第48話 千年越しの抱擁
前方の樹間から影がほどけた。若いエルフが一人、胸に手を当てて静かに礼をする。
「結界の印でわかった。あなた方が通ったことは里に伝わっている。導き手がお待ちだ。こちらへ」
声は抑えられていたが、急いでいる気配がある。俺たちは視線を交わし、頷いた。
苔むした根の門をくぐると、空気の密度が一段深まった。湿り気は澄み、音が少ない。足音は苔に吸われ、風は高い枝でだけ鳴る。木肌は滑らかで、幹には古い刻みが続く――言葉というより、祈りの形だった。
やがて木々の間に、淡い光を帯びた家々の影が見えはじめる。屋根は枝を編んだようで、壁は苔と花に覆われ、どこまでも自然と一体になっている。
俺たちが通ると、作業の手が止まり、顔がこちらを向いた。子供たちの影がのぞいては走り去り、大人たちは警戒と驚きをないまぜにした瞳で俺たちを見ている。小さな囁きが、葉擦れに混じってほどけた。
案内人は振り返らない。歩は乱れず、里の中心へとまっすぐに進む。俺たちもそれに続いた。
円い広場に出る。苔の輪の内側に白い石が四つ、風の方角へ向けて据えられている。周囲の気配がすっと引き、風の音だけが残った。
「ここより上の間。……言葉を慎んで」
案内人が一歩退いたその静けさの中で、ひとりが現れた。
長い耳。薄い銀の髪。灰緑の装束は木肌に溶け、歩に乱れはない。左耳には二重の輪飾り――交差に留めた細い銀の環が重なる。瞳は淡い琥珀で、光を宿したように揺らぎ、鋭さよりも深い静けさを湛えている。
里の者たちが一斉に頭を垂れ、空気が自然に道を開けた――この里を導く者だと、誰に言われずともわかった。喉の奥で、言いかけた名がひとつ、かすかに引っかかった。
「外から来た者よ。結界が揺いだとき、森は告げた。四つを返す者がある、と。森はお前たちを拒まなかった。ゆえに、この場に迎える」
言葉は静かで、揺るがない。レオンが背を正し、ソフィは息を整え、リィナは地図を胸に抱え直す。エラは視線を巡らせ、俺の袖の影に指先を寄せた。
その瞳が仲間を順に掠め、最後に俺で止まる。淡い琥珀に、ひときわ柔らかな色が差した。
「……シン」
名が囁かれた次の瞬間、彼女は一歩、二歩と踏み出す。里の誰もが息を呑むなか、俺をためらいなく抱きしめた。
どこかで木鈴がかすかに鳴り、広場の空気が一瞬だけ固まった。
衣の柔らかさと、冷たい指先の微かな震え。理にかなった導き手の姿はそこになく、胸の奥で懐かしさがざわめいた。だがまだ、その名を形にできない。
「……千年、待った」
小さなつぶやきは、俺の耳だけを震わせた。
小さく漏れた声は、俺だけに届いた。レオンもソフィもリィナも、ただ呆然とその光景を見ている。エラだけが、不安げに裾を握った。
俺は言葉を失った。布越しに伝わる鼓動だけが確かだった。
左耳の輪飾り――二重の輪を交差に留める癖。荒い画面でも二つの光点に見えた――あの耳飾りだ。
それでも、まだ名は結べない。
(……喉まで上がる名がある。けれど、まだ形にならない)
ドットの粗さに隠れていた『少年』の像が、胸の内でぐらりと揺れた。
やがて彼女は腕をほどき、僅かに息を整える。公の調子に戻った声で、周囲へ短く告げた。
「客人だ。もてなせ。……話は、のちに」
灯がともり、ざわめきがゆっくり戻る。けれど俺の耳には、さっきの一言だけが残っていた。
――千年、待った。




