第三十九話:勘違いの盤上戯曲
「――それ本当?ライン!?」
執務室に入ってきたのは、税収計算の書類の山を抱えたまま息を切らせているアルテと、そのすぐ後ろで肩を怒らせているニナだった。
「ひゃいっ!?」
デスクで独り、胃薬の瓶を握りしめて震えていた俺は、情けない悲鳴を上げて跳ね上がってしまった。
「あ、アルテ……ニナ……? 二人とも、仕事は終わったのか……?」
「そんなことよりライン! シャルロッテから聞いたよ! レイラ姉様がバルカ公国で、砂漠のサラウ交易領の特務工作員を退けて、通行証を強奪――いえ、お買い求め……じゃなくて、手に入れたってて言うのは本当なの!?」
アルテが普段の冷静さをどこへやら、真紅の瞳を爛々と輝かせて僕のデスクへ詰め寄ってくる。その手に握られた羊毛の布からは、先ほどシャルロッテが見て去っていった例の金色のメダルが覗いていた。
「え、ええと……手に入れたというか、レイラが綺麗な細工物のお土産だって言って手紙と一緒に送ってきたんだけど……」
「お土産……! 素晴らしい……完璧なカモフラージュだよ……!」
アルテはハッと息を呑み、感極まったように胸の前で両手を組んだ。
「あえてただのお土産として処理することで、我が国にサラウへの直接的な敵対意思がないと見せかけつつ、裏ではいつでもお前たちの国家機密を暴露できるという無言の圧力を与える……! バルカ公国の武闘大会という公の場を利用し、サラウの裏工作の証拠を合法的に奪取するなんて……! ライン、そこまでサラウの動向を見通してたんだね……!」
「……えっ?」
僕は固まった。
アルテが早口で捲し立てる言葉の意味が、すぐには脳に届かなかった。
(……はい? さ、サラウの裏工作……? 国家機密……? え、ちょっと待って……??)
冷や汗が、背筋をすーっと伝って落ちていく。
「ちょ、ちょっと待ってアルテ! サラウの裏工作って何!? レイラはただ武者修行に行って、珍しいメダルを拾ってきただけで――」
「うん、わかってる。 表向きはただの珍しいお土産だよね! そういうことにしておかないと、サラウ側もメンツを潰されて本格的な戦争を選ばざるを得なくなっちゃうもんね! さすがライン、大国を追いつめすぎない完璧な退路の用意……!」
「ちがっ、そうじゃなくて――!」
「お兄ちゃん!」
僕が必死に弁明しようとした瞬間、今度はニナが俺の腕にすがりついてきた。
「ウチのエスカンテ商会だって負けないんだから! サラウとの交渉ルートなら、パパに頼んで砂漠の裏ルートを使えるんだから! あの泥棒キツネの商会だけに良い格好なんて絶対にさせないんだからね!」
「ニナまで何を競い合ってるのさぁぁぁっ!?」
僕の悲鳴は、二人の熱気にかき消された。
◇
――待ってほしい。
整理しよう。僕の頭の中で、恐ろしいパズルのピースが組み合わさっていく。
(レイラ……君は一体、旅先で何を倒してきたんだ……!?)
シャルロッテの言葉。アルテの深読み。ニナの対抗心。
それらを総合すると、僕の置かれた状況は
――絶望的なまでに最悪だった。
(レイラは武者修行のついでに、大国サラウがバルカ公国で企んでいた国家規模のヤバい裏工作を粉砕して、その最重要証拠(通行証)を強奪してきた……ってこと……!?)
ガタガタと膝が震え出す。
(しかも! シャルロッテもアルテも……いや、きっとこのメダルを奪われたサラウ交易領すらも……『ライン・オルティジアが裏で糸を引き、大国サラウを脅迫するために仕掛けた高度な政治的な揺さぶり』だと思って、俺のことを見てるってことぉぉぉぉぉっ!?)
恐ろしすぎる。
俺は何もしていない。本当に、誓って何もしていないのだ!
ただ部屋で書類を減らし、平和にスープを飲みたいだけなのに、なぜか俺の手元には大国サラウの喉元を突き刺すナイフが握らされていることになっている。
「あ、アルテ……すぐ、すぐにそのメダルを厳重に封印して……! 誰にも見られないように……!」
「はい! サラウとの外交交渉の『最強の隠し球』として、金庫の最深部に保管するね! すぐに外交対策の予算案と、対サラウ用の特設部署を編制するよ!」
「ちがっ、外交交渉のためじゃなくて、ヤバいから隠したいだけで――ああっ、行っちゃったぁぁぁっ!?」
アルテは颯爽と書類を抱えて執務室を飛び出していってしまった。僕の本当の悲鳴など、彼女の完璧すぎる手腕の前には一切届かない。
「ウチもパパに手紙書してくる! 待ってろよキツネぇぇぇ!」
ニナもまた、謎の対抗心を燃やして走っていってしまった。
「……うぐっ」
俺はひとり取り残された執務室で、デスクに突伏し、胃薬の粒を直接口の中に放り込んだ。水なしで飲み込んだ胃薬は、ひどく苦かった。
(どうしてこうなるんだよぉ……。俺がいつ大国と暗闘を繰り広げたがったよ……。レイラ…早く帰ってきて俺を守って……いや、帰ってきたらまた新しい大国の機密を拾ってきそうで怖いよぉぉぉ……!)
◇
その頃。
オルティジアから遥か北方――熱砂の風が吹き荒れる砂漠のサラウ交易領。
オアシスの中心に聳え立つ巨大な宮殿『太陽宮』の最奥にて。
「――報告は以上です、シャハール様」
豪華な絨毯が敷き詰められた謁見の間に、平伏する影があった。
報告を受けた男――サラウ交易領の最高権力者にして、この大陸の東西の流通網双方を支配する僭主シャハールは、深々と石造りの玉座に身を沈めていた。
頭上には揺れる水パイプの煙。
琥珀色の瞳は冷たく、どこまでも深く澄んでいた。
「……ほう。バルカの第二王子が個人的に買い叩いた三獣士が、オルティジアの騎士一人に一蹴された、と」
「はっ……。三獣士の一人が所持していた、シャハール様直属の『サンド・アイの通行証』……それが、ライン・オルティジアの手元に渡った模様です。失態を犯した三獣士は処分いたします。……直ちに回収部隊、あるいは暗殺者を王都オルティジアへ放ちますか?」
配下の忠実な進言に、シャハールは煙管から紫煙をくゆらせ、低く失笑した。
「くく……愚か者が。そんな真似をしてみろ、こちらの負けを認めるようなものだ」
「は……? 負け、でございますか?」
「考えるがいい」
シャハールは優雅に脚を組み直し、指先で玉座の肘置きをトントンと叩いた。
「ライン・オルティジアという若造……。独立を果たし、ヴェルダ経済特区などという悪魔的なシステムを作り上げた男だ。そんな男が、手に入れた通行証を公にし、我がサラウの不正(裏工作)を大罪として国際社会に告発したか?」
「いいえ……。報告によれば、奪われた通行証は『義姉からのただのお土産』として、密かに王都へ持ち込まれたとのことです」
「それよ」
シャハールは細めた瞳に、妖しい知性の光を宿らせた。
「あえて告発せず、手元に『ただのお土産』として留める……。これこそが、あの若造の恐ろしいところだ。『いつでもお前たちの息の根を止められる』という無言の圧力を我らにかけ、優位な立場のまま、サラウを対等な交渉の盤上へ引きずり出そうとしているのだ」
「な……なんと……! では、あの若造は最初から我がサラウの存在を計算に入れ、バルカの事件を利用したと!?」
「そう考えるのが自然だろう。バルカの第二王子など、ただの使い捨ての駒に過ぎん。ライン・オルティジアは、最初からこの私を見ていたのだ」
シャハールは不敵な笑みを深めた。
銀河の歴史を陰から操る怪物のごとき思考回路。彼にとって、世界は巨大なチェス盤であり、ライン・オルティジアという名は、突如として盤上に現れた最も警戒すべき若きプレイヤーとして刻まれたのだ。
「フフ……久しいな。これほど骨のある差し手に出会ったのは」
「シャハール様……では、今後、サラウとしてはどのように動かれますか?」
「焦るな。刺客などという野蛮な手は使わん。あちらが政治的揺さぶりを仕掛けてきたのだ……こちらも極上の駒を指してやろう」
シャハールはゆっくりと立ち上がり、宮殿の窓から広大な砂漠を見下ろした。
「近々、オルティジアへ我が直属の特命使節団を派兵……いや、派遣する。ライン・オルティジア……お前が望む交渉の盤上に、乗ってやろうではないか」
サラウは中立国である。サラウには、オルティジアを直接攻撃する意図など最初からなかった。
しかし――ライン・オルティジアという存在を「自分と同等の怪物」と認定したシャハールは、一歩も引かず外交戦を仕掛ける決意を固めたのだった。
◇
「……はっくしょんっ!?」
王都オルティジア。
執務室で温かいスープを啜っていた僕は、盛大なクシャミをして鼻を抑えた。
「うぅ……寒気がする……。もう春なのに…絶対に風邪じゃない……何か恐ろしいものが俺の首元を狙っている気がする……」
真相――『バルカの第二王子がレイラに私怨で刺客を放ち、敗れた傭兵がたまたま身分証を持っていただけ』という、あまりにもくだらない事実を誰一人として知らぬまま。
俺の知らぬところで、大国サラウとの巨大な政治の嵐が、着々とその規模を膨らませていた。
「レイラ……お願いだから早く帰ってきてぇぇぇぇっ!!」
理由も分からず大国の影に怯える哀れな王の悲鳴が、今夜も虚しく夜空へと吸い込まれていくのだった。




