第三十九話:腹芸の空中戦
「――特命全権大使ハシム様、および使節団の皆様がご到着されました」
重厚な扉が開かれ、侍従の通告が応接室に響き渡った。
俺の心臓は、まるで早鐘のように脈打っていた。
デスクの下で、膝の上に置いた両手がカタカタと震えるのを、俺は必死で押し殺す。
(頼む……! 頼むから、争い事だけは勘弁してくれ……っ!)
胃の奥が雑巾を絞られるように痛む。
相手は東西の流通を握る大国、サラウ交易領だ。武力衝突はないにしても、あちらの狙いは間違いなく『ヴェルダ経済特区への外交的・経済的な圧力』に違いないのだ。
「……初めまして、ライン・オルティジア国王陛下。サラウ交易領が首長シャハール様が名代、特命全権大使ハシムにございます」
入ってきたのは、上質な絹の衣装を身に纏い、ターバンを巻いた壮年の男だった。
深く刻まれた目尻のシワと、一切の隙を見せない重々しい立ち振る舞い。まさに修羅場をくぐり抜けてきた熟練の外交官といった風構えだ。
そのハシムの左右には、鋭い目つきの従者が控えている。
一方、俺の陣営も負けてはいなかった。
俺の左側には、冷酷なまでに整った笑みを浮かべるシャルロッテ。右側には、腕を組んでハシムを睨みつけるニナ。そして俺の後ろには、真紅の瞳を冴え渡らせるアルテ。
(……威圧感が凄すぎるんだよ、周りのみんなも……!!)
俺は冷や汗を流しながら、必死で喉の奥の悲鳴を飲み込んだ。
◇
(……くっ、これがライン・オルティジア……!)
一方、対面に腰掛けたハシムは、背中に嫌な汗が吹き出すのを感じていた。
目の前に座る若き王――ライン・オルティジア。
彼は上質な茶を静かに口へ運ぶだけで、一言も発しない。その顔には一切の焦りも無く、ただどこか遠くを見据えるような、底知れない瞳をしている。
(恐ろしい……! 我がサラウの刺客(三獣士)を打ち破り、大首長直属の『最高級通行証』を奪っておきながら、その件について一切触れようともしないとは……!)
ハシムの脳裏に、出立前にシャハールから告げられた言葉が蘇る。
『あえて告発せず、ただの手土産として手元に留める……それこそが奴の無言の圧力だ』
(まさにシャハール様の仰った通りだ……! 『バルカでの不祥事の件、証拠は握っているぞ。どう対応するかはお前たちの出方次第だ』と、無言で我々を試しているのだ……っ!)
ハシムはゴクリと唾を呑み込んだ。
もしここでサラウ側が高圧的な態度に出れば、ラインはこの通行証を世界中に公開し、「中立国サラウが裏で他国の政情に干渉していた」という決定的な不祥事を暴露するだろう。そうなれば、サラウが何百年もかけて築き上げた『中立国としての信用』は地に落ちる。
(一隙も見せられん……! 迂闊な発言ひとつが、サラウの命取りになる……!)
◇
「……あの、ハシムさん」
静寂に耐えかねた俺は、ついに口を開いた。
これ以上、無言の睨み合いを続けられたら、俺の胃が穴だらけになって破裂してしまう。
「はっ……! 何でございましょうか、ライン陛下!」
ハシムが弾かれたように背筋を伸ばした。あまりの反応の良さにビクッとしてしまう。
(あかん、やっぱりサラウ側はめちゃくちゃピリピリしてる……! ここで下手に突っぱねたら、『ヴェルダ特区を潰す!』って本格的に経済制裁を食らうかもしれない……!)
俺は必死に頭を回転させた。
俺が望むのはただ一つ。平和だ。サラウと喧嘩なんてしたくないし、ヴェルダの経済特区だって、ただ皆が豊かになればいいと思って適当に厳罰化しただけなのだ。
「その……単刀直入に言わせてもらいます」
俺は両手をテーブルの上で組み、ハシムの目をまっすぐ見つめた。
これ以上、遠回しな探り合いをされるのは御免だ。俺の切実な本心をぶつけるしかない。
「我がオルティジアとしては……サラウ交易領と争うつもりは、サラサラありません」
「っ……!?」
ハシムの目が見開かれた。
「我が国のヴェルダ特区が、サラウの皆さんにとって脅威に見えているのかもしれません。ですが、俺たちはサラウの領域を侵すつもりも、あなた方の利益を横取りするつもりもないんです。……お互いの領分をしっかりと守り、適度な距離感で、平和的なお付き合い(貿易)ができれば……俺はそれで十分なんです」
(頼む……! 『特区を潰せ』なんて無茶な圧力をかけるのはやめてくれ! お互い干渉せずに、仲良く平和にやろうよ……!!)
俺は心の中で、必死に祈りを捧げた。
◇
(――なんという男だ……!!)
ハシムは戦慄していた。
ラインの発言。それは、ハシムの耳にはこう変換されて届いていた。
我がオルティジアとしては、サラウ交易領と公に争うつもりはサラサラありません(=通行証の件をバラして国際問題にするつもりはない)
しかし、お互いの領分をしっかりと守り、適度な距離感で(=二度とバルカのような裏工作で我が国の領域を侵すな。分かっているな?)
平和的なお付き合い(貿易)ができれば……(=証拠を揉み消してやる代わりに、我が国に有利な関税と優遇ルートを差し出せ)
(完敗だ……!! 弱みを握った上で、こちらの退路を用意し、拒否権のない選択肢を提示してきた……!!)
ハシムの額から、タラリと冷や汗が垂れ落ちた。
「……ライン陛下の……深いご配慮、痛み入ります」
「えっ?」
ハシムは深々と頭を下げた。その顔には、隠しきれない畏怖の色が浮かんでいた。
「我がサラウ交易領も、オルティジア王国との『平和的な関係』を強く望んでおります。……つきましては、我が方の誠意の証として、新たな貿易協定を提案させていただきたく」
ハシムは懐から、一通の羊皮紙を取り出した。
「今後、オルティジアから出荷されるすべての商品に対し、サラウ領内での関税を全額免除といたします。また、ヴェルダ特区とサラウを結ぶ専用の交易ルートを開設し、その維持費はすべて我がサラウ側が負担いたしましょう」
「……は!?」
俺は素で間抜けな声を上げてしまった。
関税全額免除……!? 直通ルートの維持費全額負担……!?
え、ちょっと待って。なんで経済圧力をかけに来たはずの大国が、こっちに破格すぎる超有利な条件を提示してきてるの……??
「陛下……!」
後ろにいたアルテが、震える声で感涙していた。
「あえて相手の不祥事を直接突かず、正論で退路を塞ぎ、自発的に最大の譲歩を引き出す……! これほど見事な外交戦、見たことがありません……!」
「……かわいい坊やだと思っていたけれど、本当に恐ろしい子だねぇ……」
シャルロッテが目を細め、怪しい吐息を漏らす。
「な、なによ……ウチのパパでもこんな条件、引き出せないわよ……!」
ニナまでもが、信じられないものを見る目で俺を見つめていた。
「ち、ちがっ……! 俺はただ、仲良くしましょうねって言っただけで――」
「ははっ! ライン陛下の『寛大なご処置』、誠に感謝申し上げます! では、直ちにこの協定書に調印を……!」
ハシムは、ラインが気が変わって「やっぱり通行証を公表する」と言い出す前にと、猛烈な勢いで書類を差し出してきた。
「あ、はい……」
俺はわけも分からないまま、流されるようにペンを走り走らせた。
◇
会談が終わり、ハシム率いる使節団は、まるで命からがら逃げ帰るかのように疾風のごとく王宮を去っていった。
手元に残されたのは、オルティジアに莫大な利益をもたらす、あまりにも一方的な超有利な貿易協定書。
「……なんでぇぇぇぇぇっ!?」
静まり返った執務室で、俺の悲鳴が虚しく響き渡る。
俺はただ、大国サラウからの経済圧力に怯え、穏便にお茶を濁して事なきを得たかっただけなのだ。
それなのに、なぜか俺の手元には、大国サラウを外交で完璧に屈服させたという恐ろしい戦果だけが残されてしまった。
(まただ……! また俺の知らないところで、俺が『冷徹な外交の天才』に仕立て上げられてるよぉぉぉっ!!)
「ふふ、ライン。これで我が国の財政盤石だね!」
「サラウとの直通ルートか……! シャルロッテ商会の総力を挙げて活用させてもらうよ」
「ウチだって負けないんだからね!」
盛り上がる三人を横目に、俺はガタガタと震える手でデスクの上の胃薬を掴んだ。
ことの真相は、バルカの第二王子がレイラへの腹いせのために雇った傭兵が、たまたま小遣い稼ぎに来ていたサラウの工作員だと言う事は、誰も知らない。
何一つ悪いことをしていないはずの王の悲鳴は、今夜も誰にも届かないのだった。




