緊迫の建国記念日5
耳に届いたロージィの言葉は、ライナには意味不明で理解不能だった。
「――、――っ!?」
思わず口を開けて叫んでいた。もちろん相変わらず声は出ていない。だが、思わずそういう動きを取ってしまうのは仕方ない事だろう。その為、ロージィがライナの事を『ライナ様』と敬称付きで呼んだことも思考の隅に追いやられていた。
ロージィの声は小さいものだったので、遠巻きに注視している他貴族たちは気づいていないようだが、目の前に揃っている公爵一家はそんなライナの驚いた様子さえ新鮮に映るようで終始にこやかだ。
しかしライナはそれどころではない。自分が与り知らない間に、何がどうなって養女などという話になっているのか分からないが、突然言われたところで『はい、そうですか』と受け入れられることではないのだ。
ゆっくりとライナの表情が曇り、顔色が悪くなっていくのを見て、公爵たちは驚いたように顔を見合わせた。
もし、養女ということになれば……
―――わたしは、父さんと母さんの子供じゃなくなっちゃうの?
がっしりとした体格で寡黙な父。大きな手で頭を撫でてくれた温かさを思い出す。そして母が自分を呼んだ、最後の悲痛な声が浮き上がる。
―――兄さんも兄さんじゃなくなっちゃうの?
温かくて面倒見のよかった兄。一緒に遊んでくれた兄の面影が浮かんでは消える。
―――家族がみんな死んでしまったんだとしても、わたしは【精霊士】ディロの娘でいたいのに。
そんな小さな願いさえ取り上げられてしまうのかと想像すれば、ライナの目尻に涙が浮き上がってくるのはすぐだった。悲痛な表情になり、涙が零れそうになったライナに、公爵夫人セリーナが慌ててハンカチを取り出し、その涙を拭ってくれた。
「あなたの事は聞いているわ。大丈夫よ、ライナはライナのままだから。それに辺鄙な領地に来いなんて言わないし、今まで通り伯爵家に住まうことは決定しているから、生活が変わる事もないわ」
セリーナは困惑しつつ、表情の強張りが解けないライナへ優しく声をかけた。
ライナはライナのままでいい。と言うのであれば現状のままでいいではないかと思ってしまうが、感情が乱れてどう表現すればいいのか分からない。こんな時声が出ない事が本当に不便で仕方ない。
「名目上で養女となるだけだから、安心してちょうだい。もちろん、わたくしはあなたと本当の母娘のように接すようにできれば嬉しく思うけれど、今日初めて会った人にそんな事は難しいと分かっているから……名前がライナ・リグリアセットになるだけで、ライナはライナのままよ」
小柄なライナは、実際の年齢よりも幼く見える為か、セリーナは小さな子供に言い聞かせるように、ゆっくり優しく諭すように言ってくれた。その声や態度からはライナを心配し、慈しむような感情しか受け取れず……ライナは結局小さく頷いて了承したのだった。心のどこかで押し問答を続けても、動き出している流れには逆らえないのだと達観した気持ちもあった。
ただ気になるのは、このことをグレイは知っているのかという事だった。もし彼がこの場にいれば、きっと全面的にライナの味方になってくれただろうと思うと、隣にいつも自分を見つめてくれている大きな存在がいない事が寂しく感じられたのだった。
それがどんな気持ちなのか―――ライナにはまだわからない。
ライナとセリーナ、二人の様子を見守っていたアンヌは、ライナがしっかりと頷いたのを見て安堵の息を吐きだした。隣を見れば、父である公爵本人もほっとした顔をしている。どちらかと言えば、この件では振り回されている側であるリグリアセット公爵は、相変わらず人が良く、そして懐の広い人物であった。
「さて、その件はあとで正式に発表するからね。その時にわたくしとグレイ様の婚約破棄も同時に知らされるのよ」
「……」
アンヌはさらりと言ってのけたが、個人の婚約破棄をこのような公式の場で公表しなくてはないのかと、思わず縋るように前にいる公爵本人に視線を向けていた。だが、公爵も夫人も困ったように笑うだけで特に何も言わない。
「お揃いのドレスだもの。わたくしたちが姉妹になるのだって見せつけるいい機会だわ」
にっこりと微笑んだアンヌの表情に悲壮な影はなく、それだけはライナの胸に安堵を齎した。
その後、檀上でファーラルを始めとする6人の議長が揃い、リグリアセット公爵が養女を迎える件が公表されると、会場は大きなざわめきに包まれた。公爵が愚王と誹りを受ける男の異母弟だというのは周知の事実だ。そのため、勘ぐるものは養女として紹介されたライナが、隠されたご落胤なのではないかと邪推する者もいたのだ。
だが、それに関してはファーラルがその場でライナがドルストーラからの孤児であることを公表し、後見人としてバーガイル伯爵の名前が告げられ、更にざわめきが増した。国で唯一の公爵位が養女とし、軍部とのつながりも深いバーガイル伯爵の後見。そしてそれはグレイとファーラルの師弟関係を知っている者からすれば……ロットウェル最大の権力者を味方につけていると、頭の回転が遅くない者であればすぐにはじき出される答えだからだ。
だが、ライナは壇上に上げられ四方八方から無遠慮に飛んでくる痛いほどの視線に、ただただ耐えるしかなく、貴族たちが内心葛藤を抱えたりしていることなど、まったく気が付いていなかった。ひたすら俯いて動かず、早く時間が過ぎて伯爵家の別館―――自分の部屋に帰りたいと、そればかり考えていたのだった。
そんなライナを無視し、続いてアンヌの婚約破棄が伝えられると、会場はさらにざわめきを増した。ライナが公爵家の養女になるという話題はこの一件で彼らの思考から飛んで行ってしまっただろう。
騒がしくなる会場を見渡していた公爵は、静かに―――けれどはっきりと聞き取れる声を心なし張り上げた。
「公爵位にあるものとして、不名誉も公表すべきと判断した結果ではありますが、決して娘を噂の渦中に巻き込むためのものではないとだけは、皆様にご理解いただきたい。そして、伯爵家と袂を分けたつもりもないということも記憶に留めて頂くようお願い申し上げます」
静かで聞き取りやすく―――そして威圧感のある声音。普段の温厚な公爵からは想像もできないほどの低い声は……どこかあの愚王と彷彿とさせるものを秘めていた。
誰かが緊張でごくり、と息を呑んだ音が響く。
「皆さん、聞いて下さい」
その緊張をぶった切るように、なぜか楽しげな声が響いた。思わず全員が声のした方へ視線を向けると、ファーラルが笑顔で手を振りながら舞台の中央に進み出てきたところだった。
「ライナの事も、アンヌの事も、わたしには護る義務がある」
決して張り上げた声ではないのに、会場の隅にまで行き渡っているのは、もしかすればなにか情人では理解できない精霊の使い方をしているのもしれない。
「この一言だけでご理解いただければ、わたしは嬉しく思います」
それはつまり『なにかあったらファーラル議長様が直々に動いてやるから覚悟しておけよ』という意味だと、その場にいた全員が正しく受け取り、背筋を寒くさせていた。
公表が終わると、公爵一家とライナは揃って壇上から降りた。すぐに待ち構えていたミラビリスに軽く抱きしめられる。ふと見れば、同じく近寄ってきていたファヴォリーニとクレールもほっとした顔をしていた。いつから養女の計画を練っていたのかは知らないが、彼らにとっても必要な処置だったのだろうと考えられるようにはなっていた。
―――伯爵家の養女じゃだめだったのかなぁ。
ミラビリスを第二の母と慕う気持ちは、いつの間にかライナの中にあった。ファヴォリーニにしても、厳しさの中に優しさを持ち合わせ、そして寡黙なところはディロに重なる部分もある。だから、伯爵家の養女ではなく、公爵家の養女となってしまったことは少し残念な気持ちではあった。
遠巻きにチラチラと公爵一家と伯爵一行を見ていた貴族たちは、仲良さげに談笑している彼らに近寄ることもできないでいた。嫁になるはずだったアンヌは、躊躇いなく義母になるはずだったミラビリスに話しかけているし、セリーナも混ざってとても楽しげに会話を進めている。ライナはまだ緊張している様子だったが、笑顔の公爵に付き添われながらファヴォリーニに近づき、会話を進めている。ライナも近くにファヴォリーニたちが居てくれることに安心したのだろう、表情を緩めていた。
そんな彼らの様子はとても穏やかで、婚約破棄なんてありましたか?と言わんばかりの雰囲気だ。それは周りに円満な破棄だったのだと印象付けることになり、どちらかが不貞をしたといった、不名誉が原因ではないと知らしめることになっただろう。
暫く談笑していた一行だったが、自然と輪は乱れ、いつの間にか顔見知りの貴族たちも会話に混ざりだしているようだった。ライナには誰がどういった爵位を持った人なのかも分からず、一歩引いて壁に近寄りもたれかかっていた。
ふぅと息を吐きだしたところで緊張の糸が切れたのだろう。肩から全体にどっと疲れが押し寄せてきた。緩めに絞めてもらっていたコルセットも、不慣れであるため呼吸も苦しく感じる様になって来た。考えれば、ドレスに着替える前に軽食は食べたが、それ以降食欲も無くてなにも食べていなかった。確実にエネルギーが不足している。普段感じない緊張も加わり、体力はすでに残っていないと言っていいだろう。
いつもしっかり三食。時にはおやつもきっちり食べていたライナにとって、空腹は辛いものである。だが残念ながらコルセットが邪魔して食欲がわかない。
「ライナ、どうしたの。真っ青よ」
苦しそうにしていたライナに気付いたのはアンヌだった。一人で姿を消したライナを探してくれていたのだろう、少し息が乱れている。
「急にいなくなるんですもの―――もしかして苦しいの?」
顔色の悪いライナの前に回り込み、その細い肩を撫でるように触れた。先程、養女の件を初めて聞かされた時も、壇上に上げられたときも顔色は良くなかったが、今の状態は心理状態の問題ではなく、体調が原因だと察したようだ。
「ロージィ!……あら、どこに行ったのかしら」
いつも傍に仕えている筈の姿が無く、アンヌは心細げに周りを見渡した。だが、やはり目的の人物の姿は見つけることが出来ず、とりあえず近場に空いているソファーを見つけたのでライナと共に座り込んだ。
「城にある空き部屋に案内してもらいましょうか。そこでコルセット外してもらった方がいいかもしれないわね」
ライナに聞かせるように提案してみるが、そのライナはただぼんやりとアンヌを見上げるだけだった。うっすらと化粧は施してあるが、それを抜きにしても顔色が悪い。不慣れな城への登城。そして貴族だらけの会場。突然の養女話。いままでのんびりと伯爵家で暮らしていたライナには、あまりにも目まぐるしい時間だっただろうと思えば、体力も精神も擦り減ってしまったことは否めない。
「誰か見知った人が通りかかってくれれば……」
チラチラとこちらを気にしている風な人物はいるのだが、ファーラルが釘を刺した手前、気楽に話しかけることも憚られるのだろう。視線は感じるが、どうしたのかと声をかけてくれる人はいなかった。
―――もう、これだからプライドだけ高い貴族って!こんなのばっかりだから、お母様は中央都市が嫌いなんだわっ
セリーナが寂れた領地からなかなか出てこず、貴族間の付き合いも最小限にとどめている原因をアンヌもまた、身をもって実感したのだった。
「お嬢様!」
淑女にあるまじき、歯軋りをしそうになったのを寸でで止めたのは、聞き慣れた従僕の声だった。駆け寄って来た姿に安堵しつつ、怒ったように眦を吊り上げた。
「ロージィ!」
「どうされましたか。ライナ様のお顔が優れませんが……」
「どこに行っていたの。探していたのよ!」
「申し訳ございません……お傍を離れるご許可を頂く間もなく、呼びつけられておりまして……」
「呼びつけられた?」
妙な言い回しにアンヌは眉を顰めたが、今はライナの体調不良が最優先だ。
「すぐにお父様かお母様……いいえ、ミラビリス様を探してきて」
「かしこまりました」
アンヌの言葉にロージィは軽く一礼だけすると、すぐに人波溢れるホールに向かって姿を消した。
すいません、すいません。
あと1話続きます…あぁぁぁーー2月中に終わらせる予定だったのにー




