第四十六話:砂塵の狼、砂漠の歪み
生きた心地がしなかった。
オルティジアの軍港に次々と担ぎ込まれてくる敗残兵たち。その身体の傷以上に惨劇を物語っていたのは、彼らの瞳に焼き付けられた狂気と恐怖だった。
「ライン陛下……! あれは……あれは悪魔です……!」
全身を返り血と泥で汚した連合軍、ヴァレンティア王国軍の将が、俺の軍服の袖を掴み、ガタガタと歯の根を鳴らしながら叫んだ。
「霧が出たんです! マルマラの湖畔に、突然不自然な濃霧が……! 視界を奪われ、索敵の魔力通信もすべて打ち切られました! 混乱する我らの陣の中に、奴らは突如として現れたのです……!」
「……何が現れたんだ?」
俺が静かに問うと、将校は狂ったように頭を振り乱した。
「狼です! 巨大な魔狼に跨がった、帝国の騎兵どもです! 従来の騎兵とはまるで違う……超高速で急旋回し、陣を食い破り、雑兵には目もくれず……我が軍の司令部と、魔術師部隊だけを正確に、ピンポイントで叩き潰していきました……!」
将校の言葉を聞きながら、俺の背筋に冷や汗が伝う。
(霧魔法で視界を奪い、広域妨害魔法で通信と索敵を断ち切り、その隙に魔狼騎兵で『中枢』だけを破壊して離脱する……)
かつて伝令用にすぎなかった魔狼を騎獣に仕立て、専用の魔導具と強化魔法で兵器化する。そして、通信遮断と精密急襲を組み合わせた複合戦術。
十五万の大軍がたった一日で崩壊した理由が、痛いほど理解できた。
(……ルーファス。お前はついに、戦場の常識そのものを塗り替える軍事革命を成し遂げちまったのか)
十五万の巨人をヘッドショットで打ち砕いた魔狼騎兵。
俺は敗残兵の再編軍を前に、帝国の新兵器が持つ底知れぬ脅威に固唾を呑んでいた。
◇
ルーファスの進撃は止まらなかった。
平地の会戦で連合軍を粉砕した帝国軍五万が次に向かったのは、本国への凱旋ではなく――帝国西部に広がる灼熱の巨災、「赤砂漠」であった。
目指すは、オアシス都市国家・サラウ交易領。
「……ルーファス。反シャハール派のガディラ族との折衝が完了した」
砂漠の入口、熱気が揺らめく陣幕内で、参謀アルバンが冷徹に告げる。
サラウ交易領は、元来数多くの獣人族の集落が集まってできた酋長制の国である。それを金力と強権で無理やり束ね、独裁を行っていたのがシャハールであった。
当然、虐げられてきた部族の集落の中には、シャハールへの激しい憎悪を滾らせる者が少なくない。
「買い取った情報は確かか?」
「ああ。金貨と、帝国での自治権の保障。それだけで彼らは喜んで我々の『案内役』を引き受けた。シャハールの強権政治が裏目に出た形だな」
強靭な獅子頭のガディラ族の酋長が、帝国の地図の上に地図にも載っていない秘密の地下水脈とオアシスのルートを指し示す。
「帝国軍の旦那。ここを通れば、砂嵐を避けてサラウの喉元まで行ける。井戸の掘り方もお前さんの工兵どもに教えるさ。……あの欲望の黒狐を首から叩き斬ってくれるなら、俺たちは道標にでも何にでもなってやる」
「……感謝する」
ルーファスは静かに頷いた。
大軍の砂漠越え。それを可能にしたのは魔法の力だけではない。
裏切りと買収によって手に入れた「現地住民の生存ノウハウ」、帝国工兵隊による井戸の掘削と保全、そして魔狼騎兵による先導と補給線の確保。
それらを緻密に組み上げた兵站の勝利であった。
帝国軍は砂漠の中に見えない街道を作り出し、確実にサラウの喉元へと迫っていった。
◇
サラウ交易領、北東の国境要塞。
ギラギラと照りつける太陽のもと、サラウの国境監視兵が欠伸を噛み殺していた。
「ふぁ……。今日も平和だ。もうすぐ交代の時間か。」
監視兵が、ふと遠方の蜃気楼に目を凝らす。
熱気で揺れる地平線の向こうから、巨大な影の群れが地響きと共に近づいてくる。
「……おい、何か来るぞ。隊商か?」
「バカ言え、この時期にこんな規模の隊商があるかよ……」
同僚が望遠魔導鏡を覗き込み――そのまま顔面を蒼白にして固まった。
「おい……嘘だろ……!?」
「どうした!?」
「旗だ……! 黒地に金の双頭鷲……あれは帝国の第三皇子…いや、新皇帝ルーファスの軍旗だ! それに……案内しているのは、東部のガディラ族の奴らだぞ!!」
「な……ッ!? 砂漠を……軍隊が……越えてきただとぉぉぉっ!????」
時に帝国歴540年、花冠の月、
打つ手なしと高をくくっていた天然の防壁は、自国が抱える統治の歪みと帝国の兵站によって無力化された。
甲高く鳴り響く警鐘。
何も知らず、宮殿で絶対の優位を誇っていたシャハールのもとへ、崩壊の足音が刻一刻と近づいていた。




