第十三話:帝国宰相の受難と、愛娘の決断
バルドゥア帝国の首都――帝都ヴァルハイト。
巨大な黒理石で造られた重厚な宮殿の一角に、帝国宰相アルブレヒト=フォン=アルテンブルクの執務室があった。
部屋を包むのは、針が落ちる音すら憚られるほどの重苦しい静寂。窓から差し込む夕闇の光が、執務机に腰掛ける男の影を長く伸ばしていた。
「……もう一度言え」
低く、地鳴りのような声が響く。
「は、はっ! オルティジアの港より、我が国の捕虜七千人を乗せた帰還船が本国へ向けて航行中との一報が入りました! 敵国ラインは身代金も要求せず、全員を無条件で解放したとのこと……!」
報告に赴いた伝令官は、床に膝をつき、全身をガタガタと震わせていた。
「……セシリアはどうした。帰還船に乗っているセシリアの姿は、確認されたのか?」
「……報告によれば、セシリア様は帰還船には乗られておられません。老将ヴァルター卿の必死の説得を断り……自らの意志で、ラインの元に留まられた模様です」
「……何……?」
宰相の手から、報告書が力なく落ちた。
羊皮紙が床に落ちる乾いた音が、静寂の執務室に虚しく響く。
「……全員、下がれ」
「は、はいっ! 失礼いたします!」
宰相の短い命を受け、伝令官たちは命からがらと言わんばかりに執務室から逃げ出していった。
重厚な扉が重々しい音を立てて閉じられ、部屋の中に残されたのは、宰相アルテンブルクと、その傍らに静かに佇む老将ヴァルターの二人だけとなった。
静寂が、再び室内を支配する。
先ほど船で帰還したばかりのヴァルターは、泥と潮風に汚れた軍服のまま、じっと主君の背中を見つめていた。
帝国全土を冷徹な知性と辣腕で支配する男、アルブレヒト。その広い背中が、いまや信じられないほど小さく、痛々しく丸められていた。
「……ヴァルター」
「はっ」
「セシリアは……我が愛しのセシリアは……本当に戻らんのか……?」
「……左様にございます、閣下。セシリア様は、自らの意志でラインの傍に残ると……」
ヴァルターが絞り出すように答えた、次の瞬間だった。
「うわあああああああああんッ!! セシリアちゅぁぁぁぁぁぁんッ!!」
ガタァンッ! と凄まじい音を立てて椅子が倒れた。
帝国の頂点に立つ男が、執務机に両肘をついて頭を抱え、文字通り「子供のように」顔をぐしゃぐしゃにして号泣し始めたのである。
「なんでだぁぁぁッ!? なんで帰ってきてくれないんだセシリアちゅぁぁぁんッ! パパが…っパパが嫌いになったのかいっ!? 実家が嫌になったのかいっ!? あんな何処の馬の骨とも知れん男のほうが良いっていうのかぁぁぁッ!?」
「か、閣下……! お声が大きすぎますぞ! 外に漏れ聞こえましたら……!」
ヴァルターは慌てて部屋の周囲を警戒したが、どこか慣れた様子で深く溜息をついた。
世間では冷血無比な政治家として知られるアルテンブルク侯爵であったが、その実態は、一人娘のセシリアを異常なまでに溺愛する、極度の親バカであった。彼女の幼少期から世話をしてきたヴァルターだけが知る、この男の唯一にして最大の致命的な弱点である。
「うっ……うぐっ……! ヴァルター、お前説得したんだろうな!? 『父上が寂しさのあまり毎夜姿絵の前で泣いている』って伝えたんだろうな!?」
「伝えておりません! 『夜を明かしておられます』とオブラートに包んでお伝えしました! 本当に『寂しくて泣いている』などと伝えたら、セシリア様がドン引きして余計に帰ってこなくなりますぞ!」
「なんだとぉ!? 嘘でもいいから『父さんが寂しくて死にそうだ』って言えよ! 娘の情に訴えかけろよ!」
「無理に決まっているでしょうが! そもそもセシリア様は、ラインという男に完全に心を奪われておられます!」
「――ッ!?」
ヴァルターの一言に、宰相はまるでピシャッと雷に打たれたかのように固まった。涙でドロドロになった顔を上げ、血走った目で老将を睨みつける。
「……心を、奪われた……? あのお堅くて、男嫌いで、政治の道具にされるのを何より嫌っていたセシリアちゅぁんが……?」
「左様にございます……。ラインは、身代金も要求せず七千の兵を無条件で送還したばかりか、セシリア様に対しても『自分の人生くらい自分で選びな』と言い放ちました。力で縛るでもなく、政治のカードとして利用するでもなく……一人の人間として自由に生きる道を示したのです。それに感銘を受けたセシリア様は、自らの意志で彼の手を取られた……」
ヴァルターの報告を聞くうちに、宰相の顔から徐々に泣き顔が消えていった。
代わりに浮かび上がってきたのは、あまりの衝撃に対する深い戦慄と、冷や汗であった。
「……何という、男だ……」
宰相は震える手で自分の額を押さえた。
「莫大な政治的価値を持つ我が娘を眼前にしながら、人質として使わず、逆に『自由』を与えて自発的な忠誠と愛情を勝ち取ったというのか……? 身代金を取らずに七千の兵を返して『慈悲深き名君』の評判を確立し、さらに我が愛しのセシリアちゃんを完膚なきまでに懐柔してみせた……」
(……恐ろしい。恐ろしすぎるぞ、ライン何某……! まんまと奴の策にはまったというわけか……!)
ヴァルターは主君の思考が物凄い勢いで「ライン=神算鬼謀の怪物」という方向へ脱線していくのを感じたが、あえて訂正しなかった。事実、結果だけ見ればそうとしか思えないからだ。
「ヴァルター……もし今、私が軍を率いてパルーマへ攻め込み、セシリアちゃんを力ずくで奪還しようとしたら……どうなる?」
「……セシリア様からは『最低のクソ父親』と罵倒され、二度と口を口を聞いていただけなくなるでしょうな。下手をすれば『敵国の王の側近』として、本気で我ら帝国と敵対されるかと」
「嫌だああああああッ!! それだけは絶対に嫌だぁぁぁッ!!」
宰相は再び頭を抱えてのたうち回った。
「嫌われたくない! セシリアちゃんに『しつこいクソ親父』って蔑みの目で見られるなんて……それも気持ちいいかもしれないけどっ!!やっぱり耐えられない! 絶交されたら私は生きていけない!!」
「閣下、お見苦しいですぞ!」
「ええい、黙れ! 決めたぞ! 和平だ! ラインと不侵犯条約を結ぶ!!独立などみとめてやればよいのだ!」
「な……っ!? 和平にございますか!?」
ヴァルターは目を見開いた。親バカの錯乱から出た言葉とはいえ、それはあまりにも重大な政治的決断であった。
「そうだ! 奴と戦えばセシリアちゃんに嫌われる! ならば奴を『正式な隣国の王』として認め、友好条約を結ぶしかない! 幸いにも奴は七千の兵を無傷で返してくれたんだ、『平和を愛する慈悲深き王』として称えて和睦の口実にすれば、本国の世論も誤魔化せる!」
宰相は素早く涙を拭うと、先ほどまでの醜態が嘘のように、鋭い政治家の目つきを取り戻した。
「セシリアちゃんに嫌われないため……いや、帝国の崩壊を防ぐためだ! 今すぐ御前会議を招集しろ! 帝国軍の全面撤退と、ラインとの和睦を提唱する!」
(……親バカの動機とはいえ、結果として『ラインの底知れぬ威容』に怯えて和睦を選ぶとは……。ライン陛下、貴方の計略はどこまで見通されているのだ……)
ヴァルターは一人、バルコニーで出会ったあの青年の恐ろしさに身震いするのだった。
だが――その時だった。
バンッ! と爆音のような音を立てて、執務室の重厚な扉が力任せに蹴破られた。
「不侵犯条約だと!? 戯れ言を抜かすな、宰相ッ!!」
怒号とともに部屋へ踏み込んできたのは、派手な意匠が施された軍服を纏った一人の青年だった。
鋭い眼光、跳ね上がった金髪、そして全身から溢れ出るような強い自負と苛立ち。バルドゥア帝国第三皇子――ルーファスであった。
「ルーファス殿下……! 執務室へ非公式に乱入するなど、いくら皇子殿下とて無作法が過ぎますぞ!」
ヴァルターが即座に立ち塞がるが、ルーファスはそれを一蹴するように手を振った。
「引っ込んでいろ、ヴァルター! 黙って聞いていれば……なんだその腰抜けな提案は! 娘一人を人質に取られた挙句、敵の罠とも知らずに兵を返されて日和るとは、宰相も焼きが回ったか!」
「……言葉が過ぎますぞ、殿下。これは帝国の被害を最小限に抑え、体制を立て直すための苦渋の決断です」
宰相は冷ややかな目でルーファスを見据えた。先ほどまでの親バカな雰囲気は完全に消え去り、冷徹な帝国の宰相としての面威が復元されていた。
「苦渋の決断だと? 笑わせるな!」
ルーファスは吐き捨てるように言い、胸ポケットから拳大の妖しく輝く『漆黒の結晶』を取り出し、執務机の上に叩きつけた。
「見ろ! これが私の地下工房で完成した……対ライン用最終兵器【魔導中和結晶】だ!」
「……魔導中和……?」
「そうだ! ラインという男の強さなど、すべて奇妙な魔導具や要領の良い『魔導の応用』に過ぎん! 奴の戦術はすべて、魔力が存在する前提の上に成り立っているのだ!」
ルーファスは狂気に満ちた歪んだ笑顔を浮かべ、広げた両手で空を掴むような仕草をした。
「この結晶を核とした『広域魔導中和装置』を起動すれば、周囲数キロの魔力は完全に沈黙する! 奴のインチキな魔導兵器は、すべてただのゴミクズと化すのだ! 魔導というズルを奪われれば、あんな奴ヘタレのもやしっ子に過ぎん!」
「殿下……まさか、それを実戦で投入されるおつもりですか?」
ヴァルターが懸念を示したが、ルーファスは鼻で笑った。
「当たり前だ! 宰相、貴様がいくら腰を抜かそうと、軍部の主戦派はすでに私の味方だ。私はこれより魔導中和装置を特別列車に積み込み、直接パルーマへ出撃する! 泥臭い肉弾戦でラインの化けの皮を剥ぎ取り、セシリアを力ずくで連れ戻してやる!」
「待ちなさい、ルーファス殿下! 御前会議の決定を待たずに独断で動くことは許されん!」
宰相が立ち上がり制止しようとしたが、ルーファスはすでに背を向けていた。
「ハッ! 勝ち馬に乗れぬ愚か者はそこで指を咥えて見ているがいい! ライン……今度こそ貴様の息の根を止めてやる……!」
捨てゼリフを残し、ルーファスは風のように執務室を去っていった。
残された執務室には、再び重苦しい静寂が落ちる。
「……閣下。どうなさいますか?」
ヴァルターの問いに、宰相は深く、深く溜息をつき、倒れた椅子を起こして力なく腰掛けた。
「……止められんよ。主戦派の将校どもは、先の敗戦で名誉を失い、後がない。ルーファス殿下の暴走に乗っかる気満々だ……」
宰相は天井を見上げ、ぽつりと呟いた。
「帝国は……二つに割れるな。」
愛娘に嫌われたくない一心で「和平」へ舵を切ろうとした宰相派。
そして、新兵器を手にラインへの復讐と名誉挽回に燃えるルーファス率いる主戦派。
帝国内に亀裂が生じようとしていた。




