第44話 月の廊下で
夜更け。宿はしんと静まり、遠くで虫の声だけが続いている。
レオンを起こさないように息を殺して、俺は身を起こした。胸の奥がざわついて、まぶたがどうしても落ちてくれない。
「……寝られねぇな」
小さく呟いて靴を履き、きしむ床板に気をつけながら部屋を出る。廊下には月明かりが落ちて、窓の格子が床に薄い影を作っていた。
角を曲がったところで、足音が重なる。
「……シン?」
「ソフィ?」
女部屋の戸口から出てきたソフィが、肩に羽織をかけて立っていた。互いに目を瞬かせ、思わず声を潜める。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「そっちこそ。……眠れないの?」
苦笑いが同時にこぼれる。俺たちは窓際まで移動し、木枠にもたれて腰を下ろした。外は澄んだ夜気。白い月が屋根の線をなぞっている。
しばらく黙って風の音を聞いていると、ソフィがぽつりと口を開いた。
「……明日から、本当にエルフの里を目指すのね」
「ああ。自分の目で、どんな場所か確かめたい」
言ってから、胸のざわつきが少し落ち着いた気がした。立ち止まる理由が、いまはどこにもない。
「……シンって、いつも迷わないのね」
「そんなことはないさ。……ただ、立ち止まるほうが怖いだけだ」
ソフィが小さく笑う。
「……ずるい」
「ん?」
「なんでもない。ただ……そういうところが、人を惹きつけるのよ」
惹きつける、ね。俺は返す言葉を見つけられず、月を仰ぐ彼女の横顔を盗み見た。夜風が羽織の端をめくり、髪を少し揺らす。
沈黙は気まずくなかった。むしろ、ここにある静けさごと、明日の道の続きに思えた。
「……そろそろ戻らなきゃ」
「ああ。……おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
立ち上がる足音が二つ。別々の扉が静かに閉まる。
窓の外で虫の声が戻ってきた。月の細い筋が床を渡る。
——明日は森の縁を抜けて、里へ向かう。もう、簡単に引き返せる距離じゃない。




