるアルテの冷ややかな視線。……うっ、なんでこんなに圧があるんだ。
「……すみません、お言葉に甘えさせていただきます……」
「よろしい。」
俺はアルテに追いたてられるようにして、半ば逃げるように執務室を後にした。
「あ、待って」
その時、アルテが俺の服の裾をキュッと掴み、引き寄せる。
「おやすみ。いつもありがとう。」
おでこにキス。
「ぬぉあっ!?」
俺が悲鳴をあげると、アルテは悪戯っぽい笑顔を見せ、
「今日はここまで。おやすみ。」
耳まで真っ赤にして執務室に戻って行った。
◇
自室のベッドで横になり、天井を見上げていた俺のもとへ、静かなノックの音が響いた。
「お兄ちゃん、おやすみのところ失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、ニナだった。
彼女の手には、湯気を立てる小さな小鉢と茶器が載せられたお盆が握られている。
「ニナ……? どうした?」
「ちぃねえからきいた。お兄ちゃんが倒れたって……これ、胃の粘膜を保護する薬草茶と、根菜の温かいスープ。食べれる?」
ニナはそう言って、ベッド脇のテーブルに小鉢を置いた。
「……ありがとう、ニナ。」
「ううん。……お兄ちゃんが元気じゃないと、オルティジアも……私もウチも困るから……。」
ふっと柔らかく微笑むニナ。その瞳には、深い慈愛と、ほんの少しの思わせぶりな温もりが宿っていた。
身体に優しく染み渡るスープの温かさに、俺の殺伐としていた心が少しずつほぐれていくのを感じた。
◇
「……私に働かせておいてずいぶんお楽しみみたいだけど…。 」
突然、バタンと乱暴に扉が開いた。
入ってきたのは、手に一通の封書を掲げたアルテだった。
「げっ! ちぃねえ!!べ、別にい、イチャついてないし!」
ニナが顔を真っ赤にして立ち上がるのを、アルテは「はいはい」と適当にいなしながら、俺のベッドの上へその封書を放り投げた。
「遠方から手紙届いたよ。差出人は……レイラ姉様」
「おぉ、レイラから!?」
俺は慌てて手紙を拾い上げた。
レイラ・オルティジア。我がオルティジア王国騎士団の副長であり、俺の義理の姉だ。
青みがかった美しい黒髪に、真紅のビキニアーマー、そして身の丈ほどもある巨大な金属塊――フランジメイスを振り回す、自他ともに認める超絶脳筋騎士。
黙っていれば誰もが振り返るほどの美人なのだが、中身が残念すぎることで知られている。現在は「己の武を磨く」と言って、単身で武者修行の旅に出ているのだった。
封を開けると、そこには相変わらずの汚い文字で近況が認められていた。
『敬愛するライン殿へ。
息災でおられるか。世間では世界大戦だと大騒ぎであるな!連日の過酷な激務で、もやしっ子の貴殿が胃を痛めておらぬか私は非常に心配である。
さて、私の近況について報告しよう。
私は現在、バレンティア王国の都市ベラルタへと到着したところだ。
かつては西の交易の中心地として栄えた街らしいのだが、現在はどういうわけか随分と寂れておる。しかしここには「探偵ギルド」なる組織が存在し、治安だけは無駄に良い街だ。
ベラルタへ向かう旅の途中、私は街道の真ん中で大欠伸をして通行を邪魔する、実に不躾で巨大な大蜥蜴に遭遇したのだ。
あまりに邪魔であったため、私は「道を開けよ」と一喝し、フランジメイスでその頭を一撃のもとに叩き潰して処分したのだ。
その後、ベラルタの街へ入ると、なぜか市民たちが私を取り囲み、涙を流して胴上げをしてきた。
話を聞くと、あの街道の大蜥蜴は「アースドラゴン」という竜種の端くれらしく、三十年前に住み着いて以来、隊商ルートを途絶えさせて街を廃れさせた元凶であったらしい。
図らずも三十年の脅威を討伐してしまったわけだが、まあ街道が通れるようになったのだから良しとしよう。ベラルタの市民からは「英雄レイラ様」と崇められ、毎日肉と酒を振る舞われておる。
帝国の軍勢が砂漠を越えたと風の噂で聞いた。難しい事は私にはわからぬが、ライン殿、貴殿の盾として成長し、有事の際には馳せ参じよう。近いうちにまた便りを書く。
――レイラ・オルティジアより』
「……ぶッ」
読み終えた瞬間、俺は思わず吹き出していた。
伝説のアースドラゴンを「街道を塞ぐ巨大なトカゲ」扱いして、メイスで頭をぶち開けて一撃討伐……。
相変わらず無茶苦茶である。
だが、どこまでも真っ直ぐで、己の武力だけで世界を切り拓いていくレイラの脳筋ぶりに、俺の心は驚くほど軽くなっていた。
「……ふふ、レイラらしいな。相変わらず無敵だなあ」
「ホント、あの人だけ住んでる世界が違うよね……。まあ、無事ならいいけど」
アルテも呆れつつ、どこか安心したように息を吐いた。
ニナも手紙の内容を耳にして、ケラケラ笑っている。
緊迫した戦況の中で、一瞬だけ訪れた穏やかな時間。
レイラのアホっぽくも頼もしい言葉に救われ、俺は久しぶりに心からの笑みを浮かべていた。
――そう、その平穏が、わずか数分で打ち砕かれるまでは。
◇
「……アルテ様」
バタバタと廊下を走ってくる足音が聞こえたかと思うと、部屋の扉が勢いよく開いた。
息を切らせて入ってきたのは、アルテの部下だった。
アルテがその紙を受け取り、目を通した瞬間
――その顔から、一切の戯れ言が消え失せた。
「アルテ……? どうしたの?」
ベッドから体を起こす俺に、アルテは冷や汗を垂らしながら、低く掠れた声で告げた。
「……ライン。休んでるところごめん。最悪なんだけど……緊急事態」
「……え?」
「帝国軍……サラウの中央都市から物資と糧食を根こそぎ接収して……そのまま、隣の『ルニア王国』国境へ向けて電撃侵攻を開始したって」
部屋の中の温度が、一瞬で凍りついた。
サラウの地下ゲリラを無視し、その物資を奪って次の獲物へとなだれ込むルーファスの冷徹な速攻。
穏やかな日常の空気は一瞬で吹き飛び、俺の胃は再び激しい激痛を訴え始めるのだった。




