第三十五話:カリスマ会長と、砂漠からの風
セシリアが「ノー・マジック・ローテーション(ただの四輪作法)」を対帝国経済兵器として持ち去ってから、数日後。
王宮の執務室で、俺は、珍しく一人で書類仕事に向き合っていた。アルテはヴェルダの税収計算、ニナは例の「水着禁止」になった画集の修正打ち合わせで不在だ。
(……ふぅ、束の間の静寂だな。誰にも脅かされず、誰にも勘違いされない時間は最高だ……)
俺が淹れたての紅茶に手を伸ばそうとした、その時。
「――あら、随分と寂しそうな顔をしているのね、ふふっ」
窓枠を越えて、甘く妖艶な声が響いた。
振り返ると、そこには豪奢な毛皮を羽織り、ゆったりとしたシルクのドレスを纏った美女が、優雅に執務室のソファへ腰掛けていた。
頭上でぴんと立った、しなやかで美しい黒い狐耳。そして、気だるげに揺れる大きな尾。
ニナの実家である老舗『エスカンテ商会』を猛追し、新興勢力として大陸中にその名を轟かせる塩商人、『シャルロッテ商会』のカリスマ会長――シャルロッテ・ローゼンだった。
「シャルロッテ……!? お前、警備をどうやって潜り抜けて――」
「あら?正門から堂々と入ってきたよ? 『オルティジアの若き偉大な国王様へ、極上の商談を差し上げに参りました』と言ったら、騎士の方々が快く通してくれたよ。」
シャルロッテは長い指先で髪をかき上げると、滑らかな足取りで俺のデスクへと歩み寄ってきた。
ふわっと漂う、異国の上質な香水の匂い。彼女はデスクに両手をつき、俺の顔を覗き込んできた。琥珀色の瞳が、肉食獣のように妖しく光る。
「相変わらず、守ってあげたくなるような顔をしているねぇ……私のかわいい坊や」
「ぼ、坊やはやめろ。俺は一国の王だぞ」
「ふふ、ごめんなさいねえ。でも、独立を勝ち取ったというのに、相変わらず胃を痛めていそうな顔をしているから、つい甘やかしたくなっちまうのさ」
シャルロッテは首を傾げると、長い狐耳をぴくぴくと揺らしながら、俺の頬に吐息が届くほどの距離まで顔を近づけてきた。
◇
「で……何の用だ? シャルロッテ商会の会長が、わざわざアポイントなしで国王の執務室に忍び込むなんて、タダ事じゃないだろ」
俺は身体を少し引きながら、警戒感を露わにした。
シャルロッテはクスクスと笑い、俺のデスクの上に一枚の『金色の羊皮紙』を置いた。
「用件は一つさ。我がシャルロッテ商会も、あのオルティジアの誇る『ヴェルダ経済特区』へ全面的に参入させてもらおうと思ってねぇ」
「ヴェルダに……? あそこは今、アルテたちのせいで(というか俺の発言のせいで)、商人がお互いを監視して密告し合う、息の詰まるような監視社会になっているんだぞ? 新興の君たちが参入しても、古参の商人に狙われて資産を没収されるのがオチだ」
「あら、坊やは本当に優しいんだね」
シャルロッテは楽しそうに目を細めると、俺の手の上にそっと自分の手を重ねてきた。柔らかく、かすかに温かい感触に心臓が跳ね上がる。
「でもね、商売人にとって『ルールが厳格で、誰も暴力や買収でズルができない場所』ほど、魅力的な市場はないのさ。あの制度……『トラブル当事者の資産を没収して第三者に分配する』という悪魔的なシステム、実に素晴らしいよ。ズルをした古参の大店ほど、あっさりと潰せるんだからねぇ」
(……ここにもいた。俺の適当な厳罰化発言を『悪魔的な神システム』として絶賛する奴が……)
「エスカンテ商会のような老舗は、これまで積み上げた権力と人脈で市場を独占してきた。でも、ヴェルダではその権力が通用しない。正当な『商品の質』と『情報力』だけで勝負できる……新興の私らにとってみれば、あそこはまさに天国さね」
シャルロッテの瞳に、野心と鋭い知性が宿る。
さすがはカリスマ経営者だ。あのディストピア化されたヴェルダを、古参破壊の攻略法として利用しようとしている。
◇
「ちょっと待ったぁぁぁぁぁぁっ!!」
バンッ!! と執務室のドアが盛大に叩き開けられた。
飛び込んできたのは、顔を真っ赤にしたニナだ。
向日葵の柄のビキニ姿である。
あれほど水着はダメだって言ったのに…
「なになに!? なんでウチのいない隙に、この泥棒キツネが入り込んでるの!? お兄ちゃんから離れなさい!」
「あら、乳臭いガキンチョが戻ってきたのかい。……相変わらず、エスカンテ商会のお嬢様はお育ちがよろしくなくてこまるねぇ」
シャルロッテは手を離すどころか、煽るように俺の肩に腕を回し、胸を押し当ててきた。
「なっ……! お、お兄ちゃんに何触ってんのさ! 離れろ〜!」
「ふふ、妬いてるのかい? かわいいねぇ。でもニナちゃん、商売の話だよ。エスカンテ商会が『ニナの変なブロマイド』で浮かれている間に、我がシャルロッテ商会はヴェルダの物流拠点を半分押さえさせてもらったよ」
「な……なんですって!? ウチのパパが『ヴェルダの港はウチが仕切る』って言ってたのに!」
「お父様に教えて差し上げたら? 『時代遅れの老舗は引っ込んでいなさい』ってね」
バチバチと火花を散らす二人。
ニナが狐耳を引っ張ろうとし、シャルロッテがそれを優雅にかわす。いつも通りの光景だが、シャルロッテはふと、余裕の笑みを浮かべてニナから視線を外し、俺に向き直った。
「そうそう、坊や。ヴェルダへの参入と引き換えに、一つ面白い手土産を用意してあげたよ」
「手土産……?」
「ええ。我がシャルロッテ商会の持つ、特別なルートから届いた情報さね」
シャルロッテは声を潜め、俺の耳元へ顔を寄せた。
「大陸の中央……巨万の富と未知の魔導技術が眠る、砂漠のサラウ交易領。……あそこの代表がね、オルティジアの独立と、坊やの作ったヴェルダの経済システムに強い興味を示しているのさ」
「砂漠のサラウ……!?」
俺は息をのんだ。
サラウ交易領といえば、広大な砂漠の向こうに存在する、大陸最大の交易国家群だ。過酷な環境ゆえに他国の侵攻を寄せ付けず、独自の強力な軍隊と膨大な資金力を持つ、不干渉の中立国。
「近いうち、サラウからの使者がオルティジアを訪れるかもしれないね。彼らはバルドゥア帝国とも、西側の国とも対等に渡り合う連中だからね……。エスカンテ商会のような古い流通網しか持たないお店じゃ、サラウの商人たちと渡り合うのは無理だろうね」
「くっ……! 言ってくれるじゃない!」
悔しそうに歯噛みするニナを横目に、シャルロッテは優雅に俺の頬にチュッと音を立てて口づけをした。
「フフッ…… 坊やの顔、真っ赤ね。可愛い」
「し、シャルロッテ……っ!」
「これは挨拶代わりだよ。サラウとの交渉が必要になったら、いつでも私を頼りなさいな、『かわいい坊や』。私はいつでも、あなたの味方になってあげるわ……エスカンテの小娘よりも、ずっと役に立つと思わないかい?」
シャルロッテはウィンクすると、呆然とする俺と激怒するニナを残し、風のように優雅に執務室を去っていった。
「キーッ!! 絶対許さない! お兄ちゃん、今すぐあのキツネの商会に重税をかけて!」
「……はぁ、胃が痛い……」
ヴェルダの拡大、新興勢力の参入、そして「サラウ交易領」からの視線――。
独立を果たしたオルティジア王国を巡る経済と外交の渦は、ラインの扱い知らぬところで、さらに大きく広がろうとしていた。




