第三十四話:委員長の憂鬱と、甘い既視感
我が国最強の暴力装置――もとい、レイラが武者修行のために大陸へと爆走していってから、数日が過ぎた。
庭園の壁に開いた巨大な風穴(レイラが着地した痕)を職人が修復する音だけが響く、平和な午後。
俺は、執務室で山積みの書類と格闘していた。
「……はぁ。レイラがいないと、城が静かすぎて気味が悪いな」
「静かで結構じゃない。あの人がいると、一日一回は壁か床の修繕費が発生していたんだから」
呆れたような、しかしどこか規律正しい声で返してきたのは、我が国の食客という名目で滞在している美女――セシリア・アルテンブルクだった。
バルドゥア帝国の現宰相、アルテンブルク侯爵の娘。
かつて俺が帝国で人質同然の士官学校生活を送っていた頃の、同期にして口うるさいクラス委員長のような存在だ。
燃えるような赤い髪を綺麗にまとめ、帝国の軍服に身を包んだ彼女は、手際よく書類の山を仕分けていく。
「それにしても、セシリア。君にまで内政の手伝いをさせてしまって申し訳ないな。」
「な、勘違いしないでちょうだい!」
セシリアはピクッと肩を揺らすと、バシッと書類をデスクに叩きつけた。美しい頬が、かすかに赤く染まる。
「私はただ、タダ飯を食うのが性に合わないだけよ! それに、あなたが無能なせいでオルティジアが破綻したら、私の居心地まで悪くなるでしょ!? だから手伝ってあげているの! 変な誤解しないでよね!」
「あ、はい。すみません……」
相変わらずの態度だ。
だが、士官学校時代から変わらないこの厳しい真面目さに、俺は密かに何度も救われてきたのも事実だった。
◇
「……でも、不思議なものだな」
俺はペンを止め、セシリアの横顔を見つめた。
「何よ。私の顔に何か付いてる?」
「いや。帝国にいた頃は、まさか君とこうしてオルティジアの執務室で並んで書類仕事をするなんて、思いもしなかったと思ってさ。あの頃の俺は、帝国の目を盗んで生き残るのに必死だったし、君はいつも俺の不真面目さを怒っていたからな」
「……当たり前でしょ。あなたのあの不真面目さは、士官学校でも群を抜いていたわ。授業はサボるわ演習は逃げ出すわ……」
セシリアはふんと鼻を鳴らしたが、その瞳にはどこか懐かしそうな色が浮かんでいた。
「……それに」
セシリアが、ぼそっと小さな声で呟いた。
「なに?」
「な、なんでもないわよ! ほら、思い出話に浸ってないで手を動かしなさい! 次は農業改革案と帝国との貿易協定の見直しよ!」
セシリアは慌てて書類を俺の前に押し付けてきたが、彼女の耳の先端が真っ赤になっているのを俺は見逃さなかった。
(……まさか、あの時の……?)
俺の脳裏に、祝勝会のパーティの夜の記憶が蘇る。
マルマラ湖で帝国艦隊を撃退した後、普段は絶対にお酒を飲まないセシリアが、開放感からか、果実酒を飲みすぎて泥酔したのだ。
そして俺の唇に勢いよく自分の唇を押し付けてきた、あの事故のような初キスを。
(……いやいやいや! あれは事故だ! 酔っ払いの過ちだ! 蒸し返したら殺される……!)
俺は必死で首を振り、雑念を振り払うように書類に目を落とした。
◇
「で、農業改革案だけど……」
セシリアが気を取り直したように、書類の一節を指差し、身を乗り出してきた。ふんわりと、彼女の甘い髪の香りが俺の鼻腔をくすぐる。
「オルティジアの東部領地、元々は男爵領だった場所だけど……あそこは土壌が痩せていて、小麦の生産効率が非常に悪いわ。ライン、何か打つ手はある?」
「東部か……。あそこは昔から魔導施肥(魔法による土壌改良)に頼りすぎて、逆に土の霊脈が枯れかけているんだよな」
俺は少し考え、士官学校時代に学んだ基礎的な農学の知見を思い出していた。
「魔法に頼るのをやめればいい。土壌を休ませるんだ」
「休ませる……? 今、収穫量を増やさないといけない時期に?」
「ただ休ませるんじゃない。小麦の代わりに特定の豆類を植えるんだ。豆の根には土を豊かにする力がある。さらに、その豆を家畜の餌にし、家畜の糞を肥料にして土に戻す。……つまり『魔法を使わない、自然の輪環』を作るんだよ」
俺が意図したのは、帝国図書館で目にした「四輪作法(ノーフォーク農法)」の超基本的な応用だった。魔法に頼り切ったこの世界の農業に対する、地道な土壌改善案だ。
だが――セシリアの受け取り方は違っていた。
「魔法を使わない……自然の輪環……?」
セシリアは目を見開き、震える手で俺の書類を握り締めた。
「……ライン。あなた、まさか……帝国の貴族たちが独占している『高価な魔導肥料市場』を、根底から破壊する気!?」
「え……? いや、市場を破壊とかそういう大げさな話じゃ――」
「いいえ! 間違いないわ! 帝国のアルテンブルク家を含め、大貴族たちは魔導肥料の利権で莫大な富を得ている。でも、あなたが提案した『豆と家畜による完全自給型の土壌再生法』が広まれば、オルティジアは帝国から高い肥料を買う必要が一切なくなる……! それどころか、この技術が諸国に広まれば、帝国の農業利権は壊滅するわ!」
「いや、セシリア、俺はただ土を休ませようと――」
「凄いわ、ライン……! 武器や魔力ではなく、ただの豆と家畜という素朴な自然の仕組み一つで、帝国の経済的支配を切り崩すなんて……! あなた、士官学校の頃からずっと、こんな恐ろしい経済兵器を頭の中で温めていたのね……!?」
セシリアの瞳が、尊敬と感動、そして恐怖でキラキラと輝き始めた。
(……ちがう。俺はただ、地道に美味しい野菜が食べたいだけなんだ……!)
またしても俺の普通の発言が、元・帝国の優秀すぎる委員長の頭脳によって「対帝国・経済兵器」として解釈されてしまった。
◇
「分かったわ、ライン。この『ノー・マジック・ローテーション計画』、私が責任を持って東部領地に定着させてみせるわ!」
セシリアはバッと立ち上がると、胸の前でキュッと拳を握り締めた。
「あなたが……私や私の実家に気を遣って、この計画を躊躇していたなら、そんな心配は無用よ! 私はもう、オルティジアの……あなたの力になると決めたんだから!」
「せ、セシリア……?」
「私を頼りなさい! 私はあなたの同期なんだから! ……それに」
セシリアはふいっと顔を背け、赤くなった頬を隠すように髪を弄った。
「……あの夜言ったこと、私は忘れてないんだからね」
「……え?」
俺の心臓がドキンと跳ね上がった。
あの夜って……まさか、卒業パーティの泥酔キスのことか……!?
「あの時……『私を見て』って言ったでしょ。……政治的なパートナーとしてだけじゃなくて、もっと……私自身を見てほしいって……」
「っ……!?(覚えてたぁぁぁぁぁぁっ!?)」
「だから! 私がこの計画を成功させて、あなたにとって不可欠な存在になってあげるわ! 覚悟しておきなさいよね、バカライン!」
セシリアは真っ赤な顔で言い放つと、書類の山を抱えて、逃げるように執務室を飛び出していった。
「……あ、あの……セシリアさん……?」
一人残された執務室。
俺は真っ赤になった顔を手で覆い、机に突っ伏した。
(……レイラは暴力で暴走し、アルテは耳元でお世継ぎを迫り、ニナは水着画集で稼ごうとし、セシリアは過去の泥酔キスを覚えていて経済兵器を推進する……)
「……誰か、俺に休戦協定をくれ……」
独立を勝ち取った王の胃痛は、彼女たちの愛と勘違いによって、今日も深まるばかりだった。




