第四十八話:暗夜の報せ、断ち切れぬ血の枷
中央都市サラウ。
幾重もの城壁を突破し、玉座の間を占領した帝国軍であったが、新皇帝ルーファス・バルドアの顔に勝利の浮かれた色は一切なかった。
「……また出たか」
豪奢な王宮の回廊。冷徹な声音で吐き捨てたのは、帝国軍最高参謀アルバンである。その足元には、黒い毒針を首筋に刺されて倒れた帝国兵の遺体が横たわっていた。
「これで今夜だけで四人目だ。補給処での不審火に、井戸への毒物の混入、さらには末端将校の暗殺……。都市を制圧したというのに、足元がまったく定まらん」
「シャハールめ。負けて逃げ出したというのに、真の牙は地下に隠していたか」
漆黒の軍服を纏うルーファスは、一瞥しただけで眼光を鋭くした。
サラウを裏から支配してきた僭主シャハール。彼は姿を消してもなお、この都市の息の根を握り続けていた。
サラウの地下深くに張り巡らされた網の目のような地下道と、そこに隠された莫大な裏資金。シャハールは自らの手先である砂の眼(サンド=アイ)を動かし、占領軍である帝国軍に対して凄絶なゲリラテロを仕掛けていたのだ。
「さらに」と、アルバンが手帳を開く。
「シャハールは西側の諸国や商会ネットワークに向け、大量の密使を放っている模様。『帝国は不可侵条約を破り、交易の民を殺戮する野蛮な侵略者である』とな。……これにより、我が軍の侵攻に対する西側諸国の警戒感は極限に達しつつある」
「……このサラウを、俺たちの底なしの沼にするつもりだな」
ルーファスは窓の外、静まり返りながらも異様な殺気を孕むサラウの夜景を見つめた。
都市の「表面」を占領したところで、地下の「根」を絶たねば勝利とは言えない。
シャハールは己の影を潜ませたまま、帝国軍をこの砂漠の都市に縛り付け、ジワジワと兵力を削り取ろうとしていた。
◇
同じ頃。
オルティジア王国の王宮執務室。
「あー……胃が痛い。マジで破裂しそう」
俺は、机に肘をついて頭を抱えていた。
「また胃薬飲む? だから言ったじゃん、帝国とサラウが潰し合ってくれてる間に、私がたちは高みの見物決め込んどけばいいって」
ソファーに背もたれて爪を磨きながら、だるそうに口を開いたのはアルテだ。その瞳にはどこか警戒の色が滲んでいる。
「高みの見物なんてできるわけないだろ……。ルーファスがサラウを数日で落としたってことは、俺たちの北方の安全保障が完全に崩壊したってことなんだからさ」
俺が深々と溜息をついた、その時だった。
トントン、と遠慮がちなノックの音が聞こえ、執務室の重厚な扉が開いた。
「……夜分遅くにごめんよ、ライン坊や」
姿を現したのは、シャルロッテ商会の代表――シャルロッテであった。
いつもなら凛とした商人らしい柔和な笑みを湛えている彼女だったが、今夜は着物の裾を固く握り締め、顔色を蒼白にさせていた。
「シャルロッテ? どうしたんだ、こんな夜更けに」
「坊やに、どうしても伝えなきゃならない情報があってね……」
シャルロッテはそう言いながら、手元に抱えていた一枚の皮の筒を机の上に置いた。
「これは……?」
「サラウの裏社会、および地下商人ネットワークから私のもとへ届いた最新情報だよ。……サラウを追われた僭主シャハールは、まだ諦めてないみたいだね」
シャルロッテの声が、微かに震えていた。
「シャハールは地下の裏資金を吐き出し、帝国占領軍へ果てのないゲリラ戦を開始した。そして……その毒針は、いずれこのオルティジアや西側諸国にも向けられる。裏の資金ルートを使って西側全体に対帝国の合意を形成させ、大陸全土を巻き込む長期の泥沼戦へと引きずり込む手はずさね。」
その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋に冷や汗が走った。
(負けて地下に潜ってもなお、大陸全体を盤面にして泥沼の戦争を演出しようとしてるのか……!? あの男、どこまで悪性なんだ……!)
「……シャルロッテ、なんでそんな裏の裏みたいな情報まで知ってるんだ? フツーの商人が手に入れられるレベルを超えてる気するんだけど」
アルテが、鋭い視線をシャルロッテに向けた。
シャルロッテの身体が一瞬、小さく跳ねた。
だが彼女はすぐに目を伏せ、深々と頭を下げて見せた。
「……シャルロッテ商会は、古くから砂漠の隊商ルートを使って商いをしていた。命懸けで情報を売り買いする裏の商人たちとの繋がりがあるのさ……ライン、気をつけな。シャハールという男は、味方であれ敵であれ、あらゆる存在を己の盤上の駒としか思ってない」
「……ありがとう、シャルロッテ。助かったよ。君の情報がなかったら、俺たちは後手に回るところだった」
俺が真摯に礼を言うと、シャルロッテはどこか切ない表情を浮かべ、静かに執務室を辞していった。
「ねえライン。あの人、なんか隠してない?」
扉が閉まった後、アルテが不審そうに呟いた。
「……誰にだって、人に言えない過去や事情の一つや二つはあるさ。ただ、彼女が俺たちのためにリスクを冒して情報を届けてくれたことだけは確かだ。今はそれを信じるしかない」
俺は机の上の羊皮紙を見つめながら、暗闇の中で蠢く影の不気味さに、再び深い溜息をつくのだった。
◇
王宮の離れにある、シャルロッテの自室。
静まり返った部屋の中で、彼女は一人、月明かりの下に佇んでいた。
その手には、先ほどラインに見せた皮の筒とは別に――もう一枚の、黒い蠟で封された密書が握られていた。
そこに刻まれていたのは、サラウの王家に伝わる暗号紋様。
『我が妹、シャルロッテへ。
息災で何よりだ。お前がオルティジアのライン・オルティジアの懐に入り込んでいることは知っている。
直ちに商会の全資金を我が潜伏拠点へ送金せよ。また、ラインの動向を逐一報告し、必要であればオルティジアの内部から混乱を引き起こせ。
お前の血と知恵は、我が偉大なる勝利のために捧げられるべきものである。拒絶は許されぬ』
文面から滲み出る、圧倒的な傲慢さと冷酷さ。
血分けた実の兄――シャハールからの直々の命令書であった。
幼い頃、自分を妹ではなく「使える手駒」としてしか見ていなかった兄の冷たい瞳が、脳裏に鮮烈に蘇る。
どれほど遠くへ逃げようとも、商人として自分の足で立とうと足掻こうとも、この呪われた血脈は自分を逃がしてはくれないのだと、絶望が胸を締め付けた。
(……お兄様。貴方はどこまでも、人間を……私を、壊し続けるのですね)
シャルロッテの目から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。
もし兄の命令に従えば、自分は生き残れるかもしれない。だが、その先にあるのは、ただ兄の狂気的な野心のために大陸が焼き尽くされる未来だけだ。
そして何より――あの胃を痛めながらも、民と仲間を守るために不器用に立ち向かうラインの温かな光を、泥で塗り潰すことになってしまう。
(……ごめんなさい、お兄様)
シャルロッテは震える手で、卓上の燭台の火へと密書を近づけた。
小さな炎が黒い蠟を溶かし、皮紙を舐めるように燃やしていく。
兄からの絶対の命令、そして兄妹としての最後の繋がりが、赤々と燃え上がり、黒い灰となって散っていく。
(私はもう、貴方の毒針にはなりません。私は……商人として、シャルロッテとして、ラインの描く未来にこの命を賭けます)
血の呪縛を自らの手で断ち切った瞬間であった。
窓の外、南の空には重々しい暗雲が垂れ込め、怪しい雷鳴が轟いていた。
地下から毒針を研ぎ澄ます実の兄と、それを阻むために立ち上がるライン。
二人の狭間に立ちながら、シャルロッテは二度と戻れぬ決意を胸に、静かに夜の闇を見つめ続けるのであった。




