恋
その夜、アリスは中々寝付けなかった。
「恋……か」
その言葉を呟くと同時にクルスの顔が浮かんで、アリスは自身の顔を枕に埋めてじたばたした。
そして再び赤い顔を上げて、
「クルス……」
名前を呼んでみる。
口の中で転がるその名前はとても甘くて、言葉を吐き出したはずなのにアリスを酷く幸せな気持ちに満たす。
自分では自覚がなかったが、アリスは随分と面食いであったらしい。
そしてクルスは優しい。
初めてで何も分らないアリスに、手を差し伸べてくれて。
今思えばフラットはそのことに気づいていたのかなとアリスは思う。
けれどこれはまだ、アリスが一方的にクルスが好きというただの片思いでしかない。
カップルのように見えるとノイズは言っていたけれど、アリスが今まで見てきたクルスは、誰にでも優しかった。
だからそれは他の人と同じというだけで、そう、クルスが優しいだけで。
「……なんだか悲しくなってきた」
アリスがクルスを好きだから、きっと、アリスはクルスに好きでいて欲しいのだ。
自分が望んだ分だけ相手からも求めてしまう……けれど。
「……何も知らないままだから、今みたいに一緒に居られるから」
それで良いのだと、恋心だって、クルスが受け止めてくれなければ、微かな甘さの残るほろ苦い思い出として諦めが付くだろう。
だから、きっとこれが最良なのだ。
アリスはそう思うと急に何も考えたくなくなってしまい、そして、ようやく眠りへとついたのだった。
「……というわけです。どうしましょうか」
レイナの言葉に、神殿の長である女性、ミーシャが困ったように頬に手を当てた。
年若く見える美女で、体を覆う服を身にまとっているが、それが逆に禁欲的な色気のある、一見穏やかな女性だった。
けれど神殿の長だけあり、その知識判断力によって、数々の敵をねじ伏せてきた実績のある恐ろしい人物だった。
そんな彼女はレイナの報告に少し考えてから、
「確かに、かの方はクルスといいましたし、その方と仲の良い、一部で寵愛されている、きゃー、と婦女子に評判のフラットという貴族もいましたね……」
「偽名も使わないでふらふらと市井に出て、何をやっているんですか」
「彼らは、強いですからね。その程度造作もないですし、むしろ最終的に何かあった場合に彼ら自身が直接手を下しますから」
「……やはりアリスを彼らに近づけさせるのは……」
「レイナは友達思いなのね」
ほわんとミーシャの言ったその言葉に、レイナが顔を赤くして、
「ち、違います、私はただ、アリスの“女神”の力が……」
「一匹狼の貴方が初めて出来た、仲のいいお友達ですものね」
「う、い、いえ……」
「なんだか昔を思い出して、懐かしいわね。私も、アリスの母親のユナちゃんとは今も親友だし。一生のうちでそういった人に出会えるのは幸運な事よ、レイナ」
「う……ぐ。ですが、近づけさせるのは、問題があるのでは?」
「どうかしらね。“女神”は彼らが大好きだからね……所でアリスは、クルス様に好意を持っていたかしら」
「はい。しかも自覚しかけていたようです、今回は」
外に出てきてレイナはフラットを追い掛け回していたのだが、そこに現れたのは頬を染めたアリスだった。
しかもなんだかクルスの方も妙に、アリスに対して優しげというか。
クルスがもしも想像した通りの人物ならば、多分問題はない……と思う。
ただあのフラットの力を見ると、レイナは不安を隠せない。そんなレイナにミーシャは、
「あらあら。でもあちらもあちらで厄介な問題を抱えているし、しばらくは様子見かしら」
「厄介な問題?」
「そうね。けれどどの道、アリスが望まなければ、守るために私たちは全力でそれに手を貸すだけよ?」
「望んだなら?」
「諦めましょう。そして、その時には、アリスにはその力を自覚してもらいましょう」
ミーシャが嘆息して、そこでレイナを見て、
「それとあちらには一度話をつけておかないと。アリスの力はただ、遺跡を動かすだけではないと」
「そうなのですか?」
「そういう話にしておいたほうが無難なのですが、何故今になって突然動き始めたと思うのですか? 遺跡が。私達が魔物に対抗するためのその装置が」
「……まさか」
それにミーシャが大きく頷く。
「異界からの侵略が、再び始まろうとしているのです」
「……現時点では、クルス様や我が弟フラットに遺跡は手を出すどころか、守る方に働いたと言っていいでしょう」
ノイズのその報告に、ざわめきが増す。
それはそうだろう、ついこの前まで、遺跡はクルス達を含めて自分達をも敵とみなしていると焦っていたのだから。
ここにいる者達が全員例外なく強い魔物の血を引いているのだから、敵とみなされたと不安を覚えていたのだ。
とはいえクルスという別格の魔物の血を引く彼に関しては、ここにいるもの全員が命がけで守ろうとするだろう。
古から受け継がれた“血”による従属によって。
そしてここに居る誰もが魔物の血を受け継ぐと同時に残虐性を増幅させているのだ。
とそこでこの会合の一人、青い髪をした金色の瞳の美丈夫、イエラが手を上げてノイズに問いかける。
「それでその少女は、どうなのだ?」
「まだ調べている最中でしてお答えしかねます」
「遺跡を動かしたらしい事も、クルス様が気に入られている事も?」
「どちらもまだ判断しかねる状況です。下手に手を出して、彼女がもし遺跡を操る何らかの手段を持っていた場合、我々が敵とみなされる可能性があるわけですから」
そのノイズの答えにイエラは黙る。
下手に手を出して敵意を抱かれてはどうしようもない、となるとしばらくは様子見するしかない。
そこで、ノイズが話は終わったとばかりに次の……本当に重要な問題を切り出したのだった。
暗闇の中に、フラット達を襲った少年がいた。
「面倒なことになったな。でも、あの方の部下には会えたし……大した事なさそうだし、あの方も随分弱くなられているのだろう」
それは非常に少年にとって都合が良かった。
傀儡として操るには都合がいい、なにせ昔のあの方々はあまりにも強すぎて、恐ろしくて、“血”による従属があるとはいえ扱いにくい存在だったのだから。
それが少しでも弱まるならば、少年たちは動きやすい。後は、
「女神とその眷属共が面倒なだけだが……随分と弱くなっているようだから、な。でなければ意識が弱いあの魔物があれほど長くあそこにいない。そして、僕への攻撃も、あの程度だった」
弱くなっていなければ、遺跡の攻撃を受けたあの時、少年は生きていなかっただろうから。
「……油断していると考えても、甘い事には変わりない。そしてそれは弱さだ」
そう呟いて、先手を同属達よりも打てている少年は、にっと酷薄に笑ったのだった。




