第四十四話:数に沈むか、戦術に潰えるか
大陸中央、東西を分かつ巨大な内海『マルマラ湖』の東岸。
風が吹き抜ける広大な平野には、天を衝くほどの槍の群れと旗印がひしめき合っていた。
西側諸国連合軍――総勢一十五万。
「最高顧問ライン」の名を勝手に看板として掲げ、帝国の混乱に乗じて怒濤のごとく侵攻してきた大軍勢であった。
しかし、その陣容は圧倒的な数字とは裏腹に、歪極まりない代物であった。
ルニア王国軍:四万
セレネア王国軍:三万
ヴァレンティア王国軍:三万
各国諸侯軍:三万
傭兵団:二万
諸国の王や思惑、利権が複雑に絡み合った、まさに「寄せ集めの集合体」
戦場となる帝国本土の不慣れな土地で、総司令部からの伝令は錯綜し、互いの軍を牽制し合うあまり、指揮系統は開戦前から不気味な軋みを上げていた。
◇
一方、対するバルドア帝国軍――総勢五万。
数においては三分の一。
だが、新皇帝ルーファス・フォン・バルドアのもとに結集した彼らの士気は、天を突くほどに高かった。
マルマラ湖沿岸、小高い丘に陣を敷いたルーファス本陣。
眼下に広がる十五万の敵影を見下ろし、平民出身の将校フェリックス・ベルンハルトが、冷や汗を拭いながら呟いた。
「……壮観だな。十五万か。正面からぶつかれば、数に押し潰されるのは我が軍だ」
「それは違うぞ、フェリックス」
傍らに立つ参謀、アルバン・フォン・レーヴェンタールが、オパールの双眸を静かに細め、羊皮紙の地図を指し示した。
「何?」
「我々が戦うのは十五万人じゃない。あれは十五万人の兵士ではあっても、十五万人を動かす『一つの軍隊』ではない」
アルバンは冷酷な笑みを口元に浮かべた。
「あれは、互いを信用していない五つの異物が、たまたま同じ場所に並んでいるだけに過ぎん。……敵の最大の武器であるその巨体こそが、最大の弱点なのだよ」
ルーファスは腰の宝剣の柄に手を置き、静かに眼下の敵陣を見つめた。
「15万を一度に相手にする必要はない。敵を分断し、局地的に5万対3万を作り出して叩く。……行くぞ、我が軍の戦いを見せる」
◇
帝国歴540年、若葉の月三十日。
開戦の合図は、殺戮の魔法ではなく、「視界と音」の遮断によって切って落とされた。
夜明け直前。マルマラ湖から吹き付ける湿った風に乗り、帝国軍の術士隊が一斉に干渉魔法を展開した。
湖畔沿いに立ち込める濃厚な擬似魔導霧。
さらに音響の位相を狂わせる伝令妨害魔法が、連合軍本陣と各軍の間を断ち切った。
「な、なんだこの濃霧は! 左右の軍が見えんぞ!」
「本陣からの旗信号が見えない! 伝令を出せ!」
連合軍右翼を任されたセレネア王国軍三万の陣営で、悲鳴が上がった。
そこへ、音響魔法によって捏造された「本陣より命ず! 右翼は後退し左翼の補給を支援せよ!」という偽の咆哮が響き渡る。
「後退命令だと!? 総司令部は正気か!?」
右翼が困惑して後退を始め、中央のルニア王国軍は前進しようとし、左翼のヴァレンティア王国軍は待機。
十五万の巨大な巨人は、首と手足が全く別々の方向へと動き出し、自らの足を踏み合って大混乱に陥った。
「いま姿勢を崩した右翼へ、全軍突撃だ!!」
フェリックスの凄絶な号令が飛んだ。
帝国軍五万は、霧の中から電撃的な機動戦で右翼のセレネア王国軍三万だけに狙いを定めて殺到した。
これにより、十五万対五万の戦場は、局地的に三万対五万の包囲殲滅戦へと塗り替えられたのだ。
「ひぃぃっ! なぜ敵の全軍が我らだけに攻めてくる!? ルニア軍やヴァレンティア軍は何をしている!!」
助けを求めるセレネア王国軍。
しかし、霧と通信妨害により、目と耳を奪われた他の連合軍は、すぐ隣で味方が叩き潰されていることすら気づかない。
フェリックス率いる機甲部隊がセレネア軍の陣形を微塵に打ち砕き、潰走させると、その敗残兵たちがパニックを起こして後方の諸侯の軍へと雪崩れ込んだ。
「崩れたぞ! 敵の連鎖崩壊だ!」
アルバンの計算通りであった。
一箇所の崩壊は、互いを信頼していない寄せ集めの連合軍全体へ、伝染病のように恐怖と混乱を波及させていく。
「右翼が全滅したぞ! 帝国軍の伏兵は数十万だ!」
「騙された! この戦は負けだ! 逃げろ!」
一度始まった潰走は、もはや誰にも止められなかった。
総司令官の制止も虚しく、十五万の巨体は自らの恐怖によって自壊し、マルマラ湖沿岸の平原を我先にと逃げ惑う惨状と化した。
「追撃せよ! ただし深追いは避け、敵の指揮系統を完全に瓦解させよ!」
ルーファスの掲げる宝剣のもと、五万の帝国軍は三倍の敵を完膚なきまでに打ち破り、歴史に残る大勝利を収めたのだった。
◇
一方その頃。
マルマラ湖の対岸、オルティジア王国の王宮執務室。
「……そうか。十五万が、たった一日で崩壊したか」
ライン・オルティジアは、届けられた戦況報告書を静かに卓上へ置いた。
その顔から、いつものような軽薄さや逃避の怯えは消えていた。
「う、うん……ライン」
報告に訪れたアルテが、緊張した面持ちで言葉を続ける。
「ルーファス新皇帝は密霧と音響魔法で連合軍の通信を断ち切り、局地的な数的優位を作って連合軍を個別に粉砕。勝手に侵攻した我が西側諸国連合軍は完全に裏をかかれ……今や敗残兵がマルマラ湖西岸へと雪崩れ込んでいるよ。」
ギルバートが厳しい表情で付け加えた。
「連合軍の首脳部はパニックに陥り、西側諸国はパニック状態です。……もはや、ライン様が直接お立ちになり、全軍の指揮を執っていただくしか、ルーファスの進撃を止める術はありません」
ラインは深い溜息をつき、静かに立ち上がると、窓の外――マルマラ湖の向こうに広がる夕闇を見つめた。
(ルーファス……。兄たちを倒して帝国をまとめただけじゃない。あの支離滅裂な十五万の弱点を一瞬で見抜き、最小限の損害で叩き潰すほどの怪物になったか)
胸の奥を刺すような胃の痛みを覚えながらも、ラインの瞳に宿ったのは、退くことのできない男の「覚悟」だった。
(勝手に暴走した連合軍には自業自得だが……このままルーファスを勢いづかせれば、次は我がオルティジアが戦火に包まれる。あいつが皇帝として容赦なく来るなら――俺も全力で迎え撃つしかない)
ラインは振り返り、アルテとギルバートをまっすぐに見据えた。
「敗残兵を収容し、再編成する。……これよりオルティジアは全軍の防衛体制に入る。ルーファス・フォン・バルドアを、ここで止めるぞ」
「「はっ……!!」」
側近二人が深く頭を下げ、部屋を辞していく。
一人残された執務室で、ラインは自らの手に残る震えをそっと押し殺した。
(頼むから戦わずに済んでほしかったよ、ルーファス……。だが、お前が本気なら、俺も逃げるわけにはいかないだろ)
かつて友と呼び合った二人。
大陸の命運を賭けた「新皇帝」と「最高顧問」の、避けることのできない激突の刻が、静かに迫っていた。




