第十二話:望郷の船出と、戻らぬ令嬢
かつてアルベルト男爵が居城としていたパルーマの港には、異様な光景が広がっていた。
波間に揺れる数十隻の大型輸送船。
その甲板や桟橋を埋め尽くしているのは、つい先日まで王国軍と殺し合いを演じていた神聖ヴァルハイト帝国の兵士たち――約七千人であった。
彼らは武器を奪われ、列をなして船へと乗り込んでいく。
だが、その表情に凄惨な敗残兵の暗さや、奴隷として売り払われる者の絶望はない。むしろ、信じられないものを見るかのような困惑と、込み上げる深い涙に顔を歪ませていた。
「……本当に、身代金もなしにに帰れるのか?」
「ああ……傷の手当までしてもらった。ラインは、我らを殺すどころか、身代金すら要求せずに家族の元へ返してくださるのだ……」
口々に囁き合いながら船へ向かう兵士たち。
それを高台から見下ろすラインは、城のバルコニーの手すりに寄りかかり、ほっと胸を撫で下ろしていた。
(ふぅ……よかったぁぁぁ! なんとか無事に船に乗ってくれそうだぞ……!)
ラインの脳内には、勝利の歓喜など微塵もなかった。あるのは純粋な安堵と、計算通りのコストカットに対する満足感だけである。
(急に七千人を養うなんて、うちの国力じゃ破産確定だったからな。反乱を起こされるリスクも減るし、身代金の面倒な外交交渉を突っぱねて追い払うのが、一番安上がりで安全なんだよ。あー、これで余計な出費も減るし、ようやく平和なお昼寝ライフに戻れる……)
一人で「コスパ最高の解決策」に自画自賛していたラインだったが、ふと隣に立つ人物の気配に気づき、視線を向けた。
そこにいたのは、帝国宰相の娘であり、現在はラインの身を寄せる居候――セシリア=フォン=アルテンブルクだった。
彼女はいつもなら冷徹なまでに冴え渡る知性の瞳を伏せ、風に揺れる燃えるような赤い髪を抑えながら、どこか重苦しい表情で去りゆく帝国兵たちを見つめていた。その白い指先は、衣の裾を痛いほど強く握りしめている。
(……セシリア?)
ラインが首をかしげた、その時だった。
「……セ、セシリア様!? セシリア様ではございませんか!?」
桟橋を渡っていた帝国兵の列から、一人の老将軍が跳び出すようにして声を上げた。
擦り切れた軍服を身に纏いながらも、どこか品格を漂わせるその老人は、高台のバルコニーに佇むセシリアの姿を見るや否や、弾かれたように駆け寄ってきた。
警護の兵が即座に剣の柄に手をかけたが、セシリアが静かに手を挙げてそれを制する。
「……ヴァルター卿」
セシリアの口から漏れたのは、懐かしさと苦味が混ざり合った声だった。
ヴァルター・フォン・レック。父親である帝国宰相アルテンブルク侯爵の腹心の一人であった。セシリアが幼少の頃から彼女の成長を見守ってきたのだ。
老将ヴァルターはバルコニーの下まで駆けつけると、泥のついた地面に両膝をつき、感極まったように叫んだ。
「おお……お無事でしたか、セシリア様! 消息が途絶えてからというもの、宰相閣下がどれほど身を削る思いでおらるか……! 一時はどうなることかと焦燥に駆られておりましたが、まさかこのような形でお目にかかれるとは!」
「……父上が、私を?」
「左様にございます! 閣下は毎夜、貴女の姿絵が飾られた執務室で夜を明かしておられます! さあ、セシリア様! 幸いにもライン殿のご慈悲により、我らは無条件で本国へ帰還することを許されました! どうか我らと共に船に乗り、帝国へお戻りください!」
老将の真摯な叫びが、港の潮風に溶けていく。
「貴女が戻るとなればお父上はどんなにお喜びになるか!宰相閣下をお助けできるのは、実の娘である貴女しかおられません!」
「…………」
セシリアは言葉を失い、唇を強く噛み締めた。
彼女にとって、バルドゥア帝国は決して「捨て去るべき悪」ではなかった。
誇り高き故郷であり、幼少期から英才教育を受け、愛着を持って育ってきた祖国だ。そして何より、冷酷な政治家として恐れられながらも、陰で一人苦悩し、命を削って国家を支え続けてきた父の背中を、彼女は誰よりも近くで見続けてきたのだ。
(戻るべきなのか……? 父上のもとへ戻り、あの泥沼のような帝国の権力闘争の中で、父の右腕として戦うべきなのか……?)
胸を突くのは、故郷への愛着と、血の繋がった家族への激しい郷愁。
もし戻れば、自分は再び「帝国宰相の娘」という重苦しい肩書を背負い、政治の駒として生きていくことになるだろう。だが、それが自分の果たすべき義務なのではないかという葛藤が、セシリアの心を激しく揺さぶる。
彼女の手は震え、視線は彷徨うように足元へと落ちた。
――そんなセシリアの重苦しい雰囲気を横で察知したラインは、こめかみを引きつらせていた。
(うわぁぁぁ……! なんかめちゃくちゃ面倒くさそうな空気になってきたぞ……!)
ラインの脳内は、セシリアの情緒ある葛藤とは真逆のベクトルで高速回転していた。
(老将軍の言ってること、超正論じゃん! 実家に帰りなよセシリア! っていうか帰ってくれ頼むから!! 宰相の娘なんて超巨大な政治の爆弾をうちの城に置いておきたくないんだよ! 『娘を誘拐して洗脳した』とか言われて帝国から本気で逆恨みされたらどうすんだよ! 実家に帰るのがお互いのためだろ!?)
心の中で「早く船に乗れ!」と絶叫するライン。
しかし、ここで「早く出ていけ」と直接言えば、自分の器の小ささが露呈するし、周囲の部下たちに変な勘繰りをされるのも困る。
ラインは胃の痛みに耐えながら、できる限り「どうでもいい」という雰囲気を装い、溜息まじりにボヤいた。
「……別に、帰りたきゃ帰ればいいんじゃないの」
ぽつりとこぼれたラインの適当な一言に、セシリアがハッと顔を上げた。
「……ライン?」
「自分の実家なんだろ? 誰かに無理やり引き留められてるわけでもないんだからさ。他人が決めた立場とか義務なんてどうでもいいだろ。自分が『今、どこにいたいか』で決めなよ。帰りたくなったらいつでも帰ればいいし、残りたいなら勝手にいればいい。自分の人生くらい、自分で選びなよ」
俺としては、『帰りたけりゃ引き留めないからさっさと実家に帰って俺を楽にさせてくれ』という本心を込めた、精一杯の「帰宅の促進」だった。
――だが。
「……自分で、選ぶ……」
セシリアの耳には、その言葉が全く別の意味を持って響いていた。
帝国の宮廷では、誰もが彼女を「宰相の娘」あるいは「都合の良い政治の道具」としてしか見ていなかった。彼女の意志や感情など、誰も尊重してはくれなかったのだ。
だが、この目の前の青年だけは違った。
莫大な価値を持つ「帝国宰相の娘」というカードを前にしながら、それに執着することもなく、彼女を一人の人間として対等に扱い、その生き方の選択権を完全に委ねてくれている。
(ああ……そうだったわ……)
セシリアの胸の奥で、冷えていた情熱が温かく広がっていくのを感じた。
帝国への情はある。父親への愛着もある。
けれど、あの息苦しい政治の盤面に戻るのではなく、この頼りなく見えてどこか底知れない、自分を「ただの士官学校時代の同期のセシリア」として見てくれる青年の傍らで、自分の意志で未来を見定めたい。
自分を縛り付けていた重い鎖が、いま確かに解け落ちた気がした。
セシリアはゆっくりと息を吐き出すと、迷いの消えた澄んだ瞳で、バルコニーの下の老将を見下ろした。
「……ごめんなさい、ヴァルター卿」
「な……っ!?」
「私は、ここに残ります。誰に命じられたわけでもなく、私の自由な意志として、ラインの傍らに留まることを決めました」
「セ、セシリア様! なぜですか!? 帝国を、宰相閣下をお見捨てになるのですか!?」
取り乱す老将に対し、セシリアはどこか晴れやかな、しかし決意に満ちた微笑みを浮かべた。
「お見捨てなどしていません。ただ、私の居場所はもうここにあるのです。父上には……『どうかお体に気をつけて、お食事は残さず召し上がってください』と……一人の娘としてのお言葉をお伝えください」
「セシリア様……っ!」
老将ヴァルターは絶句し、深く、深く頭を垂れた。
誇り高く、誰にも心を許さなかったあの宰相令嬢が、これほどまでに穏やかで強い眼差しをしているのを、彼は見たことがなかったからだ。
(……勝ち目など、あるはずがない……)
老将の心に、深い寒気が走り抜けた。
身代金も取らずに七千の兵を救う慈悲。そして、帝国の最高頭脳たる宰相令嬢の心すらも、縛り付けることなく完璧に自らの元へ繋ぎ止める底知れぬカリスマ。
ラインとは、剣や大砲の強さだけではない。人の心そのものを掌握してしまう、とんでもない怪物なのではないか――。
「……承知いたしました。このヴァルター、セシリア様のお言葉、しかと閣下へお伝えいたします……!」
老将は最後にもう一度深く礼をすると、重い足取りで帰還船へと戻っていった。
一方、バルコニーの上では――。
(うわあああぁぁぁぁッ!? なんで残る決断してんだよぉぉぉッ!!)
俺は心の中で頭を抱えて絶叫していた。
(『実家に帰りな』って言ったじゃん! なんで『あなたの傍に残ります』みたいな感動的な空気になってんの!? 居候減らなかったじゃん! 宰相からの恨みフラグもバッチリ建っちゃったじゃん!! 僕の平和なお昼寝ライフはどこ行ったんだよぉぉぉ!!)
顔を蒼白にして固まる。
そんな俺の横顔を、セシリアは愛おしそうに、信頼を込めた瞳で見つめていた。
「ふふ……ありがとう、ライン。私の我儘を許してくれて」
「あ、はは……気にしないで……」
…もう、吐きそうである。
やがて、アンカーが引き上げられ、大型輸送船が次々と港を離れていく。
甲板に鈴なりになった七千人の帝国兵たちは、遠ざかる城のバルコニーに向かって、割れんばかりの歓声を上げた。
「聖王ライン様万歳!」「我らを救いし慈悲深き王よ!」「ライン陛下、万歳ぁぁぁッ!!」
平原と海を揺らすほどの感謝の叫びを背に受けながら、ラインはただただ、自分の胃の痛みに耐えることしかできなかった。
◇
数日後。
バルドゥア帝国の首都――帝都ヴァルハイト。
重々しい装飾が施された帝国宰相の執務室は、針が落ちる音すら聞こえるほどの静寂に包まれていた。
執務机の前に佇むのは、急報を携えて戻ってきたばかりの伝令官。
そして上座の重厚な椅子に腰掛けているのは、帝国の政権を一身に担う男、帝国宰相――アルブレヒト・フォン・アルテンブルクであった。
過労と心労により、かつての鋭い面影に影が落ちている宰相は、震える手で報告書を握りしめていた。
「……もう一度言え」
低く、地鳴りのような声が執務室に響く。
「は、はっ! オルティジアの港より、我が国の捕虜七千人を乗せた帰還船が本国へ向けて航行中との一報が入りました! 敵国ラインは身代金も要求せず、全員を無条件で解放したとのこと……!」
「……セシリアはどうした。帰還船に乗っているセシリアの姿は、確認されたのか?」
宰相の問いに、伝令官は生唾を飲み込み、恐ろしいことでも口にするかのように声を震わせた。
「……報告によれば、セシリア様は帰還船には乗られておられません。老将ヴァルター卿の必死の説得を断り……自らの意志で、ラインの元に留まられた模様です」
「……何……?」
宰相の手から、報告書が力なく落ちた。
羊皮紙が床に落ちる乾いた音が、静寂の執務室に虚しく響く。
最愛の娘が戻らないという事実、そして彼女が自らの意志で敵国の王の元に残ったという報せに、帝国の頂点に立つ男は、ただ呆然と絶句するしかなかった。
――この決定が、帝国の政治を二つに切り裂き、やがて来る大乱の引き金になるとは、まだ誰も知る由もなかった。




