第四十五話:敗残の再編と、砂漠の誤算
帝国歴540年、花冠の月十日。
マルマラ湖を渡ってオルティジア王国へ押し寄せてきたのは、敗北と絶望の群れであった。
新皇帝ルーファス率いる帝国軍に完膚なきまでに叩きのめされ、潰走した西側諸国連合軍。
逃げ惑う敗残兵たちは、命からがら湖を渡り、不落の要衝オルティジアへと雪崩れ込んでいた。
かつて十五万を誇った軍勢は散り散りとなり、武器を捨て、恐怖に怯える姿へと成り下がっていた。
◇
「……負傷者の手当てを優先しろ。パニックになっている者は落ち着かせ、混乱を防ぐために一度武器を収めさせてから幕舎へ誘導するんだ」
マルマラ湖東岸、パルーマの軍港。
東部総督に任命したレオンと共に、俺はは自ら港に立ち、整然と指示を出していた。
「ライン様……」
レオンが、痛々しいものを見る目でラインの背中を見つめた。
「打ちのめされて逃げ戻ってきた味方を責めても意味はない。まずは温かいメシとベッドを与えてパニックを鎮め、指揮系統を作り直すのが先だ」
「はっ! ……報告いたします」
レオンが手元の羊皮紙をめくり、真剣な面持ちで言葉を続ける。
「湖を渡って当国へ落ち延びてきた連合兵、および我がオルティジアの常備軍を合わせ、現在再編可能な戦力はおよそ八万。これが現在の我が方の全戦力にございます」
「八万、か……」
ラインは湖の対岸――暗闇に包まれた帝国の地平を見つめ、深く息を吐き出した。
(十五万から八万まで減ったか……。だが、全員が『帝国の恐ろしさ』を骨の髄まで叩き込まれた兵だ。適当にかき集めた十五万より、腹を括った八万の方がまだ戦える)
俺の胸中にあったのは、逃げ場を失った男の腹の覚悟であった。
(ルーファス……。勝手に攻め込んだ連合軍は確かに愚かだったが、これ以上お前の進撃を許せば、このオルティジアも、そこに暮らす民も呑み込まれる。お前が皇帝として来るなら――俺はこの軍を率いて、全力でお前を迎え撃つ)
かつての友と、湖上で刃を交える運命。
ラインは静かに拳を握り締め、来るべき決戦の刻を待っていた。
◇
一方その頃。
マルマラ湖の北方、広大な砂漠とオアシスに囲まれた水上交易都市――サラウ交易領。
豪奢な宮殿の深奥にて、最高指導者である僭主シャハールは、水煙草の紫煙を緩やかにくゆらせていた。
その唇には、すべてを掌上で転がしている者の、冷酷で不気味な笑みが浮かんでいた。
「……ククク、実に愉快な展開だ」
シャハールは、卓上に広げられた大陸全図を見下ろし、細い指先で駒を弄んだ。
「連合軍十五万がたった一日で潰走し、ライン・オルティジアのもとへ逃げ去ったか。……ルーファスという男、存外にキレる牙を持っていたようだな」
傍らに控える仮面の側近が、低く問いかける。
「シャハール様。連合軍の崩壊により、西側諸国は激しく動揺しております。我がサラウの次の仕掛けは……?」
「焦るな」
シャハールは煙を吹き出し、琥珀色の瞳を怪しく光らせた。
「ルーファスが新皇帝となり、帝国の統率を取り戻したところで、焼け跡の国力が戻るわけではない。そしてライン・オルティジアは、逃げ込んできた八万の敗残兵を抱え込み、マルマラ湖上に釘付け状態となった」
シャハールの頭脳の中で、さらに惨酷で巨大な陰謀の糸が紡がれていく。
「これより我がサラウは、両陣営へ大量の裏資金と兵糧を供給する。……東の帝国と西側諸国、互いに引くに引けぬ状態を作り出し、数年に及ぶ泥沼の消耗戦へと引きずり込んでやるのだ。互いが血を流し尽くし、共倒れとなった果てに――このサラウが、大陸の絶対的な覇者として君臨する」
黒幕としての揺るぎない自信。
サラウは古来より「中立」を標榜し、帝国とも西側諸国とも不可侵の中立条約を結んでいる。
誰もがサラウの豊富な金と物資を頼り、サラウを直接攻めることなどあり得ない――その絶対の不可侵条約こそが、シャハールの不敵な笑みの根拠であった。
「ライン・オルティジア、そしてルーファス・バルドア。せいぜい我が描いた盤の上で、殺し合うが良い――」
シャハールが、優雅にワイングラスを傾けようとした、その時であった。
バアァァァン!!
狂ったような爆音とともに、宮殿の重厚な扉が叩き割られた。
「シャ、シャハール様ぁぁぁぁぁっ!????」
血煙を撒き散らしながら雪崩れ込んできたのは、全身を鎧で固めたサラウの国境警備隊長であった。その顔は恐怖のあまり白紙のように蒼白になり、目玉が飛び出さんばかりに見開かれている。
「な、何事だ! 礼儀を弁えぬか!」
「緊急報告にございますッ!」
警備隊長は床に激突するようにひれ伏し、ガタガタと全身を震わせながら絶叫した。
「て、帝国軍です! 新皇帝ルーファス率いる帝国軍本隊……およそ十万! 我がサラウとの間に結ばれた不可侵中立条約を一方的に破棄! 南部国境を破り、我がサラウ領内へ侵攻を開始いたしましたぁぁぁっ!!」
「……な、何だと……!?」
シャハールの手から、極上のワイングラスが床へ落ち、派手な音を立てて砕け散った。
紫色の液体が、白磁の床へ血のように広がる。
「ば、馬鹿な……!? 不可侵条約を……破棄しただと!?」
シャハールの思考が、完全に停止した。
帝国は内乱から立ち上がったばかりであり、西側の敗残兵を糾合したラインとマルマラ湖を挟んで対峙しているはずなのだ。
なぜ、その背後を丸裸にしてまで、中立国であるサラウへ全力で攻め込んでくるのか。
「ルーファス……! 貴様、狂ったか!? 西側のラインを放置して、なぜ我がサラウを攻める……!?」
シャハールは血の気が引いた顔で、激しい動揺に震えていた。
◇
一方その頃。
マルマラ湖の対岸、オルティジアの王宮高楼。
腹を括り、八万の全軍を率いて決戦に備えていた俺のもとへも、レオンからその衝撃的な報せが届けられていた。
「……え?」
俺は思わず冷え切ったハーブティーのカップが床へ落としてしまった。
「ルーファスが……不可侵条約を破って……サラウに攻め込んだ……?」
「は、はい……ライン様。帝国軍十万は我がオルティジアとの湖上決戦を完全にスルーし、全軍をもって南のサラウ交易領へとなだれ込みました……」
報告するレオン自身、開いた口が塞がらない様子で呆然と立ち尽くしている。
「………………」
ラインは数秒間、固まったように天を仰いだ。
そして次の瞬間、頭を抱えてその場に座り込んだ。
「なんでだよぉぉぉぉぉっ!? 俺、めちゃくちゃ覚悟決めたじゃん!! 八万の兵士まとめて『ここで止めるぞ!』とか格好いいこと言ったじゃん!! なんでサラウに攻め込んでるんだよあいつらぁぁぁっ!!」
「ラ、ライン様……!」
「中立条約破るとか一番やっちゃいけないやつでしょ!? なんでそんな無茶苦茶なことすんのルーファスぅぅぅっ!!」
腹を括った覚悟を完全に肩透かしされた脱力感と、新皇帝ルーファスの読めなさすぎる暴走に対する恐怖で、ラインの悲鳴が再び王宮に虚しく響き渡るのであった。




